第30話「真実を知る者たち」
レイラ・アシュフォードは、嘘をつくことに慣れていた。
蒼氷姫として、世界ランキング8位として、神盾機関の看板として。完璧な微笑みの裏で、何重もの仮面を使い分けることは、彼女にとって呼吸と同じくらい自然な行為だった。
だが——ここ数日の嘘は、それまでのどの仮面よりも重かった。
5階層の仮設ベースキャンプ。崩落区域の救出作業が一段落し、全チームが合流して態勢を立て直している深夜。
レイラは自分のテントの中で、氷眼のログデータと向き合っていた。
タブレット端末に表示された、過去4日間の後方区域センサーログ。
《Day1:3階層スタンピード。後方にて推定100体以上の魔獣が消滅。消滅時の魔素反応——測定限界突破。処理者:特定不能(編集済み)》
《Day2:4階層奥域。後方にて魔獣3体の無力化を検出。処理手法:物理接触(手の甲、踵)。殺傷なし、意識喪失のみ。処理者のMPR(魔素出力率):0.0001以下》
《Day3:4階層奥域。進行ルート上に不審な術式痕跡を3件検出。全て無力化済み。無力化パターン:壁面接触後1〜3秒で術式回路焼失。処理者のMPR:測定限界以下》
《Day4:5階層降下時。崩落区域にて推定3トン以上の構造支柱が移動。移動経路は単一方向・直線的。重機なし。処理者——》
レイラはログの最後の行を見つめた。
「処理者」の欄は、全て同じ名前を指している。
八雲刃。Fランクポーター。MPR:0.0001以下。
レイラはタブレットを膝の上に置き、天井を見上げた。テントの薄い布地の向こうに、蛍苔の青い光がぼんやりと透けている。
(……4日間で、私が改竄したログデータは47件。刃に関する異常値の自動記録を、全て「観測エラー」に書き換えた。氷眼の解析が自動で「異常」フラグを立てるたびに、私が手動で消去している)
手帳を開いた。最新のページには、細かい字でびっしりと記録が書かれている。
《ログ改竄回数:累計47件。解析による自動フラグ:16回(全て手動消去済み)。所要時間:毎晩約40分。神盾機関本部への定期報告書からの刃関連データ除外:3回。氷眼のファームウェアアップデートによるデータ復旧リスク:低(バックアップサーバーへの送信は手動設定でオフにした)》
レイラは手帳を閉じ、目を閉じた。
(私がやっていることは、企業の物品のデータ改竄。探索者協会への虚偽報告の幇助。神盾機関との雇用契約違反。……どれか一つでもバレたら、探索者資格の永久剥奪。刑事罰の可能性もある)
それでも、迷いはなかった。
(刃が私たちのために何をしてくれたか。あの閉鎖区画で100体以上の魔獣を倒してチーム全員の命を救ったこと。4階層で毎日、カメラの死角でチームの背中を守ってくれていること。5階層で崩落を察知して、私たちを安全なルートに導いてくれたこと。——全部、たった一人で。ポーターのふりをしながら)
(その人を守るためなら、キャリアくらい賭けられる)
レイラは目を開けた。蒼い瞳に、静かな決意が灯っている。
——しかし。問題は、「気づいている人」が増えていることだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
レイラは朝食のレーションを齧りながら、ベースキャンプの空気を観察していた。蒼氷姫の仮面の奥で、分析的な目が周囲を捉えている。
——ガレス。
Aランクの片腕の斧使いは、テントの前で斧の手入れをしながら、時折、最後尾でバックパックを整理している刃を見ていた。その目には、敵意はない。信頼とも違う。もっと複雑な――「答えを知っているが、あえて問わない」という種類の目だった。
レイラは知っている。ガレスは3回、刃に「本当にただのポーターか」と聞いている。3回とも同じ答えが返ってきた。そして3回目以降、ガレスは追及をやめた。代わりに「もしもの時は遠慮するな」と言った。
ガレスは敵ではない。しかし、味方とも断言できない。元軍人の観察力は鋭く、刃の異常を最も正確に言語化できる人間だ。
(ガレスが本気で調査を始めたら、私のログ改竄だけでは守りきれない。……でも、今のところ彼はレイラへの信頼で留まっている。この信頼を裏切らないことが、最善の防御策)
——ミラ。
蒼天弓のAランク弓使いは、焚き火の横でスープを煮ながら、鼻歌を歌っていた。快活で親しみやすい笑顔。しかしレイラは見逃していない。ミラの琥珀色の瞳が、時折、刃に向けられる時の質が変わっていることを。
昨日の崩落区域で、ミラは何かを見た。レイラには、それが何であるかの確証はない。しかし氷眼のログには、崩落区域の構造支柱が移動した時刻と、ミラの位置データが重なっている。
(ミラ・ヴァレンティ。Aランクの弓使い。性格は快活で好奇心旺盛。……彼女は追及するタイプではない。でも、「面白い」と思ったものへの関心を消すタイプでもない。刃に対する彼女の目は、もう「Fランクのポーター」を見る目ではなくなっている)
レイラは手帳を開き、新しいページに書き込んだ。
《刃の秘密に気づいている/気づきかけている人物リスト》
1. 私——完全把握。ログ改竄で隠蔽中。
2. ガレス——「何かがおかしい」レベル。追及はしていないが、確信に近い直感を持っている。
3. ミラ・ヴァレンティ——物理的に不可能な事象を目撃した可能性大。好奇心段階だが、観察を続けている。
——そしてもう一つ。レイラにはまだ見えていないが、確実に存在するリスト外の存在。
4. 掃除屋のリーダー(名前不明)——「偶然」の中心にFランクのポーターがいることに気づき始めている可能性あり。
(……気づく人が増えていく。当然だ。刃は毎日、カメラの死角で奇跡みたいなことをやっている。どれだけ上手く偽装しても、「偶然」が積み重なれば、統計的に不自然になる。私のログ改竄だって、いつまでも持つわけじゃない)
レイラは手帳を閉じ、レーションの残りを口に放り込んだ。
味がしなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。各チームが5階層の探索を再開する前の準備時間。
レイラは刃を呼び出した。ベースキャンプから少し離れた、壁の裏。二人きりになれる場所。
「刃」
「ん」
刃は壁にもたれて水を飲んでいた。いつも通りの、冴えない顔。いつも通りの、緩い姿勢。世界最強の探索者には、どう見ても見えない。
「……気づき始めてる人が増えてるの」
単刀直入に切り出した。レイラは刃の前では、回りくどい言い方をしない。
「ガレスは、あなたの動きが軍人レベルだって見抜いてる。ミラは、昨日の崩落区域で何かを見たみたい。たぶん、あの柱石のこと」
刃は水を一口飲んだ。
「……まあ、仕方ないか。俺もちょっと雑だったかもな」
レイラは眉を上げた。
「雑? ……あなたの『雑』は、普通の人の『精密』よりよっぽど精密なんだけど」
「そう?」
「そう。3トンの柱石を片手で動かすのを『雑だった』で片づけないで。せめて両手を使うとか、もうちょっと苦しそうな顔をするとか」
「……苦しそうな顔か。練習しとくよ」
「練習の問題じゃないと思う」
レイラは額に手を当てた。この男の「隠す気がない隠蔽」には、毎回頭を抱えさせられる。
「……冗談はさておき。このままだと、いずれバレる。私のログ改竄にも限界がある。氷眼が刃のデータに『異常』フラグを立てるたびに手動で消してるけど、本部がファームウェアを更新したら、改竄の痕跡が浮き上がる可能性がある」
刃が、初めて少しだけ真剣な目をした。
「……お前、そこまでやってんのか」
「当たり前でしょ。あなたを守るって決めたんだから」
「いや、俺を守るのは分かるけど……キャリアを賭けるレベルのことを、毎晩やってたのか?」
「毎晩40分くらいだけど」
「…………」
刃は水筒の蓋を閉めた。しばらく黙って、天井の蛍苔を見上げていた。
「……レイラ」
「何」
「ありがとう」
レイラの手帳を持つ手が、微かに震えた。
刃がレイラに「ありがとう」と言ったのは、これで2回目だった。1回目は3階層での殲滅の直後。あの時と同じ、静かで、不器用な声だった。
「……ふふ。手帳に書く」
「書くな」
「もう書いた」
「早いな」
小さな笑いが、二人の間に漏れた。
壁の裏の暗がりで、蛍苔の青い光に照らされながら。
「……レイラ。ログ改竄は、もうやめろ」
「え?」
「やめろとは言わないか。……頻度を減らせ。全部消すから不自然になる。異常値の3割は残して、残りを消せ。3割くらいの異常値なら、未踏ダンジョンの観測ノイズとして処理できる範囲だ」
レイラが目を見開いた。
「……あなた、データ分析もできるの?」
「ポーターは荷物の在庫管理で数字を扱うからな。統計の基礎くらいは」
「そういう問題じゃない気がする……」
「あと、ガレスとミラについては、俺がもう少し気をつける。今日からは柱石を片手で動かすのはやめる」
「今日から? ……今まで何回やったの?」
「数えてない」
「…………」
レイラは深い、深いため息をついた。
「……わかった。ログの改竄頻度は調整する。あなたも、もう少し人間らしく振る舞って」
「人間らしくって、具体的には」
「重いものを持つ時は、せめて『よっこいしょ』って言って」
「……了解」
刃は壁から背を離し、ベースキャンプに戻ろうとした。
「刃」
レイラが呼び止めた。蒼い瞳が、真っ直ぐに刃を見ている。
「……いくら気づく人が増えても。私は、あなたの味方だから。最後の一人になっても」
刃は数秒だけ黙り、それから小さく笑った。
「……知ってる」
二人はベースキャンプに戻った。
レイラが先に。刃が10秒遅れて。いつも通り、別々に。
蒼氷姫とFランクのポーターが、同じ場所から出てくるところを見られないために。
——その小さな気遣いの積み重ねが、二人だけの秘密を守っていた。




