第21話「初日の事後処理と最強のポーターの日常」
イベント初日の夜。
深淵都市地上拠点に設置された運営本部は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
大型モニターには各チームの帰還状況が映し出され、スタッフが走り回り、無線が飛び交っている。3階層でのスタンピード発生を受けて、イベントの続行可否を巡る緊急協議が行われていた。
「3階層で観測された魔素密度の異常値は、未踏ダンジョン特有の自然現象と見られます。各チームの報告を照合した結果、スタンピードの発生源は3階層奥部の魔獣巣窟域と推定。通信遮断については、高濃度魔素による一時的な電波障害と考えられ——」
運営統括官が早口で所見を読み上げている。
その場にいる誰も、あのスタンピードが「人為的に誘発された」ものだとは気づいていない。
3階層の壁面に埋め込まれていた電波遮断結界の残骸は、既に跡形もなく消えていた。刃が帰還直前に、「通りすがりに」壁を拳で叩いて粉砕したからだ。
(……自然現象で片付いたなら、それでいい)
運営本部から少し離れた場所。
神盾機関チーム専用の控室で、レイラは自チームのメンバーを前に立っていた。
12名の探索者たちが、長テーブルを囲んでいる。重傷者3名は医療テントで治療中だが、軽傷者と無事だった者たちは全員がここにいた。
彼らの顔には、疲労と、困惑と、言葉にならない「何か」が刻まれていた。
レイラは一つ息を整えた。
蒼い瞳が、冷たく、美しく光る。
「みんな、お疲れ様でした。全員が生きて戻れたこと、それが何より大事です」
チームメンバーたちが頷く。
「3階層で起きたことについて、いくつか確認しておきたいことがあります」
レイラの声は柔らかかったが、そこには一切の隙がなかった。
蒼氷姫としての、完璧な支配力。
「あの状況で、全員が恐怖や痛みの中にいました。通信も途絶え、カメラも全滅していた。混乱の中での記憶は不鮮明なものが多いと思います」
一拍。
「明日以降、運営や他チームから3階層での経緯を聞かれることがあるかもしれません。その際は、こう答えてください。『チーム全員の連携で交戦し、退避に成功した』と。それが、事実です」
Aランク探索者のガレスが、微かに眉を動かした。
他のメンバーたちは、レイラの言葉を咀嚼するように黙っている。
「報告書は私がまとめて提出します。個別の報告は不要です。むしろ、混乱した記憶で不正確な情報を流すほうが、チームにとっても運営にとっても良くない結果を招きます」
誰もが、レイラの言外の意味を理解していた。
「余計なことは言うな」。
蒼氷姫がそう言っている以上、異を唱える者はいない。たとえその胸の奥に、消えない疑問が残っていたとしても。
「……質問はありますか」
沈黙。
ガレスが口を開きかけた。しかし、レイラの蒼い瞳と目が合った瞬間、何かを飲み込むように顎を引いた。
「……ありません」
「了解。では解散してください。明日は朝8時に再集合。4階層への進出が始まります。しっかり休んでください」
チームメンバーたちが席を立ち、一人、また一人と控室を出ていく。
最後にガレスが立ち上がった。
ドアに手をかけ、一度だけ振り返った。
「……レイラさん」
「何?」
「あのポーターの八雲って人。明日も来るんですか」
「ええ。私のポーターですから」
「…………そうですか」
ガレスは何かを言いたげな顔で、しかし何も言わずに、部屋を出た。
ドアが閉まる。
レイラは一人になった控室で、長い息を吐いた。
蒼氷姫の仮面が、静かに外れる。
(……危なかった)
椅子に座り直し、手帳を開く。
今日の出来事を整理するように、ペンを走らせる。
《3階層スタンピード。刃の魔素封印解放。100体以上の殲滅。所要時間40秒。氷眼のログは帰還後に編集済み。チームメンバーの口止め完了。ガレスは要注意——違和感を持っている》
手帳を閉じ、天井を見上げた。
(……明日から、もっと気をつけなきゃ。刃のことを、守らなきゃ)
その一念だけが、レイラの胸の中で静かに燃えていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
イベント参加者用の簡易宿舎。
各探索者チームに割り当てられた仮設のプレハブ小屋が並ぶ一画。神盾機関チームには個室が与えられていたが、ポーターの刃に割り当てられたのは端の、物置のような小部屋だった。
折り畳みベッドが一つ。小さな机と椅子。窓には薄いカーテン。
それだけの空間で、刃は缶コーヒーを片手に、ゲーム端末の画面を眺めていた。
(……Wi-Fiが入るの、ありがたいな。ダンジョンの中は電波届かないから、丸一日ゲームできなかった。これが一番辛い)
100体以上の魔獣を殲滅した件については、もう考えていなかった。
起きたことは起きたこと。反省点は「力の入れ加減がちょっと雑だった」くらいだ。安物の鉄剣だとバランスが違うから、次はもう少し調整しよう。
(……それにしても、レイラのやつ。ログを消すとか、報告書をまとめるとか、やたら手際がいいな。企業人としてのあいつは、確かに切れ者だ)
缶コーヒーを飲み干す。
2本目を開けようとした時、部屋のドアが軽くノックされた。
「……はい」
ドアが開くと、レイラが立っていた。
さっきまでの蒼氷姫の冷徹な空気はどこにもなく、銀色の髪を肩に流した、少し疲れた顔の少女がそこにいた。左肩の包帯が、シャツの襟元からわずかに覗いている。
「入っていい?」
「断ったら帰るのか?」
「帰らない」
「じゃあ聞くなよ」
レイラがくすりと笑い、部屋に入ってきた。
狭い部屋に椅子は一つしかないので、レイラは折り畳みベッドの端に腰掛けた。
刃がもう1本の缶コーヒーを差し出す。
「ブラックしかないけど」
「ありがとう。……ブラック、好きだよ」
「嘘つけ。前にコーヒー飲んだ時、砂糖3本入れてたろ」
レイラが少し赤くなった。
「……覚えてるんだ」
「ポーターは荷物の中身を把握するのが仕事だ」
「それ、荷物じゃないでしょ」
小さなやりとり。
狭い部屋に、缶コーヒーの苦い匂いが漂う。
しばらくの沈黙の後、レイラが手帳を広げた。
「……明日のことなんだけど」
「ああ」
「4階層への進出が正式に決まった。運営は、初日のスタンピードを『自然現象』として処理した。イベントは続行。明朝、全チームに通達が出る」
刃は缶コーヒーを傾けながら、黙って聞いている。
「私たちのチームが先陣を切る予定。4階層の初期探査と安全確認を担当する。他チームは2日目のうちに3階層までの補給ルートを確立する作業に入る」
「……ふうん」
「それで」
レイラが、ちらりと刃を見た。
「刃。引き続きポーターをお願いできる?」
刃は数秒だけ黙った。
(……まあ、契約期間中だしな。ここで降りる理由もない。報酬は良いし、レイラの近くにいれば面倒事を先に潰せる。……いや、面倒事を潰すって、それもうポーターの仕事じゃないだろ)
「時給は据え置きか?」
「残業代込みで」
「……まあ、いいけど」
レイラの肩から、微かに力が抜けた。
安堵していたのだと、刃は気づいた。
(……こいつ、断られるかもしれないと思ってたのか)
「あと一つ」
レイラが手帳のページをめくった。
「4階層以降は魔素密度がさらに上がる。3階層で遭遇したBランク相当の魔獣が、中心になってくると思う。配信ドローンの稼働率も落ちるはず。つまり……」
レイラが、刃を見た。
蒼い瞳に、微かな含みがある。
「……カメラの死角が、増える」
刃は缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。
「…………それを俺に言ってどうする」
「別に。情報共有は大事でしょ?」
「お前が共有したいのは情報じゃなくて、既成事実だろ」
レイラが笑った。少女のような、無防備な笑顔だった。
「ふふ。バレた?」
「最初から透けてる」
刃はため息をついた。
しかし、その表情は穏やかだった。
「……いいから、もう寝ろ。肩の傷、無理すんな」
「うん。……おやすみ、刃」
「おやすみ」
レイラが部屋を出ていく。
ドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
刃は空になった缶コーヒーを机の上に置き、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
仮設プレハブの安っぽい天井が、蛍光灯に照らされて白く光っている。
(……4階層か。魔獣のランクが上がれば、レイラのチームにも負荷がかかる。俺のやることは変わらない。カメラの死角で、誰にも気づかれないように、荷物を持ちながら後ろを守る)
ゲーム端末を手に取り、画面をタップする。
ダンジョン攻略ゲームのホーム画面が映し出された。
(……ゲームの中のダンジョンのほうが、よっぽど難しいな)
それは、世界最強の探索者にしか言えない冗談だった。
刃はゲームを始め、そのまま眠りに落ちた。
手に端末を握ったまま、ぎりぎり充電ケーブルを挿しながら。
イベント2日目は、静かに幕を開けようとしていた。




