16.話を最後まで聞くこと
乗馬のお稽古を始めてから、しばらく経ったある日のこと。
その日は、アシュレイ様が我が家へ遊びにいらしていた。
「それでね、ベルは私よりずっと落ち着いているんです!」
「へえ、そうなんだ」
「ええ! 私なんて、まだ馬が歩くだけでも身体が揺れてしまって。ロベルト先生には、何度も肩の力を抜くように言われるんですけれど……」
私は自分の肩をぎゅっと上げてみせた。
「力を抜こうとすると、かえって力が入ってしまうんです」
アシュレイ様が声を上げて笑った。
「あはは! わかる、それ!」
「本当ですか?」
「うん。僕も最初はそうだったから」
「まあ!」
私は嬉しくなって、身を乗り出した。
「アシュレイ様もそうだったのですね」
「もちろんだよ!最初から上手に乗れるわけじゃないよ」
「そうなのですね!」
なんだか、少し安心した。
アシュレイ様は随分上手に馬に乗れるらしいけれど、最初は私と同じだったのだ。
「それで、ベルという馬がとても賢くて。私がこんなに必死なのに、ベルはいつものんびりしているんです。だから、乗っている時はベル先輩と呼ぶことにしたんですの」
「ベル先輩?」
「はい!」
アシュレイ様は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「あはは! 馬が先輩なの?」
「だって、ベルはもう何年も人を乗せているんですもの。私よりずっと経験豊富でしょう?」
「確かに!」
二人で顔を見合わせて笑った。
私は、なんだか嬉しくなった。
乗馬のお稽古は楽しいけれど、こうして誰かにその話をするのも、同じくらい楽しいのだと知った。
「そうだ、今日は天気がいいしせっかくだから庭を歩かない?」
アシュレイ様が言った。
「ええ、ぜひ!」
私たちはマーサに声をかけ、庭へ出ることにした。
春の庭には、色とりどりの花が咲き始めていた。
冬の間は寂しかった花壇にも、黄色や白の小さな花が顔を覗かせている。
「わあ、綺麗」
私は思わず足を止めた。
「ヴァレリアは、やっぱり黄色い花が好きなんだね」
「ふふ、そうみたいです」
アシュレイ様が笑うのにつられて私も笑った。
少し前なら、黄色が好きだと言うことさえ、なんとなく恥ずかしかったのに、今はこうして普通に話せるようになった。
「温室の方にも、春の花が咲いているかもしれません」
「じゃあ、行ってみようか」
「はい!」
私たちは庭の奥にある温室へ向かった。
入口が見えてきたところで、近くにいた庭師が慌てて声をかけてきた。
「お嬢様、そちらの扉なのですが、少し調子が悪くなっておりまして——」
調子が悪い?
私は思わず、扉を見た。
見たところ、特に変わった様子はない。
……どこが?蝶番かしら、それとも取っ手?
鍵がかかりにくくなっているとか?
「それは——」
そこまで言いかけて、ふと、ある光景が頭に浮かんだ。
——あれは、以前の私が学園に通っていた頃のこと。
実習室で使う器具を準備していた時、一人の令嬢が私に声をかけてきた。
「ヴァレリア様、そちらの器具なのですけれど、少し調子が悪いようですので、お気をつけくださいね」
「調子が悪い、とは?」
「え?」
「具体的に、どの部分がどのようにおかしいのです?」
「あ、あの、右側のレバーが少し……」
「右側ですのね。でしたら、最初からそうおっしゃっていただかないと、わかりませんわよね?」
「……申し訳、ありません」
令嬢は困ったように眉を下げた。
「それで、具体的にはどういった不具合が?」
「あの、右側のレバーが緩くなっていて、手を離すと下がってしまうんです」
「まあ。それは危険ですわね」
私は器具に目を向けた。
確かに、その状態で使用するのは危ないだろう。
「責任者には報告なさったの?」
「はい。修理の依頼はしてあるそうで……」
「『してあるそう』ということは、ご自身で確認なさったわけではないのですね?」
「……はい」
「では、実際に修理の手配がされているかどうかもわからないのではなくて?」
「あの、先生がそのようにおっしゃっていたので……」
「でしたら、先生が修理を依頼なさったのか、それとも別の方に依頼をお願いしただけなのか、そこも確認しておくべきではありませんか?」
「……ええと」
令嬢は言葉に詰まった。
私は少し不思議だった。危険な器具について注意を促すのであれば、その程度のことは把握しておくべきではないだろうか。
「そもそも、修理が必要な器具をそのまま置いておくことにも問題がありますわ。使用禁止の札などはつけてあるのですか?」
「いえ、私はそこまでは……」
「でしたら、まず責任者に確認なさった方がよろしいのではなくて?」
「……はい」
「それに、調子が悪いとだけ言われても、こちらは何に気をつければよいのかわかりませんわ。右側のレバーが緩くなっているのであれば、最初からそのように説明していただかないと」
「……申し訳ありません」
「いえ、謝っていただきたいわけではありませんの」
私は慌てて首を振った。
別に、謝罪を求めているわけではない。
ただ、今後同じことが起きないように、気をつけていただきたいだけなのだ。
「こういう場合は、まず不具合のある箇所を明確にして、それから具体的な症状と、現在どのような対応が取られているのかを——」
「……ヴァレリア様」
「はい?」
「…もう、よろしいでしょうか」
令嬢は俯いていた。
「私、あの…まだ準備が残っていますので…」
「あら、そうでしたの」
それなら、仕方がない。
「では、今後はお気をつけくださいね」
「……はい」
令嬢は小さく頭を下げ、足早にその場を離れていった。私はその後ろ姿を見送りながら、少し首を傾げた。危険なことなのだから、正確な情報を伝えるのは大切なはず。それなのに、どうしてあんなに困った顔をなさっていたのかしら。
……まあ、でもちゃんとお伝えしたのだからきっとわかっていただけたでしょう。そう思い、私は器具の使用を避けて、別の作業に取りかかった。
その後、その令嬢が私に話しかけたり、何かを教えてくださることは、ほとんどなくなった。
けれど当時の私は、それを特に気に留めることもなかった。
「……お嬢様?」
庭師の声で、私は我に返った。
「あ、はい」
「こちらの扉なのですが、取っ手が緩んでおりまして、強く引くと外れそうになるんです」
「…あ、そうなのですね」
「修理はお願いしてあるのですが、それまではこちらの扉を使わないようにしていただければと。反対側の入口からでしたら、お入りいただけますので」
「…わかりました」
私は扉をもう一度見ると、庭師に向き直る。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「いえ。お怪我でもなさったら大変ですから」
庭師はにこりと笑った。
「では、反対側から回ろうか」
アシュレイ様が言う。
「…はい」
私たちは庭師に礼を言い、温室の反対側へ向かった。
歩きながら、私は先ほどのことを考えていた。
……最後まで聞けば、ちゃんとわかることだったのね。
あの時のご令嬢も、きっと私に危ない思いをしてほしくなくて、声をかけてくださったのだろう。
それなのに、私は…。
右側のレバーが緩くなっていることも、修理の依頼をしていることも、結局、あのご令嬢はちゃんと教えてくださった。ただ、その途中で私が何度も話を遮ってしまっただけだ。…あのご令嬢は話を最後まですることもできなかった。
「ヴァレリア?」
「…あ、はい!」
アシュレイ様がこちらを覗き込んでいた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「いえ、少し…」
私は曖昧に笑った。
「そう?」
「はい」
アシュレイ様はそれ以上尋ねず、前を向いた。
「そういえば、さっきの乗馬の話なんだけど」
「はい!」
「僕も最初はね、馬に乗ると肩に力が入っちゃって——」
「あっ、私もです!」
思わず声が出た。
「ロベルト先生にも何度も言われるんですけれど、力を抜こうとすると、かえって——」
そこまで言って、私は口を閉じた。
アシュレイ様が、笑顔でこちらを見ている。
「あ……」
しまった、また、途中で遮ってしまった。
「…ごめんなさい」
「え?」
「お話の途中で遮ってしまって…」
アシュレイ様は少し目を瞬かせたあと笑って言った。
「ヴァレリアの、楽しそうに話す姿を見てると僕も楽しいから大丈夫だよ。」
「…本当ですか?」
「うん」
「でも…私、アシュレイ様のお話もっと聞きたいので、続きを聞かせてください!」
「そっか、最初は肩に力が入って、先生に何度も注意されたんだ」
「そうだったのですね」
「それで、力を抜こうとするんだけど、今度は姿勢が崩れちゃってさ」
「……あ!」
私は思わず笑った。
「私も、まさにそんな感じです!」
「でしょ?」
アシュレイ様も笑う。
「でも、何度も乗っているうちに、少しずつ慣れてきたんだ。だからヴァレリアも、きっと大丈夫だよ」
「……はい!」
私は大きく頷いた。
「私、頑張ります!」
「うん!」
温室の反対側の入口が見えてきた。
私たちは並んで歩きながら、乗馬の話を続けた。
アシュレイ様が初めて馬を走らせた時のこと。
私がベルに乗った時、あまりの高さに驚いたこと。
馬の上から見る景色が、いつもと少し違って見えること。
話しているうちに、あっという間に温室へ着いてしまった。
「……ふふ」
「どうしたの?」
「いえ。なんだか、お話ししていたら、すぐに着いてしまいましたね」
「ほんとだ」
アシュレイ様が笑った。
「帰りも話しながら歩こうよ」
「……はい!」
私は嬉しくなって、笑った。
その日の夜、私はいつものノートを開いた。
——今日は、アシュレイ様と乗馬のお話をした。
——アシュレイ様も、最初は肩に力が入ってしまったそうだ。
——私だけではなかった。
そこまで書いて、少し笑ってしまった。
それから、昼間のことを思い出す。
温室の扉について教えてくれた庭師のこと。そして以前の私が学園で、器具の不具合を知らせてくださった令嬢としたやりとり。
私はしばらく考えてから、ペンを動かした。
——今日は、温室の扉の調子が悪いと教えてもらった。
——最後まで聞いたら、どこが悪いのか、どうすればいいのか、ちゃんとわかった。
あの時のご令嬢は、どうしてあんなに困った顔をしていたのか、どうして私に話しかけてくださらなくなったのか、今なら少しだけわかる気がする。
私は新しい行に、ゆっくりと書いた。
——以前の私は、人の話を最後まで聞いていなかったのかもしれない。
書き終えて、ペンを置く。
……いや、かもしれない、というよりきっと、そうだったのだろう。あの方は、私に何かを教えようとしてくださっただけなのに、私はその話し方や整合性ばかり気にしていた。
私はしばらくノートを眺めたあと、もう一度ペンを取った。
——今日は、アシュレイ様のお話を途中で遮ってしまった。
——でも、続きを聞かせていただいた。
——とても面白かった。
「……ふふ」
思い出すと、また笑みがこぼれた。
アシュレイ様も、最初はうまく馬に乗れなかったのだ。その話を聞けて、嬉しかった。
私は最後に、もう一行書き加えた。
——また、アシュレイ様のお話を聞きたい。
ノートを閉じ、机の上に置く。
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。
次にアシュレイ様とお会いしたら、ベルのお話もしたいし、それから、アシュレイ様が初めて馬を走らせた時のお話も、もっと聞いてみたい。
…ああ、でも私も話したいことが、たくさんありすぎる。
私は思わず笑ってしまった。
次にお会いする日が、とっても楽しみだった。




