第23話「蒼氷姫の独占欲」
4階層への降下が始まって、2時間が経っていた。
崩落した地下鉄のトンネルを改造したような通路。天井は低く、壁面には蛍光色の苔がびっしりと生え、かすかな魔素の青白い光を放っている。3階層まではかろうじて「人工物の名残」があったが、4階層になると自然の洞窟と人工構造物が溶け合い、異質な迷宮になっていた。
神盾機関チームは先陣として初期探査を開始し、最初の戦闘を終えたところだった。Bランク相当の甲殻蜘蛛が6体。レイラが先頭で3体を氷の槍で貫き、ガレスが片腕で残り2体を斧で叩き潰し、他のBランクメンバーが最後の1体を仕留めた。チームとしての連携は確実に向上していた。初日のスタンピードを生き延びた経験が、メンバーの動きに一段階上の覚悟を与えている。
刃は最後尾で、戦闘の間ずっとバックパックの中身を整理していた。
(……まあ、4階層の魔獣も、レイラたちなら問題ないな。俺が手を出す場面はなさそうだ。良いことだ)
戦闘区域を抜け、4階層の中継ポイント——かつて駅のプラットフォームだったと思しき広い空間に到達した。ここは各チームが合流する休憩エリアに指定されており、既に2つの他企業チームが先に到着して、携帯型の照明とヒーターを設置してベースキャンプの準備を進めている。レイラが隊列を止めた。
「ここで30分休憩。装備の点検と水分補給を。ガレス、見張りの配置を頼むわ」
「了解」
刃はバックパックを壁際に降ろし、缶コーヒーを取り出してプルタブを開けた。
(……もうこれで最後の1本か。当然だが4階層に自販機はないからなあ)
一口飲む。苦い。うまい。
「ねえ、あなたが八雲さん?」
声をかけられた。刃が顔を上げると、見覚えのない女性が目の前に立っていた。
赤みがかった茶色のショートヘアに、活発そうな琥珀色の瞳。軽装の探索者アーマーの上に毛皮のベストを羽織り、腰には二本の短剣、背中には弓。明るくて、どこか親しみやすい雰囲気だった。
「……どちら様ですか」
「あ、ごめんね。自己紹介もなしに。私はミラ。ミラ・ヴァレンティ。蒼天弓所属のAランク探索者、弓使いだよ。昨日の3階層でのスタンピード、聞いたよ。全員生還したって。すごいよね、死者ゼロって」
「……レイラさんの指揮が良かったんだと思います」
「うんうん、蒼氷姫は別格だもんね。……でも、あなたのことも気になってて」
ミラが首を傾けた。琥珀色の瞳に、純粋な好奇心が光っている。
「Fランクのポーターが4階層まで来てるのって珍しいよね。怖くないの? ここ、Bランクの魔獣がうろうろしてるんだよ?」
「まあ、荷物持ちなんで。前衛の後ろにいるだけです」
「それでも荷物背負ったまま戦闘区域を歩くのって、普通のFランクには無理だよ。体力も精神力もいるし。ちょっと感心しちゃって。あ、これ。よかったら」
ミラが腰のポーチからフラスクを取り出した。
「ハーブティー。自分でブレンドしたやつ。疲労回復に効くよ。ダンジョンの中だと缶コーヒーばっかりになっちゃうでしょ?」
「いや、俺は別に——」
「彼は作業中です」
氷のように冷たい声が、背後から降ってきた。
刃は振り返らなくても分かった。この声は。この温度は。
レイラ・アシュフォードが、完璧な微笑みを浮かべて立っていた。銀色の髪が魔素の蒼い光に照らされて冷たく輝いている。蒼い瞳は穏やかに細められていたが、その奥に北極海の水圧のようなものが渦巻いていた。
「ミラさん、でしたっけ。蒼天弓の弓使いの方ですよね」
「あ、レイラさん! お疲れさまです。ちょっと八雲さんとお話ししてただけですよ」
「ええ、ありがとう。彼は私の専属ポーターなの。休憩中でも装備の管理やデータの整理があるから、あまり長く引き止めないでもらえると助かるわ」
刃は缶コーヒーを飲みながら、口を挟んだ。
「俺は今、缶コーヒー飲んでるだけだけど」
「それも重要な作業よ。水分補給はポーターの基本でしょう?」
「いつからそんなルールが」
「今決めた」
ミラが目をぱちくりさせた。
「えっと……じゃあ、このハーブティーは渡さないほうがいい?」
レイラの微笑みが、0.3度ほど温度を下げた。
「ご親切にありがとう。でも、彼の水分補給は私が管理しているの。ポーターの体調管理はチームリーダーの責任だから」
「水分補給を管理……?」
ミラが首を傾げた。刃も首を傾げたかった。
(管理されたことないけど……?)
「あ、そうだ。刃、4階層の魔素分布データの記録、まだ終わってないでしょう?」
「……何の話だ。俺はポーターだ。データ記録は俺の仕事じゃない」
「今日からお願い。新しく追加した業務よ」
「聞いてないんだが」
「今言った」
刃はため息をついた。深い、深いため息だった。
「……すみません、ミラさん。どうやら俺は作業中らしいです」
「あ、うん……ごめんね、邪魔しちゃって」
ミラは苦笑しながら手を振り、自分のチームの方に戻っていった。その背中が十分に遠ざかってから、刃はレイラを見た。
「……お前、さっきから何やってるの」
「何って?」
「今の、露骨すぎるだろ。『彼の水分補給は私が管理している』って何だよ。聞いたことないぞそんな制度」
「ポーターの体調管理はチームリーダーの義務よ。規約の第——」
「嘘つけ。そんな規約はない。俺だって一応契約書は読んでる」
レイラが、ほんの一瞬だけ目を泳がせた。
「…………別に。あの人がハーブティを渡そうとしてたから、毒物の可能性を考慮して——」
「ハーブティに毒を入れるAランク探索者がいるか」
「…………」
レイラが視線を逸らした。蒼い瞳が微かに揺れている。
「……べつに、嫉妬とかじゃないから」
誰も嫉妬の話はしていなかった。
「……ただ、刃は私のポーターだから。他のチームの人に気軽に話しかけられると、その、情報漏洩のリスクが——」
「何の情報だよ。俺が知ってる情報なんて、今日の晩飯のメニューぐらいだぞ」
「晩飯のメニューも立派な情報よ。食事内容からチームの補給状況を推測されたら——」
「無理があるだろ」
刃は額を押さえた。
(……こいつ、どんどん言い訳が苦しくなってるんだが)
「……レイラ」
「何」
「別にミラさんは普通に話しかけてきただけだ。友好的な挨拶だろ。探索者同士なんだから、そのくらい普通だ」
「……分かってる」
「分かってるならいいけど」
「分かってるけど……」
レイラが小さく呟いた。
「わ、私以外の人が刃に笑いかけてるの見ると、なんか……胸のあたりが、ぎゅってなるの」
刃は缶コーヒーを飲む手を止めた。
(……いや、それ完全に嫉妬だろ)
しかし、レイラの横顔は真剣だった。蒼氷姫の仮面は完全に外れていて、そこにいるのは一人の、少し不器用な少女だった。
刃は、小さく息を吐いた。
「……ハーブティーは断った。缶コーヒーのほうがいい」
レイラがゆっくり顔を上げた。
「……ほんと?」
「ほんと。ブラックが一番だ」
「……ふふ」
レイラの顔に、ようやく笑顔が戻った。花が綻ぶような、無防備な笑み。
「……でも刃、ブラック好きっていう割に、昨日の夜は砂糖入りも飲んでたよね」
「あれはお前が持ってきたやつだろ。選択肢がなかっただけだ」
「ふうん。じゃあ明日は微糖を持っていくね」
「……好きにしろ」
◇ ◇ ◇
休憩時間が終わり、各チームが探索を再開した。
神盾機関チームが4階層の奥域に向けて出発する直前。刃がバックパックを背負い直して最後尾に並ぼうとした時、背中に視線を感じた。レイラではない。ミラでもない。もっと別の——。
振り返ると、他チームの探索者が何人か、刃の方をちらちらと見ていた。その視線の意味は分かっていた。「なぜ蒼氷姫が、あのFランクのポーターをあそこまで庇うのか」。
3階層での無傷。レイラの異常な庇い方。不自然な口止め。それら全てが、小さな違和感として、この4階層の共同ベースキャンプの中で静かに熟成され始めていた。
(……目立ってるのは俺じゃなくて、お前のほうだぞ、レイラ)
刃は心の中でため息をつき、黙って歩き始めた。前方では、レイラが凛とした声で隊列に指示を出している。蒼氷姫の顔。完璧な指揮官。
——ただし、その手帳にはたった今、新しいページが追加されていた。
《刃に話しかけてきた女性探索者リスト》
1. ミラ・ヴァレンティ(蒼天弓、Aランク、弓使い)
——ハーブティーを渡そうとした。要警戒。
刃がそのページの存在を知るのは、もう少し後のことだ。知った時の刃の顔を想像すると、レイラの足取りは自然と軽くなった。




