17.お母様は相変わらず
春の日差しが、窓から柔らかく差し込んで気持ちの良いある日。
乗馬のお稽古を始めてから、もう随分と経った。
最初はベルの背中に座っているだけで精一杯だったけれど、最近では少しずつ、自分で手綱を扱えるようになってきた。もちろん、まだまだロベルト先生に教わることばかりだけれど。
「……ふふ」
私は思わず笑みをこぼした。
今日は、乗馬のお稽古の日だ。
昨日、ロベルト先生から、次は少しだけ速く歩く練習をしてみましょうと言われていたのでそれが今から楽しみで仕方がない。
「ヴァレリア」
声をかけられ、顔を上げると、お母様がこちらを見ていた。
「はい、お母様」
「今日も乗馬のお稽古なの?」
「はい。午後からの予定です」
「あら、そう…。このところ随分熱心なのね」
「ええ。少しずつですが、上手に乗れるようになってきたんです」
「そうなのね」
お母様は微笑んだが、すぐに少し心配そうな顔になる。
「でもね、ヴァレリア。あまり夢中になりすぎるのも心配だわ。馬は大きな生き物でしょう? 何かの拍子に驚いて、振り落とされたりしたら……」
「そうですよね。気をつけます」
「気をつけていても、何があるかわからないでしょう?それに、外でのお稽古ばかりでは日焼けもするし……。あなたは肌が白いのだから、大切にしなくては」
「ありがとうございます。日差しにも気をつけますね」
私はお茶を一口飲んだ。
……そういえば、ベルは昨日、ずいぶん機嫌がよさそうだった。ロベルト先生が、厩舎で林檎をもらったからだとおっしゃっていたっけ。
今度、私も林檎を持っていっていいか聞いてみようかしら。
「それからね、ヴァレリア」
「はい」
「手も荒れてしまうかもしれないわ。せっかく綺麗な手をしているのに」
「ふふ。手袋も忘れずにつけますね」
「そういうことも大切だけれど……。やっぱり私は、刺繍や音楽のお稽古にもっと時間を使った方がいいと思うのよ」
「そうなのですね」
「ええ。もちろん、乗馬をやめなさいと言っているわけではないのよ? ただ、あまり熱中しすぎるのはどうかしらと思って」
「心配してくださって、ありがとうございます」
「……ええ。でもね、ヴァレリア。今は楽しくても、もう少し大きくなったら、ほかにやりたいことも出てくるかもしれないでしょう?」
「そうかもしれませんね」
「そうでしょう? だから、今からあまり乗馬ばかりに時間を使うのも……」
お母様は小さくため息をついた。
「それに、刺繍のお稽古だって大切なのよ。先日、先生からは何か言われなかった?」
「新しい模様を教えていただきました」
「あら、そうなの?」
「はい。今度は小さな花の模様を刺す予定なんです」
「まあ。それは素敵ね。どんな色の糸を使うの?」
「黄色と白にしようと思っています」
「黄色……。そうねえ、淡い水色の方が上品に仕上がると思うけれど」
「水色も綺麗ですよね」
「ええ。あなたには、やっぱり水色がよく似合うと思うのよ」
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
……黄色と白なら、春の花みたいになるかしら。
エマ様にも、今度お会いしたら聞いてみよう。
あの方は刺繍がお上手だから、きっと素敵な組み合わせをご存じだろう。
「……ヴァレリア?」
「はい」
「聞いていた?」
「はい。お母様は、水色の糸を勧めてくださっているのですよね」
「ええ、そうなのよ。黄色も悪くはないけれど、もう少し落ち着いた色の方が……」
「そうですね。先生にも相談してみます」
「そうしてちょうだい。あなたはまだ小さいのだから、周りの意見もよく聞かなくてはいけませんよ」
「はい」
お母様は満足そうに頷いた。
それから、ふと思い出したように言った。
「そうそう、乗馬のお稽古のことだけれど」
……あら、まだ続くのね。
私はお茶をもう一口飲んだ。
「はい、お母様」
「最近は少し速く歩く練習もしているのでしょう?」
「ええ。今日も教えていただく予定です」
「まあ! もうそんなことを?」
お母様は驚いたように目を見開いた。
「まだ始めたばかりなのに、そんなに急がなくてもいいのではなくて?」
「ロベルト先生が、少しずつ練習してみましょうとおっしゃっていました」
「そう……。先生がついていらっしゃるなら大丈夫だとは思うけれど、やっぱり心配だわ」
「ありがとうございます。無理はしないようにしますね」
「ええ、そうしてちょうだい。それに、馬というのは急に驚いて走り出すことだってあるのだから」
「はい」
「あなたがどれだけ気をつけていても、馬の方が驚いてしまったらどうしようもないでしょう?」
「そうですね」
「だから、くれぐれも気をつけてちょうだいね」
「はい、お母様」
私は頷いた。
……ベルは、今日も元気かしら。昨日は耳をぴくぴく動かしながら、私の手袋の匂いを嗅いでいた。
あの仕草が、なんとも可愛らしいのよね。
そうだ。今日はお稽古が終わったら、少し長めに首を撫でてあげよう。
「……本当に、わかっているのかしら」
お母様が小さく呟いた。
私は顔を上げた。
「はい?」
「いえ、何でもないわ」
お母様はお茶を飲み、時計に目を向けた。
「あら、もうこんな時間。仕立て屋が来る頃だわ」
「そうなのですね」
「では、私はそろそろ失礼するわね」
「はい、お母様」
お母様は立ち上がりかけて、もう一度こちらを振り返った。
「ヴァレリア、くれぐれも無理はしないのよ」
「はい。ありがとうございます」
「それから、日差しにも気をつけて。帽子を忘れてはいけませんよ」
「はい」
「手袋もね」
「はい、お母様」
「……それと、刺繍のお稽古も」
「午後のお稽古が終わったら、少し進めるつもりです」
「そう。それならいいのだけれど」
お母様はようやく微笑んだ。
「では、行ってくるわね」
「いってらっしゃいませ、お母様」
私は立ち上がり、一礼した。
お母様は最後にもう一度、乗馬には気をつけるようにとおっしゃってから、部屋を出ていかれた。
扉が閉まり、私は椅子に座り直した。
残っていたお茶を飲んでほぅ、とため息をつく。
……さて、そろそろ支度を始めようかしら。
そう思っていると、傍らに控えていた家令が、ふと口を開いた。
「……こういうところは、旦那様によく似ていらっしゃる」
「え?」
私は顔を上げた。
「お父様に、ですか?」
家令は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ええ」
「……どのあたりがでしょう?」
「いえ、何でもございません」
そう言って、静かに一礼する。
私は首を傾げた。
……お父様に似ている?顔立ちは、どちらかというとお母様に似ていると言われることが多いのだけれど。
それとも、最近少し背が伸びたからかしら?よくわからなかったが、家令はそれ以上何も言わなかった。
まあ、いいか。
それよりも、そろそろお稽古の時間だ。
「マーサ、支度をお願いできる?」
「かしこまりました、お嬢様」
私は椅子から立ち上がった。
今日も、ベル先輩に会える。そう思うと、自然と足取りが軽くなった。部屋へ戻る途中、ふと、お母様の言葉を思い出した。
乗馬は危ない、日焼けもする。手も荒れるかもしれないし、刺繍や音楽のお稽古も大切。
……そうね。どれも、お母様が私のことを考えておっしゃってくださったことだ。それは、ありがたいと思う。でも
「……ふふ」
私は思わず笑ってしまった。
やっぱり、今日のお稽古が楽しみだ。
お母様は、きっと次のお稽古の日にも、同じように心配なさるのだろう。その時は、また気をつけるとお伝えしよう。だって、本当に気をつけるつもりなのだから。
「お嬢様、何か嬉しいことでも?」
隣を歩くマーサが尋ねた。
「ええ」
私は大きく頷いた。
「今日は、ベルに乗れるんだもの!」
マーサが楽しそうに笑った。
「ふふ。そうでしたね」
「それに、今日は少し速く歩く練習をする予定なの」
「まあ。それは楽しみですね」
「ええ!」
私は思わず歩く速度を上げた。
「あっ、お嬢様。廊下ではあまり急がれませんように」
「……あら!」
私は慌てて足を緩めた。
「ふふ。ごめんなさい、マーサ」
「いえ。お気持ちはわかりますけれど」
二人で笑いながら、部屋へ向かった。
その日の夜、私はいつものノートを開いた。
——今日は、お母様と乗馬のお稽古についてお話しした。
——お母様は、やっぱり心配なさっている。
——怪我や日焼けには、十分気をつけようと思う。
そこまで書いて、少し考えたあと、もう一行付け加える。
——でも、私は乗馬が好きだ。
私は書いた文字を眺めた。
お母様は、乗馬よりも刺繍や音楽のお稽古を勧めてくださる。それはきっと、これからも変わらないのだろう。でも、私が乗馬を好きなことも、変わらない。
「……ふふ」
私はペンを取った。
——今日は、ベルに乗って少し速く歩く練習をした。
——まだ上手にはできなかったけれど、とても楽しかった。
——次のお稽古も楽しみ。
書き終えて、ノートを閉じる。
机の上には、アシュレイ様からいただいた黄色いガラスの小鳥と、水色の髪飾りが並んでいた。
どちらも、私の大切なものだ。
私は小鳥をそっと指先で撫でた。明日は刺繍のお稽古がある。黄色と白の糸で、春の花を刺してみようと思っている。……ああ、そうだ、今度エマ様にも見ていただこうかしら。
そんなことを考えながら、私は寝支度を始めた。
明日も、いい日になるといいな。




