第24話「4階層の深淵、あるいは職人芸の極致」
4階層の奥域は、3階層までとは別の世界だった。
崩落した地下鉄のトンネルが蜘蛛の巣のように分岐し、天井の高さも通路の幅も一定しない。ある場所は人一人がやっと通れる狭窄路で、次の瞬間には地下ホールのような巨大空間が広がる。壁面の蛍苔が放つ魔素の青白い光だけが唯一の明かりで、視界は常に薄暗い。
そして何より——空気が重い。魔素密度が3階層の1.5倍以上に跳ね上がっており、普通のBランク探索者でも長時間の行動には消耗を覚える濃度だった。
神盾機関チームは、レイラを先頭に奥域の探索を進めていた。隊列は前衛3名、中衛4名、後衛2名。配信ドローンが2機、レイラの周囲を飛んでいる。
そして最後尾に、バックパックを背負ったポーターが一人。
「前方、反応あり。数は……4。Bランク相当の鉄顎狼」
ガレスが片腕で斧を構えながら報告する。
「了解。ガレスとタカシは左右に展開。正面は私が取る。他は後方警戒」
レイラの指揮は簡潔で的確だった。チームが素早く散開し、前方から駆けてくる4体の鉄顎狼を迎え撃つ。レイラの氷の槍が先頭の1体を貫き、ガレスの片手斧が2体目を叩き伏せ、タカシの剣が3体目を斬り裂く。残り1体はBランクメンバー2名の連携で仕留めた。
戦闘時間、14秒。無駄のない殲滅。
配信ドローンがレイラの戦いぶりを中心に撮影し、世界中の視聴者に映像を送り続けている。コメント欄は「蒼氷姫かっけー!」「4階層もう攻略じゃん」「安定感ぱない」で溢れていた。
——その14秒間。
最後尾のポーターに、何が起きていたか。
配信のカメラは、一切捉えていなかった。
◇ ◇ ◇
1体目。
前衛がB鉄顎狼に意識を集中させた瞬間、天井の亀裂からCランク相当の影蝙蝠が音もなく滑り落ちてきた。狙いは最後尾のポーター——ではなく、その3メートル前にいたBランクの後衛メンバーの首筋。
刃はバックパックの蓋を開けた。
中から予備の水筒を取り出す自然な動作。その腕の軌道上に、たまたま蝙蝠の頭部があった。
水筒を掴んだ手の甲が蝙蝠の側頭部を掠める。ただそれだけの接触。しかし影蝙蝠は糸が切れたようにくるりと回転し、壁際に転がった。意識はない。骨も折れていない。ただ、脳震盪で眠っている。
刃は水筒を取り出し、蓋を開け、一口飲んだ。後衛のBランクメンバーは自分の首筋に死が迫っていたことに気づかなかった。
2体目。
前衛の戦闘が佳境に入り、ガレスが斧を振り下ろした衝撃で通路右側の壁にヒビが入った。その隙間から、触手のような節足が突き出してきた。壁喰虫。壁の中に巣を張る寄生型の魔獣で、ランクはDだが毒を持っている。触手が中衛のメンバーの足首に伸びた。
刃は水筒の蓋を閉めた。
蓋を閉める動作で手首が返った、その手の甲が触手を弾いた。木の枝を払うような軽さだった。触手は壁の隙間に引っ込み、壁喰虫は二度と出てこなかった。
中衛のメンバーは、足元で何かが動いたような気がしたが、振り返った時には何もなかった。
3体目。
前衛がB鉄顎狼の最後の1体を仕留めた直後。戦闘の血の匂いに誘われて、後方の暗闇から影猟犬が2体、音もなく接近していた。Cランク相当。単体では脅威ではないが、戦闘直後の隙を突く狡猾さを持つ。
刃は靴紐を結び直していた。
しゃがみ込んだ姿勢から、右足の踵が微かに動いた。床を蹴ったのではない。ただ、体重移動のついでに踵が後方に滑っただけだ。
その踵が、1体目の影猟犬の顎の下を正確に捉えた。影猟犬は声も上げずに跳ね飛び、2体目に激突して、2体まとめて通路の隅に転がった。
刃は靴紐を結び終え、立ち上がった。
戦闘時間14秒。最後尾のポーターが「処理」した脅威、3件。
全てがカメラの死角で。全てが日常動作の延長として。
誰も何も気づいていない——はずだった。
◇ ◇ ◇
レイラは前衛で指揮を執りながら、左手首に装着した氷眼の小型モニターをちらりと確認していた。
氷眼には360度の魔素感知機能がある。前方の戦闘だけでなく、後方で起きていることも全てデータとして記録される。
モニターに映し出された直近14秒間の後方ログ。
《後方区域:異常反応3件検出。影蝙蝠1体→無力化(手法不明)。壁喰虫1体→排除。影猟犬2体→無力化。全て同一人物による処理。処理者:ポーター(八雲刃)。処理時の魔素出力:測定限界以下》
レイラは、戦闘中にもかかわらず、口の端が微かに持ち上がるのを抑えられなかった。
(……やっぱり、最強の荷物持ち)
手帳に書きたい。今すぐ書きたい。しかし今は戦闘中だ。我慢する。
代わりに、心の中でメモした。
《第24回観察記録:4階層奥域にて。刃の後方処理、本日3件。全て日常動作に偽装。水筒の蓋、手首の返し、靴紐結びの体重移動。一切の殺気なし。処理された魔獣は全て意識喪失のみで、致命傷を与えていない点に注目。「殺さない」のではなく「殺す必要がないほど圧倒的」ということ。ポーターとしての作業効率も完璧。荷物の仕分け速度は前回比で2%向上》
最後の一文で若干方向性がおかしくなっているが、レイラ本人は至って真剣だった。
「レイラさん、前方クリアです」
「了解。このまま直進。次のチェックポイントまで推定800メートル」
レイラがチームに指示を出しながら、一瞬だけ後方を振り返った。
最後尾で刃が、バックパックを背負い直しながら欠伸をしていた。
(……あの欠伸も、もしかしてカモフラージュなのかな。それとも本当に眠いのかな)
多分、本当に眠い。
レイラはそう結論づけて、前を向き直した。
◇ ◇ ◇
探索が2時間ほど進んだ頃。チームは4階層奥域の広間に到達し、小休止を取っていた。
刃は壁際にバックパックを降ろし、中身の確認をしていた。予備の包帯、鎮痛剤、非常食、水。全て過不足なく収まっている。ポーターとしての仕事は完璧だ。
缶コーヒーはもう無い。代わりに水を飲む。味気ない。
(……やっぱり缶コーヒーだな。帰ったら箱買いしよう。経費で落ちないかな。ポーターの必要経費として)
背後に気配。レイラではない。もっと軽い足音。
「八雲さん」
ミラ・ヴァレンティが、にこにこしながら近づいてきた。手には例のフラスク。
「さっきは途中で切り上げちゃってごめんね。レイラさんがいないうちに——あ、これ、別に怪しいものじゃないから。ほんとにただのハーブティーだから」
「……いえ、どうも」
刃は周囲を見回した。レイラの姿はない。前衛のメンバーとルートの確認をしているらしく、こちらには背を向けている。
(……今なら大丈夫か。いや、何が大丈夫なんだ。別にハーブティーをもらうくらい普通だろ。なんで俺は周囲を警戒してるんだ。ポーターがハーブティーをもらうのに、なぜ敵陣突破のような緊張感が)
「あのさ、一つ聞いていい?」
ミラが、少しだけ声を落とした。
「八雲さんって、前はどこに所属してたの? Fランクのフリーランスが、いきなり蒼氷姫の専属ポーターになるのって普通じゃないよね」
「……たまたまです。レイラさんに指名されただけで、自分から志願したわけじゃないです」
「ふうん。たまたま、ね」
ミラが琥珀色の瞳で、じっと刃を見た。
「八雲さん、『たまたま』って言葉、よく使うよね」
「……そうですか?」
「うん。昨日のスタンピードの話でも、『たまたま運が良かった』って。でも、Fランクのポーターが4階層を歩いて、この2時間でかすり傷一つないのも、『たまたま』?」
刃は一瞬だけ、返答に間を置いた。
「前衛のみなさんが優秀ですから。後ろにいれば安全です」
「……そっか。うん、それもそうだよね」
ミラはあっさりと引き下がった。しかし、琥珀色の瞳の奥には好奇心の火が消えずに灯っている。
追及はしない。しかし、観察はやめない。そういうタイプの目だった。
「じゃあ、ハーブティー。ここに置いとくね。飲んでも飲まなくても、どっちでもいいから」
ミラがフラスクを刃の横に置き、軽く手を振って立ち去った。
刃はフラスクを見下ろした。
しばらく迷って、一口だけ飲んだ。
(……うまいな。悔しいけど、缶コーヒーより体に沁みる)
——その瞬間。
前方から、絶対零度の視線が突き刺さった。
レイラが、ルート確認の合間に、こちらを見ていた。蒼い瞳が、ハーブティのフラスクと刃の口元を交互に見ている。
氷の結晶が、レイラの指先に一つ、二つと生まれては消えていく。無意識の魔素漏出。感情が魔力に直結するタイプの探索者の、典型的な兆候だった。
(……見られてた)
刃はフラスクの蓋を閉め、何食わぬ顔で水筒に持ち替えた。
(……ポーター業、想定外の危険が多すぎる)
刃が恐れるべきは、Bランクの魔獣でも、4階層の魔素密度でもなかった。
世界ランキング8位の嫉妬だった。




