18.特別な日
風が、頬を撫でていく。
木々の間を抜け、緩やかな坂を駆け上がると、視界が一気に開けた。
「ふふっ、いい子ね!」
私は馬の首を軽く撫でた。
鞍も鐙もない馬の背に乗ることにも、すっかり慣れた。最初の頃は手綱を握るだけで精一杯だったのに、今ではこうして風を切って走ることができる。
もっとも、ここまで乗れるようになるには、ずいぶん時間がかかったけれど。
ロベルト先生には何度も叱られたし、落馬したことだってある。初めて鞍を外して乗った時など、ほんの数歩でずり落ちてしまった。
あの時のロベルト先生のお顔といったら。
……ふふ。思い出すだけで笑ってしまう。
「ヴァレリア!」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると、少し離れたところをアシュレイ様が馬で追いかけてきていた。
「もう少しゆっくり走ってくれないか!」
「あら! ごめんなさい!」
私は慌てて馬の速度を落とした。
「つい楽しくなってしまって!」
「それは見ていればわかるよ」
追いついたアシュレイ様は、少し呆れたように笑った。
「それにしても、相変わらずすごいね。鞍もなしで、そんなに上手に乗れるなんて」
「ふふ。ありがとうございます!」
「最初は馬に乗るだけで大騒ぎしていたのに」
「まあ! そんな昔のことを覚えていらっしゃるのですか?」
「もちろん。ベル先輩のお話を、何度聞かされたことか」
「……あら」
私は思わず笑ってしまった。
ベル先輩、あの小さな栗毛の馬は、今では厩舎でのんびりと過ごしている。
私が訪ねると、相変わらず耳をぴくぴく動かして迎えてくれるし、林檎を持っていけば、昔と変わらず嬉しそうに食べてくれる。
今乗っている馬とは、もうずいぶん長い付き合いになるけれど、私に乗馬の楽しさを教えてくれたのは、間違いなくベル先輩だ。
「それで、ヴァレリア。今日はどこへ連れていってくれるんだい?」
「もう少し先です!」
「さっきもそう言っていたよ」
「今度こそ、本当にもう少しです!」
アシュレイ様が笑った。
私も笑いながら、再び馬を進めた。
今日は、アシュレイ様に見せたい景色がある。
以前、一人で遠乗りをしていた時に、偶然見つけた場所だ。初めてそこへ辿り着いた時、私はしばらく言葉を失ってしまったほど美しい景色だった。
だから、いつかアシュレイ様にも見ていただきたいと思っていたのだ。
そして、その「いつか」は、今日がいいと思った。
なぜなら
今日は、私にとって特別な日だから。
森を抜けると、小高い丘が現れた。
私は馬をゆっくりと進め、丘の上で止まった。
「着きました!」
アシュレイ様も隣に馬を止めた。
「ここが……?」
「ええ。こちらをご覧ください!」
私は馬から下り、少し先へ歩いた。
そこからは、緑の丘陵と、その間を流れる川が見渡せた。遠くには小さな町があり、さらに向こうには青く霞んだ山々が連なっている。風が吹くたび、草原が波のように揺れた。
「……すごい」
アシュレイ様が小さく呟いた。
「こんな場所があったんだね」
「ふふ。素敵でしょう?」
「うん。本当に綺麗だ」
私は嬉しくなって、アシュレイ様の顔を見た。
「気に入っていただけましたか?」
「もちろん。連れてきてくれてありがとう」
「よかった!」
私は思わず笑顔になった。
アシュレイ様はしばらく景色を眺めていたが、やがて私に向き直った。
「ヴァレリアは、本当に乗馬が好きなんだね」
「ええ! 大好きです!」
「それはよかった」
「…よかった、ですか?」
「うん。だって、こんなに楽しそうなんだから」
そう言って、アシュレイ様は笑った。
私は少しだけ照れくさくなった。
昔は、乗馬のお稽古を始めるだけでも大変だった。
お母様は心配なさったし、私自身も、こんなに夢中になるとは思っていなかった。
けれど、あの時、やってみたいと言ってよかった。
もちろん黄色いドレスを着たいと伝えたことや、エマ様に、刺繍を教えてほしいとお願いしたこと、アシュレイ様のお話を、最後まで聞こうと決めたことも。
どれも、本当に小さなことだったけど、でもその小さなことが少しずつ積み重なって、今の私がいる。
「……ヴァレリア?」
「はい?」
「どうしたの? 何だか、嬉しそうだね」
「あら。そう見えますか?」
「うん。今日はいつもより、ずっと」
私は少し考えてから、微笑んだ。
「……そうですね。今日は、私にとって特別な日なんです」
「特別な日?」
「ええ」
アシュレイ様は不思議そうに首を傾げた。
「何かのお祝いだったかな。僕、忘れてしまった?」
「いいえ。そういうわけではありません」
「そうなの?」
「はい」
私はもう一度、目の前の景色を眺めた。
今日は、私が一度目の人生を終えた日だ。
あの日、私はアシュレイ様から婚約の解消を告げられた。どうしてそんなことを言うのかと問い詰め、何度も言葉を遮り、最後まで自分の正しさを訴え続けた。
そして、階段から落ちた。
あの時の私は、自分がどうして嫌われてしまったのか、最後までわからなかった。
……いや、本当は、少しくらい気づいていたのかもしれない。ただ、認めたくなかっただけで。
私は、いつだって正しいことを言っているつもりだったし、誰かのためになると思っていた。
でも、相手が何を望んでいるのか、何を感じているのか、考えようともしなかった。
そして、もう一度人生をやり直すことになって私は、余計なことを言わずに生きようと決めた。
最初は、ただ黙っていればいいと思っていた。
けれど、それだけではなかったみたい。言わなくてもいいことがあるし、聞いた方がいいこともある。
そして、ちゃんと言葉にしなければ伝わらないこともある。
……今なら、アシュレイ様の気持ちも少しだけわかる気がする。
「ヴァレリア?」
アシュレイ様の声に、私は顔を上げた。
「それで、今日は何の日なの?」
私はアシュレイ様を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「今日は、これからもずっとアシュレイ様と仲良くしていこうって、改めて心に決めた日なんです」
「……え?」
アシュレイ様は目を丸くした。
「今日?」
「はい!」
「どうして今日なの?」
「ふふ。そう決めたからです」
アシュレイ様はしばらく私を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「そっか」
「はい」
「それなら、僕にとっても特別な日だね」
「……え?」
「僕も、これからもずっとヴァレリアと仲良くしていきたいから」
私は思わず、アシュレイ様を見つめた。
「……本当ですか?」
「もちろんだよ」
アシュレイ様は少しおかしそうに笑った。
「そんなに驚くこと?」
「い、いいえ!」
私は慌てて首を振った。
けれど、どうしてか胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
あの日、私に別れを告げた人が今、私とこれからも一緒にいたいと言ってくれている。
そのことがこんなにも嬉しい。
「……ありがとうございます、アシュレイ様」
「こちらこそ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
風が吹き抜け、足元の草がさらさらと揺れる。
しばらく二人で景色を眺めていると、アシュレイ様がふと口を開いた。
「そういえば、ヴァレリア」
「はい?」
「この前話していた、エマ嬢の刺繍は完成したの?」
「あっ! そうなんです!」
私は思わず身を乗り出した。
「それが、とっても素敵に仕上がったんですよ! 黄色と白の花を刺したのですけれど、エマ様が葉の部分には少し濃い緑を使った方がいいと教えてくださって……」
そこまで話して、私は口を閉じた。
……あら、また、夢中になってしまった。
「ふふ。ごめんなさい。つい、一人で話してしまって」
「いいよ。続けて」
「でも、アシュレイ様のお話も聞きたいです」
「僕の話?」
「ええ。先ほど、何かお話ししようとなさっていませんでしたか?」
「ああ、そうだった。実はね……」
アシュレイ様は笑いながら、話し始めた。
私はその言葉に耳を傾けた。
時々笑って、驚いて、私も自分の話をした。
話したいことは、まだまだたくさんある。
聞きたいことも、たくさんある。
きっとこれから先も、私は時々余計なことを言ってしまうのだろう。誰かの話を遮ってしまうことだって、あるかもしれない。
でも、その時はまた、考えればいい。
間違えたら謝ればいいし、わからなければ尋ねればいい。
全部を正しくできなくたって、きっと大丈夫。
だって、人生はまだまだ続くのだから。
帰り道、私たちは再び馬に乗り、緩やかな丘を下っていた。
「アシュレイ様!」
「ん?」
「帰りは、少し競争しませんか?」
アシュレイ様は目を瞬かせた。
「……また?」
「ふふ。ええ!」
「この前も、ずいぶん差をつけられたんだけど」
「では、今日は少し手加減いたしましょうか?」
「それはそれで悔しいなあ」
私は思わず笑ってしまった。
「では、手加減なしで!」
「ちょっと待って。まだ返事をしていないよ!」
「ふふっ!」
私は馬の首を撫で、前を向いた。
空はどこまでも青く、遠くには屋敷へと続く道が見える。
一度目の人生では、今日が最後の日だった。
けれど、今の私には明日がある。
明日だけではなく明後日も、その先も、まだ見たことのない景色が、きっとたくさん待っている。
「ヴァレリア!」
アシュレイ様が私を呼んだ。
私は振り返り、笑顔で答えた。
「はい!」
「……準備はいい?」
「もちろんです!」
アシュレイ様も笑った。
「じゃあ、あの大きな木まで!」
「ええ!」
私たちは並んで馬を進めた。
風が頬を撫でる。
私は手綱を握り直し、前を向いた。
……ああ、今日は、本当にいい日だ。
そして明日も、きっと。
私は笑いながら、馬を走らせた。
読んでくれてありがとうございました!
いらんこと言われてムッときて思いついたお話でした。




