第31話「暗殺者と荷物持ち」
5階層の深部探索が始まって2時間。
神盾機関チームは、地下都市の廃墟が広がる5階層の奥域を慎重に進んでいた。崩壊したビルの残骸が壁のように並び、天井は見えないほど高い。蛍苔の光は3階層や4階層よりもさらに弱く、視界は常に薄暗い。配信ドローンが放つ照明だけが、チームの周囲を白く照らしている。
魔素密度は4階層の2倍以上。この濃度になると、配信ドローンの通信にも影響が出始める。映像にノイズが走り、音声が途切れる。ドローンの稼働可能範囲も狭まっており、チームから50メートル以上離れると信号が途絶する。
つまり——カメラの死角が、飛躍的に増えていた。
(……5階層の魔素密度。この濃さだと、ドローンの有効範囲は半径40メートルがいいところだ。レイラの氷眼も、魔素ノイズで感知精度が落ちてる。見えない場所が増えてる)
最後尾の刃は、バックパックを背負いながら静かに考えていた。
(そして——掃除屋は、この環境を利用してくる。間違いなく)
刃の全域魔素感知は、5階層の高濃度環境でもなお正常に機能していた。半径500メートルの感知範囲は維持されている。師匠の地獄のような修行のおかげだ。
その感知が、300メートル先に3つの気配を捉えていた。昨日と同じ殺気。隠蔽術式で気配を消しているが、刃にとっては蛍苔の中の蛍光灯のようなものだった。
(……動いてる。こっちのルートに合わせて並走してる。タイミングを計ってるな)
刃は水筒の水を飲みながら、前方のレイラを見た。銀色の髪が薄暗い通路の中で微かに光っている。
(……今日、来る。確信がある。環境が掃除屋にとって最高の条件だ。ドローンの死角が広い。チームはまだ崩落救出の疲労が残ってる。5階層の魔素密度でレイラの氷眼も精度が落ちてる。仕掛けるなら、今日しかない)
刃は小さく息を吐いた。
(面倒だが——今日で終わらせる)
◇ ◇ ◇
それは、チームが廃墟の十字路に差し掛かった時だった。
配信ドローンの映像が、ぶつりと途切れた。
「——ドローン、通信断!」
チームのオペレーターが叫んだ。画面が砂嵐になる。2機のドローンのうち1機が完全に沈黙し、もう1機は辛うじて映像を送っているが、ノイズだらけで使い物にならない。
「局所的な通信妨害。魔素ジャマーの類か?」
ガレスが斧を構えた。
「いいえ、これは——」
レイラの氷眼が警告を発した。しかし5階層の高濃度魔素がセンサーを撹乱し、データが不安定になっている。敵の位置も数も、正確に把握できない。
「全員、警戒態勢! 背中を合わせて——」
レイラの指示が完了する前に、天井から閃光が走った。
煙幕。毒煙ではない。純粋な視界遮断用の煙幕弾。一瞬でチームの視界が白く塗りつぶされた。
「散開するな! その場を——」
レイラの声が途切れた。煙幕の中で、何かが彼女の腕を掴んだ。拘束術式を纏った金属のワイヤーが、レイラの右手首に巻きつく。氷眼が拘束の解析を試みるが、術式の構造が複雑すぎて即座には解除できない。
(——プロの仕事。拘束と分断を同時にやってきた)
レイラは左手で氷の刃を生成し、ワイヤーを凍結させて砕いた。しかしその1秒の隙に、煙幕の向こうから短剣が飛来した。レイラは氷の盾で弾いたが、衝撃で後方に押された。チームとの距離が開く。
「レイラさんが分断された!」
ガレスの声が煙幕の向こうから聞こえた。しかし煙幕は濃く、チームメンバーはレイラの位置を視認できない。
煙幕が薄くなった先に、レイラは立っていた。十字路の右側の通路に押し込まれた形で、チームの本隊からは10メートル以上離れている。
そして——その通路の両脇と正面に、3つの影が立っていた。
掃除屋。
グレイが正面。二本の長剣を抜き、銀灰色の髪をなびかせている。冷たい目がレイラを見据えていた。
ハンナが左側。毒針グローブの指先が微かに光っている。
ドルクが右側。ナックルダスターを嵌めた両拳をゆっくりと構えた。
「蒼氷姫。初めまして」
グレイの声は、職業的な平坦さだった。
「ダンジョン内での事故は、よくあることだ」
レイラは蒼い瞳を細めた。蒼氷姫の顔。恐怖はない。ただ、冷徹な戦闘思考が回転している。
(3人。全員Aランク相当。正面の二刀使いがリーダー。左の女は搦め手。右の大男はフィジカル特化。……正面から3人同時は、私でも厳しい。しかし——)
レイラは氷の剣を左手に生成し、右手に魔素を集中させた。
「事故で片付ける気? ……残念だけど、私は事故では死なないの」
戦闘が始まった。
グレイの二刀が閃き、レイラの氷の剣と交差した。金属と氷が激突し、冷気が散る。グレイの剣技は正確で無駄がない。15年の暗殺キャリアが磨き上げた、致命的な精度の刃物捌き。
ハンナが左から毒針を飛ばした。レイラは氷の壁で防いだが、毒針の一部が壁を貫通し、腕を掠めた。麻痺毒。レイラの右腕の感覚が鈍くなり始める。
ドルクが右から突進した。巨体からは想像できない速度。レイラは氷の床を生成して回避したが、ドルクの拳が通路の壁を叩き、壁が粉砕された。Aランク探索者を正面から殴り倒すフィジカルは伊達ではない。
レイラは互角以上に戦っていた。3人を相手取りながら、氷の槍、氷の壁、氷の剣を次々と展開し、攻防を繰り広げる。蒼氷姫の名は飾りではない。
しかし——じわじわと削られていく。毒の麻痺が右腕に広がり、拘束術式の残滓が魔素の循環を阻害している。3対1の消耗戦は、どれほど強くても不利だった。
(……あと30秒。30秒持たせれば、ガレスたちが煙幕を突破して来る)
レイラは歯を食いしばり、氷の壁を展開して時間を稼ごうとした。
その時、グレイの二刀がレイラの氷の壁を斬り裂いた。正面ががら空きになる。ハンナが拘束ワイヤーを射出し、レイラの左足首を捉えた。動きが止まった瞬間に、ドルクの拳がレイラに向かって振り下ろされた。
回避不能。
レイラは目を閉じなかった。蒼氷姫は、最後まで目を開けている。
「——刃、手伝って」
小さな声。しかし確信に満ちた声だった。
レイラは知っていた。彼が、そこにいることを。
——通路の壁際に、バックパックを背負った男が座っていた。
いつからそこにいたのか。煙幕が張られた時に、チームとはぐれたポーターが偶然この通路に迷い込んだのか。あるいは、最初からここにいたのか。誰にも分からない。
刃は壁に背を預けて、バックパックの紐を結び直していた。まるで戦闘とは無関係の場所にいるかのように。
掃除屋の一人、ドルクが刃に気づいた。
「邪魔だ、そのFランク」
ドルクの左手から短剣が飛んだ。ターゲットではないFランクのポーターを排除するための、事務的な一撃。Aランク相当の速度で投擲された短剣が、刃の首元に向かって飛ぶ。
刃は首を傾けた。
5センチ。短剣が首の横を通過し、背後の壁に突き刺さった。
「……危ないな。作業中なんだけど」
刃はバックパックの紐を結び終えた。そしてレイラを見た。
「……いいの?」
「いい。カメラ落ちてるし」
「……了解」
刃が立ち上がった。
——その瞬間。
グレイの全身が総毛立った。
理由は分からなかった。目の前にいるのはFランクのポーターだ。魔素出力はゼロに近い。武装もない。脅威の欠片もないはずの存在。なのに——。
15年のキャリアが磨き上げた生存本能が、グレイの脳幹に直接叫んでいた。
(逃げろ)
グレイは叫びに従おうとした。しかし、体が動かなかった。動けなかったのではない。動く時間がなかった。
刃は歩いた。
ただ、歩いただけだった。バックパックを背負ったまま、ゆっくりと前に出た。
3秒後。
グレイは地面に倒れていた。二本の長剣は鞘に収まったまま——いや、違う。鞘から抜く隙すらなかった。抜いていたはずの長剣が、いつの間にか鞘に戻されていた。何が起きたのか分からない。ただ、意識が遠のいていくのだけが分かった。
ハンナは壁に叩きつけられていた。毒針グローブは指先まで凍結しており、指一本動かせない。「凍結? 氷魔法? いや、蒼氷姫は向こうに——じゃあ誰が——」と思考が混乱したまま、意識を失った。
ドルクは通路の床に大の字に倒れていた。ナックルダスターを嵌めた両拳は天井を向き、白目をむいている。彼のフィジカルはAランクを正面から殴り倒せるレベルだった。しかし、何かに殴られた痕跡はない。ただ、意識だけが消え失せていた。
3人の暗殺者が、3秒で沈黙した。
レイラは拘束ワイヤーを凍結・粉砕し、立ち上がった。右腕の麻痺はまだ残っているが、戦闘は終わっていた。
「……刃」
「ん」
「今の、何したの?」
「え、普通に歩いただけだけど」
「歩いただけで3人が気絶したの?」
「たぶん、魔素密度が高いから酸欠になったんじゃないか。5階層だし」
「酸欠であの倒れ方にはならないと思う」
「なるんじゃない? 俺は医者じゃないから分からないけど」
レイラは深いため息をついた。しかし、その目は笑っていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。残業手当は出るのか?」
「出す。倍にする」
「……それは嬉しい」
通路の向こうから、ガレスの声が聞こえた。
「レイラさん! 大丈夫ですか!」
煙幕を突破したチームが、こちらに向かって走ってくる。あと数秒で到着する。
レイラと刃は顔を見合わせた。その一瞬で、全てが通じた。
「——大丈夫よ。暗殺者が3人いたけど、撃退した」
レイラは蒼氷姫の声で報告した。
ガレスが通路に飛び込んできた。地面に倒れた3人の暗殺者と、立っているレイラを見て、目を見開いた。
「一人で3人のAランク暗殺者を……!?」
「まあね。氷魔法が上手くはまったの」
完璧な嘘だった。しかし、ガレスの目は嘘を見抜いていた。見抜いた上で——口にしなかった。
ガレスの視線は、通路の壁際で座り込んでバックパックの中身を確認しているFランクのポーターに、一瞬だけ向けられた。ポーターは、欠伸をしていた。
(……あの男は、戦闘中にただ壁際に座っていた。そういうことに、しておこう)
ガレスは斧を肩に担ぎ、レイラに敬礼した。
「お見事です、レイラさん」
「ありがとう。……さ、こいつらを拘束して。聞きたいことが山ほどあるから」
蒼氷姫の目が、冷たく光った。
尋問の時間だ。




