第11話「最強のモブ、日常という名の異常に帰る」
朝の7時。
安アパートの一室で、八雲 刃は布団から這い出した。
6畳一間。万年床の布団。壁際に積まれたカップ麺の空き箱と、充電ケーブルが刺さりっぱなしのゲーム端末。窓から差し込む朝日が、散らかった部屋を容赦なく照らしている。
控えめに言って、世界最強の男の住居とは思えない有様だった。
(……今日も平和だ)
刃は欠伸をしながら冷蔵庫を開けた。中身は缶コーヒーが3本と、賞味期限が昨日だった納豆パック。
納豆をかき混ぜながら、ゲーム端末の通知を確認する。
ソーシャルゲームのログインボーナス。深夜に回した限定ガチャの結果。そして――。
『ポーター枠、空いてるよ。
時給交渉は後日。
――レイラ :)』
昨日のメッセージが、既読のまま画面に残っている。
(……返信してないな。まあ、返す義理もないけど)
刃は端末をポケットにしまい、納豆ご飯を流し込んだ。
今日の予定は決まっている。協会でFランクの採取クエストを受注し、低層の国定ダンジョンで薬草を集め、報酬をもらって帰宅し、ゲームをして寝る。
完璧なルーティンだ。何の変哲もない、何の刺激もない、底辺探索者としての穏やかな一日。
――のはずだった。
◇ ◇ ◇
ダンジョン探索者協会、第七支部。
朝9時の受付は、まだそれほど混雑していない。早朝から中層クエストに出発するBランク以上の探索者たちはとっくに出発しており、残っているのはのんびりした低ランクのフリーランスばかりだ。
刃はその中に自然と溶け込んでいた。
「八雲さん、おはようございます。今日はどのクエストにされますか?」
受付嬢の春日――いつも穏やかな笑顔で対応してくれる、刃にとっては数少ない「まともに話す他人」の一人だ。
「いつもので。翠麻草の採取、まだ残ってますか」
「ありますよ。……あ、でも今日は翡翠苔の採取も出てますね。報酬が翠麻草の1.5倍です。ちょっと奥まったエリアですけど、八雲さんならきっと大丈夫ですよ」
「奥まってるのか……人、来ないですかね」
「来ないと思います。あのエリア、不人気ですから」
「じゃあそれで」
人が来ない。それが刃にとっては何よりも重要な条件だった。
用紙を受け取り、装備チェックを済ませる。腰には使い古した安物の鉄剣を一振り。愛刀は自宅に置いてきている。Fランクのクエストに深層用の刀を持っていったら、それだけで不審がられる。
ポーチには空の採取袋と、携帯食料と、ゲーム端末。
以上。
(よし、行くか)
刃は協会を出て、最寄りの国定ダンジョンへと向かった。
第七支部の管轄にあるゲートは、駅前の商業ビルの地下2階にある。エスカレーターで降りていくと、コンビニとドラッグストアに挟まれた場所に、蒼白い光を放つ転送門が佇んでいた。
日常の風景の中にある、異世界への入り口。この光景にも、もう誰も驚かない時代だ。
ゲートをくぐり、1階層に転送される。
薄暗い洞窟。湿った空気。壁面に薄く光る魔素の結晶。
低層とはいえダンジョンはダンジョンだ。Fランクの探索者にとっては、油断すれば命に関わる場所――ということになっている。
(まあ、翡翠苔が生えるのは3階層あたりか。さっさと済ませて帰ろう)
刃はのんびりと歩き始めた。
1階層の薄暗い通路を抜け、2階層への階段を降りる。途中で遭遇したFランクモンスターの代名詞である洞窟鼠を、鉄剣の柄で軽く小突いて気絶させた。
斬りもしない。気絶させるだけ。
殺す必要がないなら殺さない。それが刃のスタイルだった。もっとも、74階層のエリアボスを素振りで両断した男にとって、目の前の鼠は「障害物」というより「景色の一部」に近い。
3階層に到達し、奥まった湿地帯のエリアに入る。
受付嬢の言った通り、人の気配はない。翡翠苔は湿度の高い岩壁の裏側に群生しており、採取には少しばかり面倒な地形を歩く必要がある。低ランク探索者には効率が悪く、中ランク以上には報酬が割に合わない、絶妙に「誰も来ない」クエストだった。
刃にとっては天国だ。
(ここなら誰にも見られない。安心して――)
と、その時。
魔素の残留を感じた。
極めて微細な、一般の探索者なら絶対に気づかないレベルの気配。
だが、刃は74階層を日常的にうろつくバケモノだ。この程度の隠蔽で彼の感覚をごまかせるはずがなかった。
(……嘘だろ)
刃は足を止めず、自然な動作で周囲を探った。
気配の主は――3階層の湿地帯の入り口付近、巨大なキノコの群生の裏側。
そこに、フード付きのローブを目深にかぶった人影が、息を殺して潜んでいた。
(あいつ……もう来たのか。昨日の今日だぞ)
銀色の髪が、ローブの隙間から僅かに覗いている。
世界ランキング8位のSランク探索者が、Fランクダンジョンの3階層で、巨大キノコの裏に隠れている。
控えめに言って、画が異常だった。
刃はため息を飲み込み、何も気づいていないフリをして翡翠苔の採取を始めた。
(……見ているだけなら止めない、って言ったのは俺だしな)
岩壁に張り付いた翡翠色の苔を、専用のヘラで丁寧に剥がしていく。
その一挙手一投足を、30メートル後方のキノコの裏から、蒼い瞳が食い入るように観察していた。
(魔素の消し方は……まあ、深層の時よりマシか。でも隠密の基礎がなってないな。足音は消せてるけど、ローブの裾が地面に引きずってる。あと、息を止めすぎだ。10分に1回、大きく吸ってるのがバレバレだ)
刃は内心で採点しながら、黙々と苔を採取し続けた。
2時間弱で採取袋が満杯になり、刃は立ち上がった。
(よし、ノルマ達成。……で、あいつはまだいるのか?)
ちらりと気配を探る。
――いた。2時間、微動だにせず、キノコの裏に張り付いている。
執念がすごい。すごすぎて少し怖い。
(……まあ、いいか。約束は約束だ)
刃は何事もなかったかのようにその場を離れ、地上へと戻った。
キノコの裏のフード姿は、刃が見えなくなった後もしばらくその場に留まり――やがて、小さくガッツポーズをした。
「……今日は2時間12分も近くにいられた。新記録」
レイラ・アシュフォード。世界ランキング8位。蒼氷姫。
その日の「見学」成果を、手帳に几帳面に記録しながら、彼女は満足げに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
翌日も、その翌日も、同じことが続いた。
刃が協会でクエストを受注し、ダンジョンに向かう。
その後ろを、変装したレイラが完璧な――本人はそう思っている――隠密スキルで尾行する。
3日目。刃が2階層で洞窟蜥蜴を鉄剣の腹で叩いて気絶させた時、30メートル後方のキノコの裏から小さなメモを取る音が聞こえた。
(今日は30メートルじゃなくて25メートルだな。距離、詰めてきてる)
4日目。刃が薬草の根を掘り返している時、ふと振り返ると、20メートル先の岩陰に蒼い光が見えた。
レイラが特異眼の氷眼を無意識に発動させていたのだ。瞳が蒼く光っている。隠密の意味がない。
(……おい、目が光ってるぞ)
5日目。
刃はいつものように3階層の湿地帯で翡翠苔を採取していた。
しかし、今日はいつもと違う気配がもう一つあった。
洞窟蜥蜴よりも一回り大きい、Dランク相当の魔獣――岩殻蟹が、湿地帯の奥から這い出してきたのだ。
3階層にDランクの魔獣が紛れ込むのは珍しいが、ダンジョンでは稀に起きる「迷い込み」だ。Fランクの探索者が遭遇すれば、逃走一択の相手。
(まあ、面倒だな。放っておくか……いや)
刃の視線が、一瞬だけ後方に流れた。
レイラの隠れているキノコの群生地と、岩殻蟹の進行方向が、微妙に重なっている。
レイラなら余裕で倒せる相手だ。だが、ここでSランクの魔法を使えば、ダンジョン内のセンサーに記録が残る。Fランクエリアで異常なマナ反応があれば、協会が調査に動く。
(……あいつが正体バレたら、俺にまで飛び火する。仕方ないか)
刃は自然な動作で岩殻蟹の前に立ち、鉄剣の柄頭で甲羅をコンッと叩いた。
たった一度。
それだけで、Dランクの魔獣は白目を剥いてひっくり返り、ピクリとも動かなくなった。
――気絶。
斬ってもいない。殴ってもいない。柄頭で「コンッ」と叩いただけだ。
それでDランクの魔獣が戦闘不能になった。
30メートル後方のキノコの裏で、レイラが口を押さえて声を殺していた。
目は見開かれ、瞳が蒼く輝いている。また氷眼が無意識に発動している。
(……あ、さっきの一瞬。柄頭が甲羅に触れた瞬間、魔素が甲羅の隙間を通って内部に浸透した。あれは……ただの打撃じゃない。魔素を物理衝撃に乗せて、外殻を無視して内部の神経節だけを的確に痺れさせた!?)
手帳にペンを走らせる手が震えていた。
(すごい。すごい。すごい。こんなの、教科書にも文献にもどこにも載ってない。柄頭で「コンッ」って叩いただけなのに、やってることの精度が異次元すぎる――!)
刃はそんなことを一切知らず、岩殻蟹を避けて通り過ぎ、何事もなかったかのように苔の採取を再開した。
(今日のノルマ、あと半分くらいか。さっさと終わらせて新作ゲームやりたいな……)
最強の男は、ただの日課を消化していた。
その背中を、世界最強を目指す少女が、震える手でメモし続けていた。
最強のモブの日常に、もう一つの影が定着し始めている。
それは、彼にとっての「異常」であり、しかし少しだけ――本当にごく僅かだけ「悪くない異常」だった。




