5.何か、嫌だった
自室へ戻ってからも、先ほどのことが頭から離れなかった。
机に向かって本を開いてみたものの、まるで文字が頭に入ってこない。
母の声が、何度も頭の中で繰り返される。
『その持ち方も危ないと思っていたのよ。いつか落とすんじゃないかって。そうしたらやっぱり落としたわね』
『あなたのためにも言っているのよ?』
母は間違ったことを言っていない。
メイドを怒鳴ったわけでも、傷つけようとしたわけでもない。
むしろ、最初に怪我がないかを心配していた。
同じ失敗を繰り返さないように、良かれと思って教えていただけだ。
それなのに。
「……嫌だったのよね」
ぽつりと呟いた。
私は、あの時確かに嫌だと思った。
何度も何度も続く母の言葉を聞きながら、しつこいな、もうそのくらいでいいのではないかと思った。
そして何より、あの母の姿に、一度目の自分がピタリと重なったこと。
『今回が骨折で済んだからよかったものの、もっと大きな怪我をしていた可能性だって——』
思い出すだけで、頭から血の気が引くような、胃の腑が上がってくるような感覚だった。
「……嫌だわ」
どうして私は、あんなに何度もリリアンに言ったのだろう。彼女はもう反省していた。
わかっていたのに、それでも私は、彼女のためになると思って話し続けた。
そう、母と同じように。
良かれと思って。
「…………」
私は椅子の背にもたれた。
母の何が、あんなに嫌だったのだろう。
言っていることが間違っていたから?
違う。今でも、間違っていたとは思わない。
では、言い方?
それとも、何度も同じことを言ったこと?
「……わからない」
考えれば考えるほど、頭の中がごちゃごちゃしてくる。私はしばらく机を見つめたあと、引き出しから紙を一枚取り出した。
考えてもわからないのなら、書いてみよう。
ペン先をインクに浸し、まずは今日のことを書いてみることにした。嫌だったことも含めて。
——メイドが花瓶を割って、すぐに謝った。
——そしてお母様は最初に怪我がないか心配した。
ここまでは、嫌ではないどころかむしろ、優しいと思った。
——メイドが「気をつけます」と言ったことに対し、お母様は話を続けた。
——もし熱いお茶だったら、誰かにかかっていたら、と、まだ起きていないことまで言った。
そこまで書いて、手が止まる。
そうだ、私はあのあたりから、嫌だと思い始めた気がする。さらに続けて書く。
——メイドはお母様の話のあいだずっと俯いていた。
——何度も「はい」と言っていた。
——お母様は「あなたのため」と繰り返し言った。
最後の一文を見つめ、そしてその下に
—— 一度目の私も、同じようなことをリリアン様に言っていた。
書いた瞬間、また嫌な感じがした。
「…………」
自分で書いた文字なのに、見ていたくない。
でも、消すこともしなかった。
私はペンを置き、椅子にもたれた。
他にもあっただろうか。
一度目の人生で、自分が誰かに言った余計なこと。
アシュレイは言っていたわ。
『君はいつもそうだ』
いつも…。
ということは、リリアンだけではなかったのだろう。
多分エマにも言った。それは覚えている。
他には?
「…………」
学園の教室。
廊下。
昼食の時間。
お茶会。
思い出そうとしてみるが、光景はいくつも浮かぶのに、そこで自分が何を話していたのかとなると、途端にぼやけてしまう。
でもそれも当たり前なのかもしれない。
昨日の会話ですら、一言一句覚えているわけではない。ましてや、一度死んで、八年も前に戻ってきたのだ。覚えていることもあれば、忘れていることもあるだろう。
「何を言っていたのかしら……私」
知りたいような、知りたくないような。
リリアンとの会話だけでも、できることならもう思い出したくない。
『君の言葉に、もう耐えられないんだ』
アシュレイの声が蘇った。
私は死ぬ直前まで、わからなかった。
自分の何がいけなかったのか…。
『何も言わなければよかった?』
『全部、黙っていればよかった?』
それだけではない気がする。
そしてやり直したいと願った。
「…………」
余計なことを言わない。
そうすれば…とはいえ
「余計なことって、何なのかしら」
それがわからない。だからこそ困っているのだ。
私は小さく息を吐くと、ふと先ほど書いた紙に目を戻す。
今日、嫌だったこと。
…眺めているうちに、別のことが頭をよぎった。
「……嫌だったこと」
そういえば少し前にも、引っかかったことがあった。
「あ……」
先日のドレスだ。
私は黄色がいいと言った。
でも母は水色を勧めた。
水色を選んだら、母が嬉しそうに笑った。
それをみて私も安心した。
でも、あの時も確かに、喉の奥に何かが引っかかったような感じがした。
私は再びペンを取ると少し迷ってから、続きを書き加える。
——黄色のドレスがよかった。
その一文を書いて、しばらく見つめたあと
——お母様は水色の方が似合うと言った。
——私が黄色がいいと言うと、少し残念そうな顔をしたので、結局水色にした。
——お母様が喜んだので、私も安心した。
そして最後に。
——でも、本当は少し嫌だったような気がする。
「…………」
書いてから、自分でも少し驚いた。
嫌だった。
そうなのだろうか。
あの時は、特にそんなふうには思わなかった。
ただ、なんとなく引っかかっただけだった。
けれど今、こうして書いてみると。
「…私、嫌だったのね」
声に出してみると不思議な感じがした。
それは大したことではない。
ドレスの色なんて、どちらでもいい。
水色だってとても綺麗だ。
それでも、私はその時、黄色がいいと思い、そう言ったのだ。そのことだけは、書いておこうと思った。
紙を折り畳もうとして、少し考えたあと、引き出しから、一冊の新しいノートを取り出した。
正直今はまだ、何が正しくて何が間違っているのか、よくわからない。
一度目の自分が何をしていたのかも、ほとんど思い出せない。
だから、とりあえず、何か気になった時には書いておこう。忘れてしまわないように。
私は先ほどの紙を、ノートの最初のページに挟んだ。
もう一度、その一番下に書かれた文字を見る。
——黄色のドレスがよかった。
「…………」
なぜだかそれを見ていると、ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。




