第10話「かくして、最強のモブは底辺を装う」
地上の光を見たのは、3日ぶりだった。
ダンジョン1階層の出口ゲート。白い光に包まれた転送門をくぐり抜けた瞬間、夕暮れの空気が肺を満たした。
排気ガスと、屋台の焼き鳥の匂い。遠くで鳴るクラクション。人混みの喧騒。
(……帰ってきたな)
刃は目を細めた。
74階層の暗闘から3日。普通の探索者なら死んでいてもおかしくない深度から、何事もなかったかのように帰還した男は、くたびれたパーカーのフードを深く被り直した。
隣を歩くレイラも、フードとマスクで顔を隠している。Sランクのトップ配信者が、こんなところをFランクの無名探索者と一緒に歩いているところを見られたら大騒ぎだ。
「ここでお別れだな」
刃はダンジョン出口前の広場で、足を止めた。
「……うん」
レイラの声が少し沈んだ。
「なんだよ、その顔。別に二度と会わないとは言ってないだろ」
「分かってる。分かってるけど……」
レイラはマスクの奥で唇を噛み、それから笑った。
「……次はいつ、見学しに行っていい?」
「好きにしろよ。ただし、見つかるなよ。お前の隠密、そこそこガバいからな」
「ガバくない!」
「74階層で仕掛けた全域追跡の魔素を消し忘れて帰ってきたやつが何か言ってるな」
「あっ……!」
レイラが慌てて自分の魔素残留を確認する。刃は呆れたように肩をすくめた。
「……じゃあな、レイラ」
「うん。また……刃」
二人は背を向けて、それぞれの日常へ歩き出した。
片方は最強のモブとして。もう片方は最強のトップ配信者として。
同じ街に住んでいるのに、住む世界は全く違う。
ただ一つだけ、深層の闇の中で交わした「秘密の契約」だけが、二人を繫いでいた。
◇ ◇ ◇
翌日。
神盾機関本社ビル、37階。
トップ探索者専用のブリーフィングルームに、レイラは着席していた。
銀色の髪を綺麗にまとめ、企業のロゴが入った白いコートを羽織った姿。深層で泥まみれになりながら泣いていた少女の面影はどこにもない。
冷たく澄んだ蒼い瞳が、スクリーンに映し出された資料を見つめている。
「レイラ、3日間の行方不明についてだが」
対面に座る男――神盾機関探索部門統括、ガルシア・ベルモンドが低い声で問いかけた。50代半ば、銀縁の眼鏡の奥に冷徹な知性を宿す、企業の頭脳たる男だ。
「報告書は提出しました。単独での深層調査です。私個人の裁量の範囲内かと」
「Sランクの単独深層潜行は、事前申請が必要だ。知っているだろう」
「失念していました。以後気をつけます」
レイラの声は完璧に平坦だった。
表情一つ変えない。感情の波を一切見せない。
――これが、蒼氷姫と呼ばれるSランク探索者の、企業での顔だった。
「……まあいい。本題に入る」
ガルシアはスクリーンを切り替えた。
巨大なダンジョンの断面図が表示される。
地表から推定地下100階層以上に広がる、世界最大級のダンジョン深淵都市。その中層域――50階層付近に、赤い点が複数点滅していた。
「深淵都市の中層域、50階層近辺で新たな未踏領域が確認された。地殻変動による新層の出現だ。魔素密度は既存の50階層の約3倍。未知のモンスターの発生も予測されている」
「……新層」
「各企業合同の開拓イベントが計画されている。主催は我々神盾機関。参加企業は現時点で12社。配信規模は全世界同時で推定視聴者数2億人」
レイラの蒼い瞳が、僅かに輝いた。
だが、それは探索者としての興奮ではなかった。
(……未踏ダンジョンの開拓イベント。世界中が注目する舞台。配信カメラだらけの環境)
頭の中に浮かんだのは、一人の男の顔だった。
くたびれたパーカーを着て、面倒くさそうにゲームをしている、世界最強の男。
(刃は絶対に来たがらない。でも……)
「レイラ。当然、お前にはチームリーダーを務めてもらう」
「……了解しました」
表面上は冷静に頷きながら、レイラの心臓は別の理由で高鳴っていた。
◇ ◇ ◇
同日。
ダンジョン探索者協会、第七支部の受付窓口。
「えーっと、F〜Eランクの採取クエストで、報酬がそこそこで、人が来ないエリアのやつ……」
「あ、八雲さん。いつものですね。はいどうぞ」
受付嬢が慣れた手つきでクエスト用紙を差し出す。
刃は――いや、この協会では「八雲ジン」として登録されているFランク探索者は、用紙を受け取りながらぼんやりと掲示板を眺めた。
周囲には、それなりに活気がある。
C〜Bランクの中級探索者たちが、パーティーを組んで中層クエストに向かう準備をしている。D-Tubeの配信用ドローンを調整しているグループもいた。
(……平和だな)
3日前、74階層でエリアボスを素振りで両断したことが嘘のようだ。
ここでは、誰も刃を見ない。誰も気にしない。万年Fランクの底辺フリーランス。それが八雲ジンという男の、この世界での「役割」だった。
(よし。今日から平穏な日常の再開だ。低層で適当に薬草でも採って、帰ったらゲームして寝る。完璧な一日だ)
刃がご機嫌に用紙をポケットにしまい、出口に向かおうとした時だった。
協会ロビーの大型スクリーンが、ニュース速報を映し出した。
『――速報です。神盾機関が主催する「深淵都市未踏領域開拓イベント」の概要が正式に発表されました。世界ランキング上位の探索者が多数参加するこの大規模イベントは、来月開催が予定されています——』
スクリーンには、蒼い髪の少女の姿が映し出されていた。
蒼氷姫レイラ・アシュフォード。世界ランキング8位のSランク探索者にして、1200万人のフォロワーを持つトップ配信者。
画面の中の彼女は、クールで凛として、完璧に冷たい美しさをたたえている。
3日前、泥だらけで泣きながら「嬉しい」と笑っていた女の姿は、微塵もなかった。
(……あいつ、画面だと全然違う人間に見えるな)
刃はぼんやりとスクリーンを見上げた。
『――なお、本イベントでは一般のフリーランス探索者の参加枠も設けられており、サポート要員やポーター枠での応募が可能とのことです——』
刃の目が、一瞬止まった。
(ポーター枠……?)
嫌な予感がした。
非常に具体的で、非常に的確な嫌な予感が。
ポケットの中のゲーム端末が、震えた。
メッセージ通知。差出人は「非通知」。
刃はゆっくりとゲーム端末を取り出し、メッセージを開いた。
『ポーター枠、空いてるよ。
時給交渉は後日。
――レイラ :)』
「…………」
刃は天を仰いだ。
協会の白い天井が、妙に眩しかった。
(……俺の平穏な日常、何日もったんだ? 半日か?)
スクリーンでは、レイラのインタビュー映像が流れ続けている。
冷たく完璧な表情で、イベントの抱負を語る蒼い瞳。
だが、刃にはその瞳の奥に隠された、どこか楽しそうな光が見えた気がした。
(……あの目、絶対に企んでるな)
ため息をつき、メッセージ画面を閉じる。
返信は、しなかった。
刃は協会を出て、いつもと同じ道を歩き始めた。
いつものように端末でゲームをしながら、いつものように誰にも注目されず、いつものように世界の隅っこを歩く。
――かくして、最強のモブは底辺を装う。
世界を片手で変えられる力を持ちながら、低層の薬草採取で小銭を稼ぎ、安アパートでゲームに明け暮れる。
それが八雲 刃の選んだ「平穏な日常」だった。
だが、その日常に、もう一つの影が忍び寄り始めている。
銀色の髪と蒼い瞳。狂気的な執着と、純粋な渇望を宿した少女。
彼女が巻き起こす嵐が、八雲 刃の「平穏」を根底から揺るがす日は――そう遠くない。
これは、世界最強のモブと、彼に人生を賭けた少女の物語。
第一幕は幕を下ろし、しかし物語は、まだ始まったばかりだ。
(壱ノ太刀、完)
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