8.なにがしたい?
池の魚をひと通り見終えたあとも、私たちはしばらく庭を歩いていた。
アシュレイは相変わらずよく喋る。
池にいた魚の名前。
最近読んだ本の話。
庭の木に鳥が巣を作ったこと。
一度目の記憶にいるアシュレイとは、やっぱり少し違うように感じる。もっとも、違うのはアシュレイではなく、私の記憶の方なのかもしれないけれど。
「ねえ、ヴァレリア」
「なに?」
「このあと、どうする?」
「どうする…とは」
「まだお茶まで時間があるでしょ?僕は馬を見に行こうかなって思ってるんだけど」
「馬?」
「うん。新しい馬が来たんだ。すごく大きいんだよ」
アシュレイは両手を広げる。
「このくらい」
「そんなに?」
「もっとかも」
「そんなに大きいのは馬というより怪物ではないの?」
「本当だって!」
むきになって言うアシュレイに、少し笑ってしまった。
「ヴァレリアは?」
「え?」
「何したい?」
「…………」
何したい?
そう聞かれて、少し困った。
アシュレイは馬を見たいと言っている。
なら、一緒に馬を見に行けばいい。
「私は、どちらでも」
そう答えると、アシュレイが首を傾げた。
「どちらでも?」
「ええ。アシュレイの好きな方でいいわ」
「でも、僕はヴァレリアが何したいか聞いたんだけど」
「………」
そう言われてしまうと困る。
…私は何がしたいのだろう?
庭を歩くのも楽しい。
屋敷へ戻って本を読むのも嫌ではない。
お茶の時間を待っていてもいい。
「…………」
——馬
新しく来た、大きな馬って…どんな馬なのだろう。
色は黒いのか、白いのか?
大きいってどれくらい大きいのだろう?
そもそも馬を近くで見たら、どんな顔をしているのだろう?
淑女としては馬が見たいなど言って良いものだろうか…でも…
「…馬を」
「うん?」
「馬を、見てみたいわ」
言ってから、少しだけ緊張したがアシュレイは、
「本当?」
ぱっと明るく笑った。
「ヴァレリアに見せたいって思ってたんだ。じゃあ行こう!」
「…ええ」
それだけだった。
何もおかしなことは起こらない。
淑女として正しいのかわからないが、少なくともアシュレイは嫌な顔をしなかった。
それどころか、嬉しそうだった。
「じゃあ母上たちに聞いてこよう。勝手に厩舎へ行ったら怒られるから」
「あら」
「僕だってそれくらいわかるよ」
「何も言っていないでしょう?」
「顔に書いてあった」
「そんなことないわよ」
言い合いながら笑って屋敷へ戻る。
応接室では、父と公爵が何やら難しい話をしていて、母と公爵夫人はお茶を飲みながら談笑していた。
私たちに気づき、公爵夫人が微笑む。
「あら、お帰りなさい。お魚は見られた?」
「うん!母上、ヴァレリアと厩舎へ行ってもいい?」
「厩舎?」
「新しく来た馬を見せたいんだ」
公爵夫人が私を見る。
「まあ。ヴァレリア様もお馬がお好きなの?」
「あ…その」
好き…なのだろうか。
よくわからない。
「見てみたいと、思いまして…」
そう答えると、隣にいた母が少し驚いたように私を見た。
「ヴァレリア?」
「……はい」
「あなた…」
母は困ったように微笑んだ。
「…でもヴァレリア?せっかくお招きいただいたのに、厩舎へ行くなんて」
「…………」
「お洋服も汚れてしまうかもしれないでしょう?」
「…はい」
「淑女としてはそれはどうかと思うわよ?」
「……はい」
「それに、このあとお茶のお時間なのよ。公爵夫人があなたたちのためにお菓子も用意してくださっているのだから」
「はい…」
そうだ、招かれているのだから、好き勝手に動き回るのはよくない。
服を汚せば、母にも迷惑をかける。
それに、わざわざ用意していただいたお菓子もあるのに、待たせるなんて失礼よね…。
「…そうですね。では——」
「でも、ヴァレリアは馬が見たいんだよ?」
アシュレイが言い放ち、私は思わず彼を見る。
「ね?」
「え…ええ」
「ほら」
何が「ほら」なのだろう。
母は少し困ったように笑った。
「ええ。でもね、アシュレイ様。厩舎へ行けばお洋服が汚れてしまうかもしれませんし、それに——」
「あら、いいではありませんか」
公爵夫人が笑って言った。
「今日はお天気もいいですし、せっかく二人とも興味があるのですもの」
「ですが…」
「厩舎の者に声をかけておきましょう。お茶は少し遅くなっても構いませんわ。お菓子は逃げませんもの」
そう言って、公爵夫人は楽しそうに笑った。
「それに、厩舎を見学するくらいでしたら、そうそうお洋服も汚れませんわ」
「まあ…」
母は少し考えてから、私を見た。
「公爵夫人がそうおっしゃってくださるなら」
「……」
「ただし、馬には勝手に近づかないこと。厩舎の方のお話をきちんと聞くのよ?」
「…はい」
「やった!」
アシュレイが嬉しそうな声を上げる。
「行こう、ヴァレリア!」
「え、ええ」
再び手を引かれながら、私は部屋を出た。
廊下を歩きながら、なんとなく先ほどのやり取りを思い返す。
私は
『では——』
なんと言おうとしたのだろう。
考えるまでもない。
——では、やめておきます。
そう言おうとした。
「…………」
「ヴァレリア?」
「なに?」
「馬、本当は見たくなかった?」
「え?」
アシュレイが少し心配そうに私を見る。
「なんか、静かだから」
「…いいえ」
私は首を振った。
「見たいわ」
「よかった」
アシュレイはまた笑った。
「ヴァレリアって、馬好きなの?」
「…わからないわ」
「わからない?」
「だって、ちゃんと近くで見たことがあまりないもの。ただ、見たいと思っただけで」
「じゃあ、見てみたらきっとわかるね」
「…え、ええ」
あまりにも簡単に言う。
「好きだったら好きだし、違ったら違うでしょ?」
「…そう、ね」
確かに、その通りだ。
やがて厩舎へ着くと、係の者が私たちを出迎えてくれた。
アシュレイが言っていた新しい馬は、奥の馬房にいた。
「わ……」
思わず声が出た。
大きい。
本当に大きい。
艶のある黒い毛並み。
長い脚。
こちらを見つめる大きな瞳。
「ね?大きいでしょ?」
「…ええ」
怪物みたい、なんて言ってしまったけれど、全然違った。
「綺麗……」
馬がゆっくりと顔をこちらへ向ける。
思わず一歩下がると、アシュレイが笑った。
「怖い?」
「…少しだけ」
「大丈夫、大人しいよ」
係の者も、
「とても穏やかな馬ですよ」
と教えてくれた。
「触ってみますか?」
「良いの…ですか?」
目の前に、大きな鼻先がある。
近くで見るとますます大きい。
少し怖いが、正直触ってみたい。
「…失礼します」
教えられた通り、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、柔らかな鼻先に触れた。
「…………!」
温かい。
そして思っていたよりずっと柔らかい。
馬がふん、と鼻を鳴らす。
「ふふっ」
思わず笑い声が漏れた。
もう一度、そっと撫でる。
「すごい…可愛い…」
「ヴァレリア」
「なに?」
振り返ると、アシュレイがにやにやしていた。
「ヴァレリアは馬、好きなんじゃないかな」
「え?」
「だってすごく笑ってる」
「…………」
そう言われて、自分の頬に触れた。
確かに笑っていた。
「…そう、かもしれないわ」
「きっとそうだよ!」
なぜかアシュレイが嬉しそうに笑う。
私ももう一度、目の前の馬を見た。
黒い馬は何も知らない顔で、こちらを見ている。
私は馬を見たいと言った。
そして、お母様の言葉で一度は、やめようとした。
でも、結局見に来た。
「……」
楽しい。
…思っていたよりも、ずっと。
帰ったら、あのノートに書いておこう。
何が正しいのかは、まだよくわからない。
何を言うべきで、何を言わない方がいいのかも。
でも、今日のことは、忘れないうちに。
——今日は、馬を見たいと言った。
——見に行って、楽しかった。
それだけは、書いておこうと思った。




