9.意見って違ってて良いんだ
回帰してから、半年ほどが過ぎた。
最近の私は、何かを口にする前に、ほんの少しだけ考えるようになった。
これは、今言う必要があることなのか?
相手は、それを私に聞いているのか?
もちろん、考えたところでわからないことも多いし、言わなかったあとで、言った方がよかったのではないかと思うこともあった。逆に、口にしてから余計なことだったのではないかと不安になることもたくさんある。
…正直なところ、今でも正解はよくわからない。
ただ、最近少し不思議に思うことがあった。
一度目の人生と比べて、周囲の人たちとの距離が、ほんの少し近いような気がするのだ。
「ヴァレリア様!」
ある日のお茶会で、名前を呼ばれて振り返ると、セシリア様がこちらへ手を振っていた。
その周りには、同じ年頃の令嬢たちが何人か集まっている。
「こちらへいらっしゃいません?」
「ええ」
近づくと、自然に私一人分の場所が空けられた。
「先ほどからお菓子のお話をしていましたの」
「公爵家の料理人が作る焼き菓子が、とても美味しいそうですわ」
「ヴァレリア様は召し上がったことがございます?」
「いいえ。ありませんわ」
「では今度、皆でいただきたいですわね」
「ええ、ぜひ」
話しながら、ふと思う。
一度目も、こんなふうだっただろうか?と。
お茶会で誰かと話すことは、もちろんあった。
一人で過ごしていたわけではない。
けれど、こんなふうに、向こうから名前を呼ばれることが、こんなに多かっただろうか。
「ヴァレリア様?」
「はい?」
「どうかなさいました?」
「…いいえ。なんでもありませんわ」
気のせいかもしれない。
一度目の人生の記憶は、細かいところまでは残っていないから、比べようにも比べられない。
ただ、一度目の私は、誰かの輪を見つけると、自分からそこへ入っていくことの方が多かったような気がする。でも今は
「ヴァレリア様、こちらも召し上がってみません?」
「あら、ありがとうございます」
向こうから声をかけてもらえる。
それが、なんだか不思議だった。
家へ戻ると、マーサが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
部屋へ戻り、着替えを手伝ってもらう。
マーサが髪飾りを外しながら言った。
「本日のお茶会はいかがでしたか?」
「楽しかったわ。セシリア様たちと、お菓子のお話をしていたの」
「まあ。それは楽しそうですね」
「今度、皆で公爵家の料理人が作る焼き菓子をいただこうという話になったのよ」
「公爵家の焼き菓子…」
マーサの手が、一瞬止まった。
「マーサ?」
「はい?」
「今、反応したでしょう」
「…しておりません」
「したわ」
「気のせいでございます」
明らかに目を逸らした。
「もしかして、焼き菓子が好きなの?」
「えっ」
マーサがこちらを見る。
「…はい。その、人並みには」
「人並み?」
「…好きです」
なんだか恥ずかしそうに言う。
「どんなものが好きなの?」
「私は…蜂蜜が入ったものが好きです。少し甘いくらいのものが」
「そうなのね」
知らなかった。
マーサは蜂蜜の入った焼き菓子が好き。
たったそれだけのことなのに、なぜか妙に新鮮だった。
「…………」
「お嬢様?」
「マーサは、甘いものが好きなのね」
「はい」
「知らなかったわ」
「わざわざお話しするようなことでもございませんから」
「…まあ、それもそうね」
確かにそうだ。
マーサは私のメイドだ。
朝になれば私を起こし、着替えを手伝い、髪を整える。必要なものを用意し、出かける時には忘れ物がないか確認してくれる。
一度目の人生でも、ずっとそうだった。
けれど、一度目の私は、マーサが何を好きだったのだろうと考えたことがあっただろうか。
「…………」
思い出せない。
好きな食べ物だけではない。
何が嫌いなのか、何をしている時が楽しいのか。
休みの日に何をしているのか。
私は何も知らない。
「マーサ」
「はい?」
「お休みの日は、何をしているの?」
「え?」
今度こそ、マーサの手が完全に止まった。
「…どうしてそんなに驚くの?」
「いえ、お嬢様がそのようなことをお尋ねになるとは思わなかったもので」
「聞いたらいけなかった?」
「いいえ!そんなことはございません」
マーサは少し笑った。
「実家へ帰ることが多いですよ。弟や妹がおりますので」
「弟と妹がいるの?」
「はい。弟が一人と、妹が二人おります」
「知らなかったわ」
「お嬢様にはお話ししたことがありませんでしたからね」
そう言って、マーサはまた笑った。
私は鏡越しにその顔を見る。
こんなふうに笑う人だったのね。
……いや、きっと、一度目も笑っていたのだろう。
私が知らなかっただけで。
それから数日後。
セシリア様が我が家へ遊びに来た。
母たちがお茶をしている間、私たちにも別のテーブルが用意される。
並んでいるのは、小さな焼き菓子や果物を使った菓子。
「まあ!」
セシリア様が嬉しそうに声を上げた。
「レモンのお菓子がありますわ!」
「レモン?」
「私、大好きなのです」
「そうなの?」
「ええ。ヴァレリア様は?」
私は並んだ菓子を見る。
レモンの焼き菓子。
苺のタルト。
木苺のジャムを挟んだ小さなクッキー。
「私は…苺が好きだわ」
「まあ」
セシリア様が少し意外そうな顔をした。
「私は苺より、レモンの方が好きですわ」
「…そう?」
「ええ。甘いだけではなくて、少し酸っぱいでしょう?そこが本当に好きなのです」
「…………」
私はレモンのお菓子を見る。
酸っぱい。
確かに、それが好きな人もいるのだろう。
でも私は、苺の方が好きだ。
「苺も美味しいですけれど、私はやっぱりレモンですわね」
「でも、苺は——」
言いかけて、口を閉じた。
セシリア様がこちらを見る。
「苺は?」
「…………」
なんと言おうとしたのだろう。
苺の方が甘くて美味しい。
色も綺麗だし、香りもいい。
それに——
「…いいえ」
「?」
「私は、苺の方が好きだと思っただけ」
「そうなのですね」
セシリア様はそれだけ言うと、レモンの焼き菓子を一つ取った。
そして、苺のタルトが載った皿を私の方へ押す。
「では、こちらはヴァレリア様に」
「良いんですの?」
「ええ。私はこちらをいただきますから」
セシリア様はレモンのお菓子を一口食べる。
「美味しい!」
本当に嬉しそうだ。
私は目の前に置かれた苺のタルトを見る。
「…………」
意見が、違った。
セシリア様はレモンが好き。
私は苺が好き。
でも、セシリア様は普通に笑っている。
「そういえばヴァレリア様、来月のお茶会のことなのですけれど」
「え?」
「今度はリリアン様もお誘いしようと思っていますの。ヴァレリア様もいらっしゃるでしょう?」
「……ええ」
「よかった!」
何事もなかったように話が続いていく。
いや、そもそも何事もなかったのだ。
セシリア様はレモンが好きで、私は苺が好き。
「…………」
ただ、それだけ…?
それだけだったのだ。
「ヴァレリア様?」
「なに?」
「苺のタルト、召し上がらないのですか?」
「あ…いただくわ」
一口食べる。
甘酸っぱい苺と、柔らかなクリームの味が口いっぱいに広がった。
「…美味しい」
「よかったですわね」
「ええ」
セシリア様が笑う。
私も笑った。
レモンと苺。
好きなものは違う。
それでも私たちは、同じテーブルで笑っている。
その日の夜、私はいつものノートを開いた。
何を書こうか少し考えてから、ペンを取る。
——最近、よく人から話しかけてもらえる。
少し考えてその下にもう一つ。
——マーサは蜂蜜の入った焼き菓子が好き。
——弟が一人と、妹が二人いる。
書いてから、なんだかおかしくなった。
これは私の失敗を忘れないために書き始めたものだったはずなのに、最近はこんなことまで書いている。
最後に、今日のことを書く。
——セシリア様はレモンのお菓子が好き。
——私は苺が好き。
そこまで書いて、少し迷った。
そして、その下に一行だけ付け足した。
——違っていても、嫌われたわけではなかった。
しばらく、その文字を眺め、それからノートを閉じた。




