13.余計なこととそうでないこと
冬の気配が少しずつ近づいてきた頃。
私は、母同士が親しくしている、とある伯爵家のお茶会に招かれていた。
母たちは別室でお茶を楽しんでいるらしく、私たち子どもは、同じ年頃の令嬢たちと一緒に過ごしていた。
庭の木々はすっかり色づき、窓の向こうでは使用人たちが落ち葉を集めている。
室内には暖炉が焚かれ、テーブルには温かい紅茶と焼き菓子が並んでいた。
「ヴァレリア様、こちらへいらっしゃいません?」
声をかけてくれたのはセシリア様だった。
「ええ、ありがとうございます」
最近は、こうして誰かに声をかけてもらえることが増えた。
なんとなく不思議な気持ちになるけれど、嬉しいことだと思う。
セシリア様の隣には、既に何人かの令嬢が座っていた。そしてその中に、見覚えのある少女もいた。
——エマ様
一度目の人生でも、何度かお茶会で顔を合わせたことがある。
「ごきげんよう、エマ様」
「ごきげんよう、ヴァレリア様」
エマ様は控えめに微笑んだ。
今日は淡い桃色のドレスを着ている。
華美な装飾はないけれど、襟元には小さな刺繍が施されていて、裾には白いレースがあしらわれていた。
「今日のお菓子、どれも美味しいですわね」
「ええ。特にこちらの焼き菓子が」
そんな他愛のない話をしながら、しばらくお茶を楽しんでいたその時だった。ふと、エマ様のドレスの裾が目に入った。
白いレースの端が、少し浮いているように見える。
不思議に思ってよく見ると、縫い目が何か所かほつれているようだった。もしかして…取れかかっている?
エマ様は気づいていないらしく、楽しそうにセシリア様と話している。
どうしよう…教えた方がいいかしら。
このままだと、何かに引っかかってしまうかもしれない。…でも
——エマ様、少し身の丈に合った暮らしをなさった方がよろしいのではなくて?
突然、聞き覚えのある声が頭の中に響いた。
一度目の私の声だった。
エマ様の家の財政が苦しいと知った私は、彼女にそんなことを言った。
——無理に周囲に合わせようとなさるから、苦しくなるのですわ。
——もっとご自分の立場を考えて、お金の使い方を改めるべきです。
ああ……まただ。
私、どうしてそんな言い方をしたのかしら。
確か、あの時のエマ様は、ひどく困ったような顔をしていた。それでも当時の私は、彼女のためになると思って話を続けたのだ。
「ヴァレリア様?」
「…え?」
セシリア様に呼ばれ、我に返る。
「どうかなさいました?」
「い、いいえ。なんでもありませんわ」
慌てて微笑むとエマ様の裾に再び目を向けた。
やっぱり、レースが取れかかっている。
……でもこんなことを指摘したら、恥ずかしい思いをさせるかもしれない。それに、わざわざ私が言わなくても、ご本人が気づくかもしれないし。
どうしよう、言う?言わない?
どうしよう…迷っているうちに、話題は次のお茶会のことへと移っていた。
「そういえば、向こうのお部屋に新しい刺繍が飾られているそうですわ」
「まあ、見てみたいです!」
令嬢たちが立ち上がり始める。
エマ様も椅子から腰を上げたその時だった。
するり…とドレスの裾から、白いレースの端が垂れた。
「あ……」
エマ様が小さく息を呑み慌てて裾を押さえる。
けれど、ほどけたレースの端が、指の間から覗いていた。周囲の令嬢たちは、まだ気づいていない。
「…………」
私は思わず、エマ様と目を合わせてしまった。
エマ様の頬が、さっと赤くなる。
あ、気づいていることに、気づかれてしまった。
どうしよう。エマ様は裾を押さえたまま、困ったように視線を落としている。
このまま皆について歩いたら、レースがもっとほどけてしまうかもしれない。何か言わなければ…でも、何を?
——もっと丁寧に縫い付けておくべきだったのではなくて?
また、私の声が頭をよぎる。
……違う、そんなことを言いたいんじゃない。
「……エマ様」
私は少しだけ声を落とした。
「はい…?」
「よろしければ、少しご一緒しませんか?」
「……え?」
「あちらのお部屋で、少しお話がしたくて」
エマ様は一瞬驚いたようだった。
けれど、すぐに小さく頷く。
「…ええ」
私はセシリア様たちに断りを入れ、エマ様と一緒に部屋を出た。廊下に出て、人のいない小さな控え室へ向かう。
扉を閉めると、エマ様が申し訳なさそうに口を開いた。
「……あの、ヴァレリア様」
「はい」
「お気づきに、なりましたよね」
私は頷いた。
「……はい」
エマ様は恥ずかしそうに裾を見下ろした。
「お見苦しいところを…申し訳ありません」
「い、いいえ!」
思わず大きな声が出てしまった。
エマ様が驚いて顔を上げる。
「あ…その」
私は少し声を落とした。
「もしよろしければ、裁縫道具をお持ちしましょうか?」
「裁縫道具……?」
「ええ。侍女に頼めば、用意してもらえると思いますの」
エマ様が私を見る。
「……よろしいのですか?」
「もちろんですわ」
そう答えると、エマ様はほっとしたように息をついた。
「ありがとうございます。実は、どうしようかと思っていたんです」
私は近くに控えていたマーサを呼び、裁縫道具を用意してもらうよう頼んだ。
ほどなくして、小さな裁縫箱が運ばれてきた。
「ありがとうございます」
エマ様は椅子に腰掛け、裾を持ち上げた。
「…ああ、やっぱり」
小さく呟く。
「ずいぶん糸が弱くなってしまっていたみたい」
「…そうなのですか?」
「ええ。昨日も少し縫い直したんですけれど」
「昨日?」
「はい」
エマ様は針に糸を通しながら、困ったように笑った。
「もうずいぶん前から着ているドレスなので、あちこち傷んできてしまって」
「…まあ」
「裾も少し短くなってしまったので、レースを足したんです。でも、元の生地の方も弱くなっているみたいで」
そう言って、器用に針を動かしていく。
私はその手元を見つめた。
細かな縫い目が、少しずつレースを留めていく。
「…お上手ですのね」
「え?」
「とても綺麗に縫われるので」
エマ様が少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。自分の服は、できるだけ自分で直すようにしているんです」
「そうなのですね」
「ええ。慣れると、案外楽しいものですわ」
エマ様は楽しそうに話している。
私はもう一度、ドレスの裾を見た。
レースの端には、小さな花の模様が編み込まれていた。
よく見ると、襟元の刺繍と似た形をしている。
「…もしかして、そのレースも?」
「はい。自分で編んだものなんです」
「まあ!」
思わず身を乗り出した。
「すごいですわ。こんなに細かい模様を?」
「ふふ。時間はかかりましたけれど」
エマ様は少し嬉しそうだった。
私は改めてレースを見る。
綺麗な花模様だった。
細かな編み目…ずいぶん手間がかかっているのだろう。
「…でも——」
こういう時は、もう少し丈夫になるように…そう言いかけて口を閉じた。
「……?」
エマ様が顔を上げる。
もう少し丈夫に縫った方がいい。
傷んだ生地なら、別の布を当てた方がいい。
そんなことを言いかけた。
けれど、昨日も縫い直したと言っていた。
それに、エマ様は私よりずっと裁縫が上手なのだ。
「……いえ」
私は首を振った。
「何か、お手伝いできることはありますか?」
エマ様は少し考えてから、首を横に振った。
「大丈夫ですわ、もう少しで終わりますから」
「そうですか」
私はそのまま、エマ様の隣に座って待つことにした。
しばらくして。
「……できました」
エマ様が顔を上げた。
「まあ、綺麗に直りましたね」
「ええ。これなら大丈夫そうです」
立ち上がり、裾を軽く整える。
先ほどまで垂れていたレースは、きちんと元の位置に収まっていた。
「本当にありがとうございました、ヴァレリア様」
「いいえ。私は何もしておりませんわ」
「そんなことありません」
エマ様が微笑む。
「一緒にお部屋を出てくださって、助かりました」
「そんな…」
「皆様に見られたら、きっと慌ててしまっていたと思います」
「…そうですか」
「はい」
エマ様は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「…実は、立ち上がる前から、少し裾が気になっていたんです。でもまさかレースがほどけているなんて…」
「…そうだったのですか?」
「ええ。皆様のお話が楽しくて、ついそのままにしてしまって」
「…まあ」
「もっと早く確かめておけばよかったですわ」
私は何か言いかけて、口を閉じた。
そして、少し考える。
「……エマ様」
「はい?」
「もし、また何か気づいたことがあったら……お声をかけてもよろしいでしょうか」
「え?」
「その…差し出がましいかと思い、言い出せませんでしたの」
エマ様は目を瞬かせると、嬉しそうに笑った。
「ええ。ぜひお願いします」
「……はい」
なんだか、少しほっとした。
「では、皆様のところへ戻りましょうか」
「ええ」
私たちは一緒に控え室を出た。
廊下を歩きながら、エマ様がふと思い出したように言った。
「そういえば、ヴァレリア様は刺繍をなさいます?」
「ええ。少しだけ」
「まあ!どんな模様がお好きですの?」
「私は……」
そう聞かれて、少し考える。
「花の模様が好きですわ」
「私もです!」
エマ様が嬉しそうに笑った。
「今度、よろしければ図案をお見せしますね」
「ぜひ!」
私も思わず笑った。
そのまま、私たちは刺繍の話をしながら皆のところへ戻った。
——その日の夜
私はいつものノートを開いた。
——今日は、エマ様のドレスの裾がほつれていることに気づいた。
——言うべきか迷っているうちに、レースが取れかかってしまった。
——エマ様と一緒に別室へ行き、裁縫道具をお貸しした。
そこまで書いて、ペンを止める。
一度目の人生で、エマ様に言ったことを思い出す。
身の丈に合った暮らしを…無理に周囲に合わせるべきではない…もっとお金の使い方を考えるべきだ。
…ああ、思い出すだけで、なんだか顔が熱くなる。
私は、エマ様が自分でレースを編めることも、ドレスを直していることも知らなかった。
今日初めて知ったことばかりだ。
もう一度、ノートに目を落とす。
——エマ様は、とても裁縫がお上手。
——今度、刺繍の図案を見せてくださるそうだ。
書き終えて、少し考えた。
今日は、余計なことを言わなかっただろうか?
…いや、正直言いかけたタイミングはあった。
それに、最初から声をかけていれば、エマ様もあんなに慌てずに済んだかもしれない。
「余計なこととそうでないこと…」
やっぱり、まだよくわからない。
私はしばらくノートを眺めてから、最後に一行書き足した。
——エマ様と、またお話ししたい。
それから、ノートを閉じた。




