第25話「休息と、束の間の日常」
4階層の中間拠点。
かつて地下鉄の大型ターミナル駅だったと思しき広大な空間に、各チームが共同ベースキャンプを設置していた。高い天井には蛍苔が星空のように広がり、青白い光が薄暗い空間を幻想的に照らしている。
3つの企業チームが合同で防衛ラインを構築し、周囲に魔獣感知センサーを配置。即席ではあるが、ダンジョン内とは思えないほど安全な空間が出来上がっていた。
イベント3日目の今日は各チームの休息日として設定されていた。連日の深層探索による疲労の蓄積を考慮し、運営が半強制的に設けた回復期間だ。怪我人の治療、装備の補修、ルートデータの分析。やることはあるが、戦闘はない。
刃にとっては、久しぶりに「ポーターらしい仕事」だけをしていればいい日だった。
(……いい日だ。裏で魔獣を処理する必要もない。荷物を整理して、補給品を確認して、配分表を作って。これが本来のポーターの仕事だ。これだけでいい。これだけがいい)
刃はベースキャンプの一角で、黙々と荷物の仕分けを行っていた。バックパック3つ分の補給物資——非常食、医薬品、予備の魔石バッテリー、配信ドローン用のパーツ——を種類ごとに並べ、在庫リストを手書きで作成している。
その仕事ぶりは、客観的に見て異常なほど正確だった。
「おい、見ろよ」
紅炎団のカイルが、少し離れた場所から刃の作業を眺めて呟いた。
「あのFランクのポーター。荷物の仕分け、むちゃくちゃ速くないか?」
「しかも正確だな……」
隣にいたナツキが首を傾げる。
「うちのBランクのサポート要員より手際がいいぞ。Fランクって、あんな動きできるもんか?」
「いや、ポーターとしての経験が長いんだろ。特化型ってやつだ。戦闘はできないけど、裏方だけは超一流ってタイプ。たまにいるだろ、ああいうの」
カイルが納得したように頷いた。しかし白銀騎士団のトーマだけは、無言で刃の手元を見つめていた。
(……あの手。荷物を仕分ける手の動き。無駄が一切ない。まるで、一つ一つの動作が最短距離で設計されているような——)
トーマは首を振り、視線を逸らした。考えすぎだ。ポーターの手際がいいだけだ。それ以上の意味はない。
——はずだった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
ミラ・ヴァレンティが、鍋を持って刃のところにやって来た。
「八雲さん、お昼ごはん! ベースキャンプで即席スープ作ったの。みんなの分も作ったんだけど、まず八雲さんに味見してほしくて」
鍋の中には野菜とドライミートを煮込んだ具沢山のスープが入っていた。ダンジョンの携帯レーションとは思えない本格的な匂いが漂っている。
「ミラさん、こんなの作れるんですか。ダンジョンの中で」
「えへへ、趣味なの。探索中でもちゃんとしたもの食べたいじゃん? ハーブも自分で採取してるんだよ。4階層の苔の中に、食用のものがあってね」
刃はスープを一口飲んだ。
(……うまい。これは本当にうまい。缶コーヒーとレーションだけの食生活に、一筋の光が差した気分だ)
「……うまいです」
「ほんと!? やった! じゃあもっと飲んで飲んで。おかわりもあるからね」
ミラがにこにこしていると——背後の空気が、2度ほど下がった。
レイラ・アシュフォードが、10メートル離れた場所からこちらを見ていた。手にはチームの戦術データを表示したタブレット。表向きはデータ分析に集中している体だが、蒼い瞳の焦点は明らかにスープの鍋に合っている。
指先に、微かな霜。
(……また始まった)
刃は心の中でため息をつきながら、あえて大きな声で言った。
「ミラさん、このスープ、レイラさんにも持っていったらどうですか。うちのリーダー、朝からレーションしか食べてないんで」
レイラの指先の霜が、ぴたりと止まった。
ミラが明るく笑った。
「あ、いいね! レイラさーん、スープいかがですかー?」
レイラは一瞬だけ固まり、それから完璧な微笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。
「……ありがとう。いただくわ」
レイラがスープを受け取り、刃の隣——ミラと刃の間に、自然な動作で座った。ミラとの距離を物理的に遮断する位置取り。刃は気づいたが、もう突っ込む気力が残っていなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
ベースキャンプの中央に焚き火が焚かれていた。正確には焚き火ではなく、魔石バッテリーを使った携帯型ヒーターだが、周囲にオレンジ色の光を放つ仕様になっており、雰囲気だけはキャンプファイヤーそのものだった。
3チームの探索者たちが、ヒーターの周りに集まっていた。休息日の夜は、チームの壁を越えた交流の時間になる。普段は企業間の競争意識で距離を取りがちな探索者たちも、ダンジョンの深層という極限環境では自然と肩の力が抜ける。
「——で、お前はなんで探索者になったんだ?」
紅炎団のカイルが、焚き火を囲む仲間たちに話を振った。
「俺? 金だよ、金。実家の農場が魔獣に荒らされてさ、賠償金もらうために探索者登録したら、案外向いてたって話」
「現実的だな」
「ナツキは?」
「私は姉が探索者だったから。背中を追いかけてたら、いつの間にかBランクまで来てた」
ミラが手を挙げた。
「私はね、世界中を旅したかったの。ダンジョンって、一つとして同じものがないでしょ? 地下に広がる未知の世界を自分の目で見たくて」
蒼天弓のAランクらしい、冒険者気質の答えだった。
「ガレスさんは?」
神盾機関のAランク探索者は、片腕で缶ビールを持ちながら答えた。
「元軍人だ。除隊後に探索者になった。理由は……まあ、戦場以外の生き方を知らなかっただけだ」
重い答えだった。しかしガレスの目は穏やかだった。
「レイラさんは?」
レイラは少し考えてから、静かに答えた。
「世界の頂点に立ちたかった」
シンプルな一言に、全員が黙った。世界ランキング8位がそれを言うと、冗談には聞こえない。
「でも最近は……もっと別のものを見たくなった」
レイラの視線が、一瞬だけ焚き火の向こう側に流れた。そこには、輪から少し離れた場所で、壁に背を預けて缶コーヒー——ではなく水を飲んでいる刃がいた。
カイルが、その視線を追った。
「お、八雲さん! あんたは? なんで探索者に?」
刃は少し間を置いて、答えた。
「……手に職つけたかった」
それだけだった。
「手に職って……ポーター?」
「まあ、そんなところです」
「Fランクで手に職って、なかなかストイックだな」
「向いてるんだと思います。荷物を持つのは嫌いじゃないんで」
嘘ではなかった。荷物を持つのは嫌いじゃない。ただし「荷物を持ちながら100体の魔獣を殲滅するのが苦にならない」という意味を、ここにいる誰も理解していなかった。
会話が別の話題に移り、探索者たちの笑い声が響く中。
ガレスが缶ビールを持って立ち上がり、刃の隣に来た。
「隣、いいか」
「……どうぞ」
ガレスが壁にもたれ、刃と並んで焚き火を眺めた。しばらく沈黙が続いた。
「八雲さん」
「はい」
「あんた……本当に、ただのポーターなのか?」
直球だった。焚き火のざわめきに紛れるような声量だったが、言葉の重みは静かに響いた。
刃は、水を一口飲んだ。
「ただのポーターですよ。運が良かっただけです」
三度目の「運が良かった」。ガレスは聞き慣れた台詞に、小さく息を吐いた。
「俺は元軍人だ。戦場で20年、人を見てきた。敵も味方も。生き残る奴と死ぬ奴を」
「……はい」
「あんたは——戦場を知っている人間の動きをしてる。包帯の巻き方。視線の配り方。後方にいながら常に360度の安全確認をしている目。Fランクのポーターの目じゃない」
刃は黙っていた。
「……だが、問い詰めるつもりはない。レイラさんがあんたを信頼している。あの人の判断を、俺は疑わない」
ガレスが缶ビールを飲み干した。
「ただ、一つだけ言っておく。もし——もしもの話だが、このチームに危険が迫った時。あんたが『何かできる』のなら。頼むから、遠慮はしないでくれ」
刃は、しばらく焚き火の光を見つめていた。
「……俺はポーターです。できるのは荷物を持つことだけです」
「ああ、そうだな。……そうだといいな」
ガレスは右手を差し出した。刃は少しだけ迷って、その手を握った。元軍人の手は分厚く、硬かった。
「ガレスさん」
「ん?」
「……いい斧、使ってますね。片腕でもバランスが崩れないのは、グリップの巻き方を変えてるからですか」
「……気づいたのか。そうだ、怪我してから巻き直した。素人には分からないレベルの調整だが」
「いい仕事です」
ガレスが、微かに目を見開いた。
それからゆっくりと、苦笑した。
「……あんた、面白い男だな」
「よく言われます」
「嘘つけ。絶対言われてないだろ」
「……はい」
二人の間に、小さな笑いが漏れた。
焚き火の向こう側で、レイラが手帳を開いていた。
視線は手帳に落ちているが、蒼い瞳は焚き火越しに刃とガレスの会話を追っている。
《ガレスの動向:刃への直接的な質問(3回目)。依然として違和感を持っているが、追及はせず信頼で留まっている。現時点では許容範囲。ただし、今後のエスカレーションに注意》
手帳を閉じ、空を見上げた。
天井に広がる蛍苔の光が、地上の星空のように瞬いている。
(……明日から、また深層に潜る。5階層まであと少し。刃を守りながら、チームを率いて、敵を倒して。やることは多いけど——)
視線の先で、刃がガレスと肩を並べて焚き火を見ている。珍しく穏やかな横顔だった。
(——悪くない、か)
レイラは小さく笑い、手帳をポケットにしまった。




