12.母を不機嫌なままにさせてみる。
硝子の黄色い小鳥をもらってから数日が経ったある日の夕食後
私は両親と一緒に居間にいた。
父はソファに座って書類に目を通し、母は向かいで刺繍をしている。私はその少し離れたところで本を開いていた。
けれど、さっきから同じところを何度も読んでいる。
文字がまったく頭に入ってこない。
——言ってみよう
そう思っているのに、なかなか口が開かなかった。
「……」
ちらりと父を見るがまだ書類を読んでいる。
母は刺繍に夢中だ。
今なら言えるかな…。
いや、もう少しあとからでも…
——欲しいものがあるなら教えてほしかった。
アシュレイにそう言われたことが頭をよぎった。
そう、言わなければ、わからない。
「…あの」
父と母が同時に顔を上げる。
「どうした?」
「何かしら、ヴァレリア」
「その…」
二人の視線が一気に向いたことで急に緊張してきた。
「私…その、乗馬を習ってみたいです」
言った。
言ってしまった。
父が少し驚いたように眉を上げる。
母も目を丸くした。
「乗馬?」
「はい」
「まあ…」
母の表情があからさまに曇った。
それを見た瞬間、胸がきゅっと縮む。
「ヴァレリア、令嬢が乗馬だなんて…あなたには少しはしたないのではなくて?」
「…そう、でしょうか」
「ええ。それに危ないでしょう?もし落馬でもしたら大変よ。あなたには、もっとふさわしい穏やかなことの方が——」
「乗馬そのものは構わんだろう」
母が喋っているのに父が口を挟んだ。
珍しいことに驚いた母が振り返る。
「あなた?」
「貴族の令嬢が馬に乗ること自体、別に珍しいことでもないだろう」
「ですが、この子は——」
「ただし」
父が私を見る。
「今は駄目だ」
胸の奥が、ずんと重くなった。
「…はい」
やっぱり、言わなければ良かった…。
わざわざ二人を困らせるようなことを言わなくてもよかったのに、なんで私は……
「春まで待ちなさい」
「…え?」
顔を上げる。
「これから冬になる。今からお前に合う教師を探して、寒い中で始めさせる必要もないだろう」
「あ……」
「それに、お前はまだ馬にほとんど触れたこともないのだろう?」
「…はい」
「なら、まずは馬に慣れるところからだ。春になったら、また話そう」
「…はい!」
駄目だ、そう言われたけれど乗馬そのものを駄目だと言われたわけではなかったらしいとわかって胸が軽くなった。
「でも、あなた」
母の声に、また身体が強張った。
「私はやはり心配ですわ。怪我をするかもしれませんし、それに……ヴァレリアには、もっと別のことの方が似合うと思いますの」
「………」
「淑女としてふさわしい手習はいくつもありますわ。なにもわざわざ乗馬などさせなくても良いのではありませんこと?」
母は困ったような顔をしながら言った。
その顔を見ていると、胸の奥がざわざわする。
「ヴァレリア」
「……はい」
「本当に、そんなに乗馬をしてみたいの?」
「………」
はい、その一言を言うだけなのに喉元で言葉が詰まった感じがして返事ができない。母を見ると眉がほんの少し下がっている。
明らかに困らせている。私が乗馬をすることが嫌なのだ。やっぱりいいです、そう言えばいい。そうすれば、きっと
「…………」
けれど、初めて馬に触れた時のことを思い出した。
大きな体に艶々の毛並み。
少し怖かったけれど、それでもさわると温かく、クリクリとした瞳が愛らしかった。もっと近くで見てみたいと思ったし、いつか、自分も乗ってみたいと思った。
「……はい」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「乗ってみたいです」
母の表情は晴れなかった。
「…そう」
それだけだった。
別に怒られたわけではないが、明らかに不機嫌な空気を感じた。
「…………」
やっぱり、言わない方がよかった?
そんな考えが、また頭をよぎる。
「では、今日はもう部屋に戻りなさい」
母が言った。
「……はい。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい、ヴァレリア」
「おやすみ」
私は二人に頭を下げ、居間を出た。
「…はぁ」
大きくため息をついた。
私はそこで初めて、ずっと身体に力が入っていたことに気づいた。
———翌日の午後
「ヴァレリア様、旦那様がお呼びです」
マーサにそう言われた瞬間、心臓が跳ねた。
「…お父様が?」
「はい、書斎へいらっしゃるようにと」
「…わかったわ」
話はきっと昨日のことだ…すぐにそう思った。
やっぱり駄目だったのだろうか。
母が、あとから父に何か話したのかもしれない。
もしかしたら、乗馬の話そのものをなかったことにするように言われるのかも。
そんなことを考えながら書斎へ向かう。
軽く深呼吸をし扉を叩くと、中から父の声がした。
「入りなさい」
「失礼いたします」
父は机の前に座っていた。
「そこに座りなさい」
「…はい」
父の向かいの椅子に腰掛けたがなんだか落ち着かない。膝の上で重ねた手に、無意識に力が入った。
父が持っていた書類を机に置いた。
「昨日のことだが」
「はい…」
「お前、本当に乗馬をしたいのか?」
「…………」
母の顔が浮かんだ。
困ったような、不満そうなあの顔。
「ヴァレリア?」
「……はい」
それでも答えた。
「乗ってみたいです」
「そうか」
「…………」
父はしばらく私の顔を見ていた。
「では、なぜそんなに怯えている?」
「え?」
思わず顔を上げる。
「昨日から、ずっと顔色を窺っているだろう」
「…顔色を…私が…ですか?」
「自覚がなかったのか」
「…………」
何と言えばいいのかわからなかった。
父が少し考えるように私を見ると
「私が駄目だと言ったからか?」
「それも…少し」
「少しか」
「…………」
では、何にそんなに怖がっているんだと、そう聞かれているような気がした。私は膝の上の手を見る。
「…お母様が」
口にしたところで止まる。
「うん?」
「…嫌そうなお顔をされたので」
「そうだな」
「…………」
あっさり肯定されて、思わず父を見る。
「お前が乗馬をするのは、あまり嬉しくないのだろう」
「…やっぱり」
「そうだろうな」
「…………」
胸がざわついた。やっぱり、お母様は嫌なのだ。
「それで?」
「え?」
「母が嫌がっている。それを知ってお前は乗馬をしたくなくなったのか?」
「……いいえ」
答えはすぐに出た。
「したいのだろう?」
「……はい」
「そうか」
父はそれ以上、何も言わず沈黙が続いた。
「あの……」
「なんだ?」
「いいのですか?」
「何がだ?」
本当にわからない、という顔をされた。
「お母様が、嫌なのに…」
父は少しだけ眉を上げた。
「母が嫌がることと、お前が乗馬をしたいことは、別の話だろう」
「……別、ですか?」
「母は嫌だと思ったから嫌だと言ったんだろう。お前もやりたいならそう言っていい。当然だ」
「……当然」
「その上で、どうするかを話せば良いだろう」
そんなものなのだろうか?
母が嫌がっているなら、やめた方がいい。
…私はずっと、そういうものだと思っていたような気がする。
「私だって昨日、今は駄目だと言っただろう」
「……はい」
「それで、お前が乗馬をしたいと言ったことに腹を立てているように見えるか?」
父の顔を見る。
「………いいえ」
いつもの父だった。
怒っているようには見えない。
「春になったら、また話そう」
「……はい」
「その時にまだ乗りたいと思っているなら、そう言えばいい」
「……はい、ありがとうございます」
返事をすると、父は軽くうなづくとまた書類を手に取った。どうやら、話は終わりらしい。
「失礼いたします」
「ああ」
立ち上がり、扉へ向かう。
「ああ、ヴァレリア」
「はい?」
私はあわてて振り返った。
「母上は、しばらく嫌そうな顔をするかもしれんぞ」
「…………」
「まあ、心配なのだろうからな」
「…はい」
「そのうち慣れるだろう、気にするな」
それだけ言って、父は本当に仕事に戻ってしまった。
その日の夕食、乗馬の話は出なかった。
けれど、母はどことなくいつもより口数が少ないような気がした。
やっぱり、嫌なんだよね。
ちらりと母を見ると、母は静かに食事をしている。
怒っているのかな…それとも、ただ疲れているだけ?
わからなくて胸が落ち着かない。
今からでもやっぱり乗馬はいいです、そう言えば、母は安心するだろうか。
うん、きっと、する。
——母が嫌がることと、お前が乗馬をしたいことは、別の話だ
昨日の言葉が頭によぎる。
落ち着かない…ものすごく、落ち着かないけれど、私は何も言わなかった。そして母も何も言わなかった。
その日はそのまま食事が終わった。
夜寝る前に私は机に向かい、ノートを開いてペンを持つと
——お父様とお母様に、乗馬を習いたいと言った。
少し考えて、続きを書く。
——お父様には、今は駄目だが春になったら、また話そう、と言われた。
そして
——お母様は、私が乗馬をするのがお嫌なようだ。
そこで、ペンが止まった。
今日の夕食を思い出した。母の不満気な顔とあの居心地の悪さ。何度も「やっぱりやめる」と言いたくなったけれど、でも、私はまだ、馬に乗ってみたい。
ペンを動かす。
——私は、それでも乗ってみたい。
書いた文字を、しばらく見つめる。
母は嫌なのかもしれない。
それでも私はその一文を、消さなかった。




