4.良かれと思って
それから数日後、私は母の部屋で一緒にお茶を飲んでいた。先日のドレスは、結局水色で仕立ててもらうことになった。
水色が嫌いなわけではない。
母の言う通り、私にはよく似合うのだと思う。
それでも時折、あの黄色い布を思い出す。
『ええ。幼い頃からずっと好きですわ』
十五歳の私がそう答えていたことも思い出して頭から消えない。でも考えても、よくわからなかった。
だから色の好みなんて、途中で変わることもあるだろう、そう思って考えないことにしていた。
「ヴァレリア?」
「…はい?」
「どうしたの? ぼんやりして」
「いえ、なんでもありません」
母が不思議そうに首を傾げる。
私は誤魔化すようにカップへ口をつけた。
と、その時だった。
ガシャン、と大きな音が響いた。
「きゃっ」
振り返ると部屋の隅で、若いメイドが青ざめていた。
その足元には、割れた花瓶が散らばっている。
どうやら花を取り替えようとして、手を滑らせたらしい。
「も、申し訳ございません、奥様!」
メイドは慌てて頭を下げた。
「大変…あなた、怪我はない?」
母がすぐに立ち上がる。
「は、はい。ございません」
「そう。それならよかったわ」
母はほっとしたように微笑んだ。
その様子を見て、私も安心する。
やっぱり母は優しい人だ。
花瓶より先に、メイドの怪我を心配している。
「でも……」
母は割れた花瓶へ視線を落とした。
「あなた、前から物を運ぶ時に少し慌てるところがあるでしょう?」
「……はい」
「その持ち方も危ないと思っていたのよ。いつか落とすんじゃないかって。そうしたらやっぱり落としたわね。」
「申し訳ございません」
「謝ってほしいわけではないのよ」
母の声は穏やかだったし怒っているようには見えない。
「ただ、これが花瓶だったからよかったけれど、もしお客様にお出しする熱いお茶だったらどうするの?」
「……はい」
「誰かにかかっていたら、大変なことになっていたでしょう?」
「はい。以後、気をつけます」
「気をつけるだけでは、また同じことになるかもしれないわ」
母は困ったように微笑んだ。
「どうして落としたのか、ちゃんとしっかり考えないと」
「……はい」
「持ち方を変えるとか、一度にたくさん持たないようにするとか。何か対策を考えた方がいいんじゃないかしら」
「はい……」
メイドは俯いている。
母の言っていることは正しいし何も間違っていない。
失敗した原因を考えて、次に同じことをしないようにする。それは当然のことだ。でも、なんだろう…。
「あなたのためにも言っているのよ?」
母が優しくそう言った。
「はい。ありがとうございます」
メイドがもう一度頭を下げる。
その瞬間胸の奥が、ざわりとした。
『……私は、良かれと思って』
自分の声が聞こえた気がした。そして
『ああ、そうだろうね』
アシュレイの声も
「…………」
手にしていたカップが止まった。
(何…今の)
母は何事もなかったように紅茶を飲んでいる。
メイドはしゃがみ込み、割れた花瓶を片付け始めていた。
「危ないから、素手では触らないようになさいね」
「はい」
「ほうきをまず持ってきて。それから、破片が残っていないか最後によく確認するのよ」
「かしこまりました」
母はいつも通りだった。
怒鳴ってもいないし嫌味を言っているわけでもない。
ただ、このメイドが同じ失敗をしないように教えている。何度も何度もしつこいと感じるほどに。良かれと思って。
「…………」
良かれと思って。
その言葉が、頭を埋め尽くしそうになる。
その時ふいに別の光景が思い起こされた。
包帯で腕を吊っているリリアン。
一度目の人生で、落馬して腕を折った彼女を、私は見舞っていた。
『大変でしたわね』
私はそう言った。
そしてそのあと。
『でも、そんな乗り方をしていたら、いつか怪我をすると思っていましたわ』
「…………」
背中を冷たいものが走った。
そうだ…私は確かにそう言った。
それを聞いたリリアンは少し驚いたように私を見ていた。それから、小さく答えた。
『……ええ。私も反省しております』
それだけだったかしら…
いや、違う。
『反省なさっているなら、今後はご自分の力量をきちんと把握なさった方がよろしいですわ』
私、そんな事
……言ったわ。
『周囲に褒められたからといって、無茶をする必要なんてありませんでしょう?』
いやだ。
待って。
『今回が骨折で済んだからよかったものの、もっと大きな怪我をしていた可能性だって——』
やめて。
『それにいずれは周りを巻き込んでしまう可能性だってあったわけですし、もしそうしたら大変なことですのよ。』
「…………」
私、…私こんなこと言ってたの?
嘘でしょう?
そしてリリアンは、俯いて何も言わなくなっていた。
今目の前にいるメイドと、同じように。
「ヴァレリア?」
びくりと身体が跳ねた。
顔を上げると、母が不思議そうにこちらを見ている。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
「……いえ」
私は首を振った。
「なんでも……ありません」
母は心配そうに私を見ている。
その顔には、本当に悪意など欠片もなかった。
さっきだってそうだ。
花瓶を割ったメイドの怪我を、真っ先に心配した。
同じ失敗をして困らないように、どうすればいいかまで教えていた。
母は、良かれと思って言ったのだ。
「…………」
私も。
…良かれと思っていた。
リリアンを傷つけたかったわけではない。
同じ失敗を繰り返さないように。
今後は気をつけた方がいいと思って。
だから、言った。
……同じ?
もう一度、母を見る。
母は優雅に紅茶を飲んでいる。
次に、メイドを見ると俯いたまま、床に散らばった破片を片付けている。
その横顔に包帯を巻いたリリアンの顔が重なった。
『……はい』
良かれと思って…。
正しいこと、親切なことだと思って…。
「あれ……?」
思わず、小さく声が漏れた。
母がこちらを見る。
「ヴァレリア?」
「…………」
私は答えられなかった。
そしてもう一度、メイドを見た。
記憶の中のリリアンと綺麗に重なっていく。




