15.ついに乗馬
凍てつく冬が過ぎ、庭の木々にも少しずつだが新しい葉が芽吹き始めた。
冷たい風の中にも、春の気配が混じるようになったある朝、私はずっとソワソワしていた。
「お嬢様、もう少し落ち着いてくださいませ」
「…はい」
マーサが私の上着の襟元を整えながら、困ったように笑う。
「そんなに楽しみですか?」
「ええ!もちろんよ」
なんてったって今日は、待ちに待った乗馬の初日。冬になる前、お父様に乗馬を習いたいとお願いした時は、春になったらまた話そうと言われていた。
そして春が近づいたある日、お父様が私を呼び、乗馬の教師を手配したと教えてくださった。
あの時は、嬉しくて何度も何度もお礼を言ってしまい、お父様も呆れた顔をしていた。
「お嬢様、こちらの手袋を」
「あ、ありがとう」
マーサから手渡されたのは、革製の乗馬用手袋だった。まだ新しく、少し硬い。
指を通して、ぎゅっと手を握ってみる。
「…ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
「よくお似合いですよ」
「本当?」
鏡の前で、もう一度手袋を眺める。
ずっと欲しかったものだ。
「では、参りましょうか」
「ええ!」
私はマーサと一緒に部屋を出た。
屋敷の厩舎に着くと、すでに何頭かの馬が外へ出されていた。馬たちは朝の光を浴びながら、のんびりと草を食んだり、尻尾を揺らしたりしている。
私はその姿を見ただけで、胸が弾んだ。
以前、アシュレイ様のお屋敷で見せていただいた、あの黒い馬のことを思い出す。
つやつやした黒い毛並みにくりくりとした大きな目。
初めて鼻先に触れた時の、あの温かさと柔らかさ。
あの日から、ずっと馬に乗ってみたいと思っていた。
「お嬢様」
後ろから声をかけられ、振り返るとそこには、背の高い男性が立っていた。年の頃は四十歳くらいだろうか。日に焼けた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。
「本日から乗馬をお教えすることになりました、ロベルトと申します」
「ヴァレリア・ローゼンベルクです。よろしくお願いいたします」
私は慌てて姿勢を正し、挨拶をすると、ロベルトはにこりと笑って言った。
「お嬢様にお教えできて光栄です。ところで乗馬は初めてと伺っておりますが」
「はい」
「では、まずは馬に慣れるところから始めましょう」
「はい!」
私は元気よく返事をした。
「…あの」
「はい?」
「今日は、馬に乗れるのでしょうか?」
ロベルトは少し目を丸くしたあと、笑った。
「もちろんでございます。ですが、最初から走らせたりはしませんよ」
「…そうなのですね」
「まずは乗り降りと、馬の上で姿勢を保つ練習です」
「はい!」
よかった!今日早速乗れるんだ…。
すると、ロベルトが一頭の馬を連れてきた。
栗色の、小柄な馬だった。
「本日は、この子に乗っていただきます」
「…まあ!」
つぶらな瞳が可愛らしい。
耳をぴくぴくと動かしながら、こちらを見ている。
「名前はベルといいます」
「ベル……」
私はそっと手を伸ばした。
ベルは鼻先を近づけ、私の手袋の匂いを嗅いでいる。
「ふふ。よろしくね、ベル」
ベルが小さく鼻を鳴らした。
なんだか、返事をしてくれたみたいで嬉しくなった。
まずは、馬の横に立つところから。
近づき方や、手綱の持ち方、馬の後ろには不用意に回らないこと。ロベルトの説明を聞きながら、私は何度も頷いた。
そして、いよいよ
「では、乗ってみましょうか」
「はい!」
私は踏み台の上に立った。
ロベルトに支えてもらいながら、片足を鐙にかける。
「反対の足を、ゆっくり向こう側へ」
「は、はい」
…あれ?思ったより、足が上がらない。
「……っ」
なんとか反対側へ足を回そうとするけれど、身体がぐらついてしまう。
「慌てなくて大丈夫ですよ」
ロベルトが支えてくれる。
「…はい」
もう一度、今度は慎重に足を上げて。
「……よいしょ!」
なんとか鞍に腰を下ろした。
…高い。思っていたより、ずっと高い。
なんと言うか、地面が遠く感じる。
さっきまで、あんなに可愛らしく見えていたベルが、急に大きな生き物に感じられた。
「……わあ」
思わず声が漏れる。
「いかがですか?」
「…高いです」
ロベルトが笑った。
「最初は皆さん、そうおっしゃいます」
私は恐る恐る、ベルの首の方を見た。
茶色い耳が、ぴくぴくと動いている。
その向こうには、いつもより少し遠くまで見渡せる庭。
「…すごい」
思わず呟いた。
いつも歩いている場所なのに、まるで違って見える。
「では、少し歩いてみましょう」
「…はい!」
ロベルトが手綱を引き、ベルがゆっくり歩き始めた。
ゆらり。
「……っ!」
ぐわんと身体が揺れる。
ゆらり、ゆらり
馬の歩みに合わせて、身体が上下する。
「背筋を伸ばしてください、下ばかり見ないでくださいね」
「は、はい!」
私は慌てて顔を上げた。
けれど、今度は身体が後ろに傾きそうになる。
「…わっ」
「大丈夫ですよ。さあ、力を抜いて」
「……はい!」
力を抜く…え?力を抜くってどうやるの?
私は必死に姿勢を保とうとした。
けれど、意識すればするほど身体が硬くなってしまう。
「お嬢様、肩に力が入っていますよ」
「…はい!」
「もう少し楽に」
「…はい!」
「そうそう、その調子です」
…その調子なのかしら?自分では、さっぱりわからない。それでもベルは、私の苦労など知らないというように、のんびり歩いていた。
「……ふふ」
なんだか、おかしくなってきた。
私はこんなに必死なのにベルは、とても落ち着いている。
「どうされました?」
「…いえ、必死な私に比べてベルは、余裕綽々だなって」
ロベルトが声を上げて笑った。
「ははは!ベルはもう何年も人を乗せていますからね」
「…そうなのですね」
「お嬢様の方が、まだまだ新米ですよ」
「ベル先輩に教えてもらわなくては」
私は思わず笑って言った。
そうか、ベルの方が、ずっと先輩なんだ。
それなら、私がうまくできなくても仕方ない。
…いや、仕方なくはないのかもしれないけれど、まあとにかく、練習あるのみよね。
私はもう一度、背筋を伸ばした。
しばらく歩いたところで、ロベルトがベルを止めた。
「今日はこのくらいにしておきましょう」
「…えっ」
思わず声が出た。
「もう、ですか?」
「初日ですからね。無理をすると、明日あちこち痛くなりますよ」
「……そうなのですね」
少し残念だった。
まだ、ほんの少ししか乗っていない気がする。
「また次回、続きをしましょう」
「……はい!」
私は名残惜しく思いながら、ベルから降りた。
地面に足をつけた瞬間、なんだか足元がふわふわした。
「……あれ?」
思わず膝が曲がる。ロベルトが笑う。
「慣れないうちは、そういうこともありますよ」
「……ふふ」
私は自分の足を見下ろした。
さっきまで馬の上にいたのが、なんだか嘘みたいだ。
ベルが鼻先を寄せてくる。
「…今日はありがとう、ベル」
私はそっと、その首を撫でた。
「また、よろしくね」
ベルは小さく鼻を鳴らした。
屋敷へ戻る途中、マーサに、今日のことを何度も話した。
「思っていたより、ずっと高かったのよ」
「そうでしたか」
「それに、馬が歩くと身体が揺れるの。私、まっすぐ座っているだけでも大変で」
「まあ」
「でも、ベルは全然平気そうで……ふふ」
話しているうちに、また笑ってしまった。
マーサも楽しそうに笑っている。
「お嬢様、本当に楽しかったのですね」
「……ええ!とっても!!」
私は大きく頷いた。
その時、廊下の向こうからお母様が歩いてきた。
「あら、ヴァレリア。乗馬のお稽古は終わったの?」
「はい、お母様!」
「そう。怪我はしなかった?」
「はい。ロベルト先生がついていてくださいましたから」
「それならよかったわ」
お母様はほっとしたように微笑んだ。
けれど、すぐに少し心配そうな顔になる。
「でも、やっぱり危ないことには変わりないのよ。無理はしないでちょうだいね」
「はい」
私は頷いた。
「気をつけます」
「……そう。ならいいのだけれど」
お母様はまだ少し心配そうだった。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「では、お着替えをしていらっしゃい。お茶の時間にはまだ少し早いけれど、温かいものを用意させましょう」
「ありがとうございます!」
私はお母様に一礼し、マーサと一緒に部屋へ戻った。
その日の夜、私はベッドに腰掛け、足を伸ばしていた。
「……いたた」
まだ初日なのに太ももが、少し痛い。
明日はもっと痛くなるのかしら。
「……ふふ」
それでも、ついつい笑みがこぼれた。
私は今日、馬に乗った。ずっと乗ってみたかった馬に。高くて、怖くて、思ったように身体が動かなくて、それでも
「……楽しかったなあ」
私は机に向かい、いつものノートを開いた。
——今日は、初めて馬に乗った。
——思っていたより高くて、少し怖かった。
——ベルという栗色の馬に乗った。
——まっすぐ座っているだけでも大変だった。
そこまで書いて、少し考える。
それから、もう一行付け加えた。
——でも、とても楽しかった。
私は書いたばかりの文字を眺めた。
上手にはできなかったし当然まだ、一人では馬を歩かせることもできない。でも、次のお稽古が楽しみだ。
もっと上手になりたい。そしていつか、アシュレイ様のお屋敷で見た、あの黒い馬にも乗れるようになるかしら。
「……ふふ」
そんなことを考えるだけで、なんだか楽しくなってきた。
私はノートを閉じ、窓の外を見た。
春の夜風が、カーテンをわずかに揺らしている。
次のお稽古は、三日後…早く三日経たないかしら。
そう思いながら、私は明日の筋肉痛のことなど、すっかり忘れていた。




