第19話「やれやれ、残業代は出るのかな」
カメラの赤いランプが消えた。
最後の一機が壁に叩きつけられ、破片が床に散らばる。
もう映像を撮る眼は、どこにもない。
完全な密室。
刃は一つ、長い息を吐いた。
(……よし)
まず、バックパックを壁際に置いた。丁寧に、荷物が傷まないように。
ポーターの仕事道具だ。雑に扱うわけにはいかない。
次に、鉄剣を腰の鞘から引き抜いた。
量販店で買った安物の鉄剣。刃渡り70センチ、重量1.2キロ。探索者なら誰でも最初に買うような、何の特徴もない一振り。刃はその柄を握り直し、軽く手首を回した。
(……久しぶりだな、こういうの)
前方では、レイラがまだ戦っていた。
右腕から血を流しながら、氷魔法を放ち続けている。Aランク探索者2名が背中を庇い、残りのBランクは負傷者を抱えて壁際に退避している。
戦線は、もう保たない。あと数十秒もすれば、群れの圧力で全員が飲み込まれる。
刃は、静かに歩き出した。
最後尾から。
誰にも気づかれないまま、倒れた探索者を跨ぎ、瓦礫を避け、血溜まりを踏まないように。まるで混雑した駅のホームを歩くような自然さで、戦場の中央へと進んでいく。
Bランク探索者の一人が、壁際で刃の姿を見た。
「ポーターの人……!? 何を……危ない、下がってください……!」
刃は振り返らなかった。
ただ、右手を軽く上げてひらひらと振っただけだ。
(大丈夫。すぐ終わるから)
レイラの背中が見えた。
銀色の髪が血と汗で額に張り付いている。白い戦闘服は切り裂かれ、左肩には魔獣の爪痕が赤く走っている。それでも剣を握る手は震えていない。
レイラの隣のAランク探索者が、前方の大型魔獣に弾き飛ばされて壁に叩きつけられた。
「っ……!」
「ガレス!」
レイラが叫ぶ。だが前方からさらに3体の鎧蜥蜴が迫り、振り返ることすらできない。
その時。
レイラの横を、黒いパーカーがすり抜けた。
「え――」
レイラが振り向く前に、刃は彼女の前に出ていた。
レイラと群れの間に立ち、右手に鉄剣を下げたまま、前を向いている。
「刃……? 何を」
「ちょっと残業する。すぐ終わる」
振り返らずに、そう言った。
刃の背中は、細くて、頼りなかった。
パーカーにジャージ。IDカードにはFランクと印字されている。腰には量販店で買った安物の鉄剣が一振りだけ。
どこからどう見ても、ただのポーターだった。
だが。
レイラの氷眼が、刃の体から流れ出した魔素を捕えた瞬間――。
(……え)
氷眼の数値が、振り切れた。
測定可能範囲を超過。表示がエラーを吐いている。
(……いつもの手加減とは、桁が違う。これが、刃の――封印を解いた時の魔素……?)
レイラの思考が追いつく前に。
刃が、息を吸った。
静かに。ゆっくりと。
師匠に教わった呼吸法。基本の、一番最初の、ただの呼吸。
そして。
一歩、踏み込んだ。
「——」
音は、なかった。
いや、正確に言えば、音を超えた。
空気が裂けるよりも速く、魔素が反応するよりも速く、鉄剣が振り抜かれた。
一閃。
刃の前方10メートル以内にいた影猟犬12体が、同時に崩れ落ちた。
斬られたのではない。斬撃の圧力だけで意識を刈り取られた。刃はまだ、一体にも触れていない。
(……力、入れすぎた。武器が違うとやっぱり狂うな。手加減しないと)
2歩目。
右に半歩ずれて、鎧蜥蜴3体の間を通過した。
通過したように見えた。
しかし3体は、刃が通り過ぎた0.5秒後に、外殻の継ぎ目に沿って綺麗に崩壊した。
3歩目。
天井から降ってきた巨大な蜘蛛型魔獣の糸を、鉄剣の腹で受け流し――受け流した力をそのまま返して、蜘蛛の体を天井に叩き返した。蜘蛛は天井のはるか上、見えない暗闇の中に消えた。
4歩目。5歩目。6歩目。
一歩ごとに、魔獣が消えていく。
倒しているのではない。通過しているのだ。刃が歩いた道の左右にいた魔獣が、まるで風に吹かれた蝋燭のように、次々と崩れ落ちていく。
血も、悲鳴も、衝撃音もない。
ただ静かに、「存在していたもの」が「存在しなくなっていく」。
レイラは、立ち尽くしていた。
(……何、あれ)
氷眼が、刃の動きを追おうとして、失敗している。
速すぎるのではない。遅すぎるのでもない。刃の動きは見えている。歩いているだけだ。ゆっくりと、静かに、何の気負いもなく歩いている。
なのに、彼が通過した後に残るのは、沈黙だけだった。
(……あれは、剣技じゃない。あれは――ただの歩行だ。歩いているだけで、周囲の魔獣が消えていく。……そんなこと、人間に可能なの?)
刃は前方の魔獣の密集地帯を抜け、通路の奥へと歩いていった。
その背中は変わらず細くて、頼りなくて、どこにでもいそうなポーターの背中だった。
だが、その道の上には――もう、何も残っていなかった。
後方の群れに対しても、刃は同様に処理した。
振り返り、来た道を戻るように歩く。
右手の鉄剣は、一度も振り上げることなく、下げたまま。
ただ歩くだけ。
通過するだけ。
それだけで、後方から押し寄せていた魔獣の群れが、波が引くように消えていった。
100以上いた前後の魔獣が、すべて沈黙するまでに要した時間は。
――40秒。
戦場が、静まり返った。
蒼い苔の光だけが、廃墟の壁面を照らしている。
魔素の粉塵が、雪のように、ゆっくりと降り注いでいた。
神盾機関チームの探索者たちは、誰一人として動けなかった。
何が起きたのか、理解が追いついていない。
Aランクの探索者が、乾いた声を絞り出した。
「……何だ、今のは」
誰も答えなかった。答えられる者がいなかった。
刃は鉄剣を鞘に収め、壁際に置いていたバックパックを拾い上げた。
肩紐を調整し、背負い直す。
何事もなかったように。
いつも通りの、ポーターの所作で。
レイラが、一歩を踏み出した。
「刃」
声が、震えていた。
血と汗にまみれた顔で、蒼い瞳を大きく見開いて、レイラは刃を見つめていた。
胸の奥が、熱かった。
ダンジョンの38階で刃の背中を見た時と同じ、あるいはそれ以上の、圧倒的な感情が溢れていた。
(……ああ、やっぱり)
レイラの氷眼から、涙が一筋、零れ落ちた。
知っていた。
刃が強いことは、ずっと知っていた。あの日、ダンジョンの38階で救われた時から。そして見学を許され、隣で過ごすようになってからも、彼の「手加減」の凄まじさをずっと見てきた。
でも、この人は絶対に表には出ない人だった。
カメラの死角で、誰にも気づかれないように、痕跡すら残さずに。それが八雲刃という人間の生き方だった。
(……なのに、今)
レイラの前に立った。
自分から。隠れることをやめて。チームの全員が見ている中で。
あれほど「目立ちたくない」「巻き込まれたくない」と言い続けていた人が。
(……私のために、出てきてくれた)
その事実が、レイラの中の何かを、静かに壊した。
「刃、あなたは」
「俺はただのポーターだ」
刃は振り返らなかった。
「さっきのは……その。害獣駆除だ。ポーターの業務範囲のはずだ」
そんな業務は入ってない。
「……とりあえず、怪我人の手当てが先だ。救急キットはバックパックの左ポケットに入ってる。先に出す」
刃はバックパックを降ろし、テキパキと救急キットを取り出し始めた。
完璧にポーターの仕事に戻っている。100体以上の魔獣を殲滅した40秒前が嘘のように。
レイラは、何か言おうとして、口を開いた。
だが、声にならなかった。
代わりに、ぐしゃりと顔を歪めて、笑った。
「……ありがとう」
震える声で、それだけ言った。
刃の手が、一瞬だけ止まった。
「…………どういたしまして」
ぶっきらぼうに。
だが、確かに。
それは、刃がレイラに向けた、初めての「どういたしまして」だった。
深淵都市の3階層。
蒼い光と粉塵の中で、世界最強のポーターは、黙々と包帯を巻いていた。




