第18話「予定調和のイレギュラー」
3階層への降下は、順調だった。
2階層までの探索で神盾機関チームは順路を把握し、各探索者の連携もほぼ完璧に機能していた。D-Tubeの配信コメントは絶えず興奮を更新し続け、視聴者数は5億を超えていた。
「順調」という言葉が、最も危険な言葉であることを、刃はよく知っていた。
3階層の構造は2階層よりさらに複雑だった。
広間と細い通路が不規則に入り組み、1階層の「大通り」的な見通しは完全に失われている。高い建物の廃墟が連なり、魔獣の生息密度も明らかに上がっている。
(……魔素密度が濃くなったな。2階層の1.5倍以上か)
刃はバックパックの肩紐を直しながら、周囲の空気を読んだ。
鼻の奥が、微かにツンとする。魔素の濃度が変化する時の感覚だ。
(……分岐点を抜けたら右ルートを進む予定だったな。左はまだ索敵が不十分だ)
先頭のレイラが手信号でチームを制止した。
前方の広間に、複数の魔獣の気配。
「前方に4以上。氷眼で確認、推定Bランク相当の鎧蜥蜴。連携して動いている、群れではなく組織行動だ」
チームに緊張が走る。
「2班に分かれて挟撃。Aランク4名はサブブレード装備で接近。B班のリーダーは魔法支援で拘束を優先。私が前衛で囮を引く。ポーターは後方でスタンバイ、不測の事態に備えて通路を塞がないように」
「了解です」
整然とした返答。さすがは神盾機関だ。
刃は「後方スタンバイ」の指示を受けて、通路の壁際に退いた。
チームが粛々と展開していく。
(……レイラの指揮は本物だな。索敵、判断、布陣、全部が速い。この女が「最強」と言われ続けた理由が分かる)
戦闘が始まった。
鎧蜥蜴は4匹。硬い外皮に覆われた大型の魔獣だが、レイラの氷結魔法が外皮の間隙を縫って胴体を凍結させ、身動きを奪う。Aランク4名が一斉に斬りかかり、Bランクの魔法支援で拘束を重ねた。所要時間は43秒。完璧な連携だった。
ドローンのスピーカーから、実況の声が降ってくる。
『神盾機関チーム、3階層の鎧蜥蜴を連携で撃破! 1分を切るタイムです! さすが主催チーム!』
チームが次の通路へ進もうとした、その時だった。
刃の左耳が、何かを捉えた。
音ではない。
魔素の「質」の変化だ。
(……何かが、起動した)
周囲の魔素の流れが、ほんの一瞬だけ乱れた。
誰にも気づかれないほどの、微細な揺らぎ。しかし訓練された刃の感覚器官は、その異変を確かに拾い上げていた。
刃の視線が、壁面の隅に向いた。
壁に埋め込まれた小さな金属片。魔素で偽装されているが、師匠から叩き込まれた「偽装への眼」には通用しない。
(……あれは。電波遮断結界だ。起動した。前日に感知した施設のものと同じ魔素パターン)
胃の底が、冷えた。
次の瞬間。
「通信が、切れました!」
Bランク探索者の一人が声を上げた。
「D-Tubeのドローンとの接続も……!」
「外部との無線も全部駄目です! 何かに遮断されています!」
チームがざわめく。
ドローンのスピーカーが騒いでいたが、それも数秒後に沈黙した。
配信が、途絶えた。
『おっと、神盾機関チームからの映像が突然途絶えました! 3階層は魔素密度が高く、まれに通信障害が……』
その実況の声も聞こえなくなった。
文字通り、完全な沈黙が落ちた。
レイラは瞬時に状況を把握した。
「全員、冷静に。通信が遮断された。自然現象の可能性もあるが……全員、武器を手に持て。前方と側方への索敵を怠るな」
声は平静を保っていた。しかし氷眼には、微かな警戒の色が宿っている。
刃は壁際から一歩進み出た。
(俺はただのポーターだ。でも……)
言い訳を頭の中で並べようとして、やめた。
(……自然現象じゃない。あのジャマーは人工的に設置されたものだ。しかも今起動したということは、誰かが意図してこのタイミングを選んだということで……)
その考えが完結する前に、床が揺れた。
地鳴り。
最初は微かだった。だが2秒、3秒と続き、壁面の小石がころころと落ちてくる。
廃墟の窓枠が軋み、遠くから低い唸りのような音が響いてきた。
「……これは」
Aランク探索者の一人が、青ざめた顔で呟いた。
「スタンピードの、予兆では……」
誰も否定できなかった。
スタンピード――ダンジョン内の魔獣が何らかの原因で一斉に暴走し、制御不能の群れとなって押し寄せる現象。国定ダンジョンの深層でもまれに発生し、毎回多数の犠牲者を出す最悪の事態だ。
未踏の深淵都市の中層で、誘発されたとなれば――。
「落ち着いて」
レイラの声が、静かに、しかし確固として響いた。
「まだ確認されていない。氷眼で前方の魔素密度を観測する。全員、隊列を維持して後退の準備。脱出ルートは2階層への昇降路が最短だ。半数は後衛に回れ」
チームが動く。Aランク4名が後衛に展開し、Bランクが中央に集まった。
刃は静かに、バックパックを下ろした。
床に置いて、片膝をつく。目を閉じる。
(……感知の範囲を広げる。魔素を封印したまま、外部への感知だけを開放する。師匠のやり方だ)
意識が広がる感覚。
自分の体の輪郭が溶けて、魔素の流れに交じり込んでいくような。
(……前方80メートル。魔素密度が急上昇。魔獣の熱反応が……)
刃は目を開けた。
(多い。多すぎる。前方の通路全体に、魔獣の群れが充填されている。数えられない。50、いや、100以上か。しかも後方からも――3階層の入口から先を塞がれている。挟撃されている)
刃の表情は変わらなかった。
だが、視線だけが鉄のように硬くなった。
「地鳴り」が、轟音に変わった。
前方の通路の暗がりが、蠢いた。
無数の眼の光が、赤く瞬いている。
「来ます!」
Aランクの一人が叫んだ。
前方から、魔獣の群れが押し寄せてきた。
影猟犬、鎧蜥蜴、さらに見たことのない巨体の魔獣が混在している。数は優に50を超えている。
「全員、交戦!」
レイラの笛のような声が飛んだ。
チームが応戦する。Aランクが前衛で斬り込み、レイラが中央で氷魔法を連射し、魔獣の advance を封じようとする。
しかし、数の差が圧倒的だった。
一匹倒せば、また一匹が来る。二匹倒せば、また三匹が来る。
エンドレスの波。チームのBランク探索者たちの顔から、徐々に血の気が引いていく。
「怯むな! 足元を固めろ!」
レイラの声は揺れていない。だが、彼女の氷眼には、初めて「焦燥」の色が宿っていた。
(後方ルート、塞がれた。前方は飽和状態。側面の小部屋に一時退避するしかないが、それも長くは保たない)
刃は後方ルートの様子を確認した。
後方の通路の入口。そこに、6体の魔獣がいた。
チームの後衛が対応しているが、数は増えつつある。
(……挟撃。前後から同時に進んでくる。これは自然現象じゃない。誘導されている。魔獣誘引装置か、それに相当する何かだ)
レイラの隣を守っていたAランク探索者が、右肩を魔獣に食い破られて叫んだ。
「っ!」
「バックステップ! 下がれ!」
レイラが咄嗟に氷の壁を展開し、魔獣ごとAランク探索者を突き飛ばして距離を取った。
防ぎ切れなかった。
少しずつ、じわじわと、戦線が削れていく。
探索者の中に傷ついた者が増えていく。
魔獣の群れは、止まらない。
(……ポーターは関係ない。俺の仕事は荷物を持つことだ。戦闘はプロたちに任せる。それが約束だ)
刃は自分の鉄剣を、腰の鞘の上に手を添えて、静かに立っていた。
(でも)
目の前でレイラが、追い詰められていた。
傷ついた仲間を庇いながら、氷魔法を連射しながら、それでも倒れない背中。
揺れない声。崩れない指揮。
それでも、限界が迫っていた。
(……でも、俺は)
刃の奥歯が、静かに噛み合わさった。
カメラのドローンは沈黙している。通信は途絶している。今ここで何が行われているかを、外部で知る者は誰もいない。
(……カメラは?)
刃は素早く頭上を確認した。
D-Tubeのドローンたちは通信を失い、ただ暗い空間を漂っているだけだ。映像は記録されているかもしれないが、今この瞬間、外部への電波は届いていない。
(まだだ。まだカメラは――)
ドローンの一機が通路の壁に激突して、赤いランプが消えた。
もう一機が魔獣の攻撃に巻き込まれ、天井に叩きつけられた。
静かに、カメラの「眼」が一つ、また一つと閉じていく。
レイラが、袖口から血を滲ませながら、それでも剣を振り続けていた。
(……ダメだ、見てられない)
刃の中で、何かが音を立てて動いた。
ため息が、一つ出た。
刃は腰に手をかけた鉄剣の柄を握り直し、前を向いた。
(……残業代、後で請求しよう)
その瞬間は、まだ来ていない。
カメラがまだ、一機だけ残っていた。
ぼんやりと、赤いランプが瞬いている。
刃は動かなかった。
じっと、待った。
戦場の轟音の中で、ただ静かに待ち続けた。
そして――。
カメラの赤いランプが、消えた。




