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証拠にならない真実を、報告します 〜九藤探偵事務所の真相報告書〜  作者: 九藤隼人
第1章 三十二年前の赤い電話
9/12

第8話 三つの観測地点

 午前三時。


 九藤探偵事務所の前に、光咲さんは立っていた。


 まだ夜と言っていい時間だった。


 通りに人影はほとんどない。


 街灯の光だけが、事務所前の歩道を白く照らしている。


 俺は事務所の奥から、据え置き型哭響機のケースを運び出した。


 携帯型哭響機とは違う。


 片手で持ち歩けるようなものではない。


 レンズユニット。


 記録装置。


 集音部。


 固定脚。


 外部バッテリー。


 予備ケーブル。


 それらをまとめると、車でなければ運べない。だから今日は、電車ではない。


 車だ。


「……来たんですね」


 俺が言うと、光咲さんは当然のように頷いた。


「来ました」


「同行はできれば避けてください、と説明したはずですが」


「聞きました」


「本当は、一人で行く方がいいんです。危険があるかもしれませんし、機材もあります」


「私がそういうことを素直に聞かないのは、もう分かったでしょう」


「分かっています」


「じゃあ、問題ありません」


「問題はあります」


 俺は機材ケースを車の後部へ積み込んだ。


 重い。


 腰を痛めるほどではないが、慎重に扱う必要はある。


 光咲さんが手を伸ばそうとした。


「持ちます」


「やめてください」


「少しなら」


「落とした場合、修理費が高額です」


「……やめます」


「正しい判断です」


 光咲さんは少しだけ不満そうに手を引っ込めた。それから、ふと思い出したように言う。


「おばあちゃんが、よろしくって言ってました」


「文子さんが?」


「はい。一緒に住んでいるので、出る前に起きてきました」


「午前三時に?」


「寝てなかったのかもしれません」


 俺はすぐには返事をしなかった。


 その可能性は高い。


 けれど、確認していない。


「……そうですか」


「九藤さん」


「はい」


「今、断定しないように黙りました?」


「はい」


「分かってきました」


「何がですか」


「九藤さんの面倒くささです」


「理解が進んでいるようで何よりです」


「褒めてません」


「そうですか」


 光咲さんは小さく息を吐いた。


 俺は最後のケースを積み込み、後部ドアを閉める。


「出発します」


「はい」


「現地では、俺の指示に従ってください。勝手に動かない。勝手に機材に触らない。記録中に話しかけない。気分が悪くなったらすぐ申告する」


「分かっています」


「本当に?」


「本当に分かっています」


「途中経過を文子さんへ勝手に連絡しない」


「それも分かっています」


「記録内容を現地で見たいと言わない」


「……分かっています」


 少し間があった。


「今の間は何ですか」


「見たいとは思っているので」


「正直ですね」


「でも、言いません」


「なら構いません」


 光咲さんは助手席に乗り込んだ。


 俺は運転席に座り、エンジンをかける。


 事務所前の細い道を抜け、まだ眠っている東京の街へ出た。


 午前三時過ぎの道路は空いていた。


 信号の赤だけが妙に明るい。


 ビルの窓は暗く、コンビニの明かりだけがところどころ浮いている。


 後部には、据え置き型哭響機。


 助手席には、光咲さん。


 文子さんは来ない。


 昨日の契約時、文子さんは同行を望んだ。


 けれど、今日、現地で行うのは、見ることではない。


 記録することだ。


 現地で映像を確認する予定はない。


 その説明をしたあと、文子さんはしばらく黙り、最後には「分かりました」と言った。


 ただし、光咲さんには「お願いします」と言ったらしい。


 それが、依頼人としての判断なのか。


 祖母としての不安なのか。


 俺には分からない。


 分かるのは、光咲さんが今、助手席にいるという事実だけだ。


「今日は、映像を見るんですか」


 しばらくして、光咲さんが聞いた。


「昨日いった通り、現地では記録して、見るのは帰ってからとなります。」


 続けて説明する。


「据え置き型哭響機は、携帯型より安定して映像と音声を記録できます。ただし、その場で内容を確認するのは避けます」


「どうしてですか?」


「現地で確認すると、感情が先に動きます」


 光咲さんは黙った。


 昨日の写真を思い出したのかもしれない。


「機材の撤収も必要です。周囲への注意も必要です。映像を見て動揺した状態で、それらを行うのは危険です」


「……はい」


「記録を取る。持ち帰る。事務所で整理する。それから、見るかどうかを改めて確認する」


「一歩ずつ、ですね」


「その通りです」


「九藤さんらしいです」


「悪い意味ですか」


「今日は、悪い意味ではありません」


「今日は、という限定が気になります」


「気にしないでください」


「気になります」


「じゃあ、少しだけ気にしてください」


「調整が難しいですね」


 光咲さんは、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いはすぐに消えた。


 窓の外に流れる暗い街を見ながら、彼女は膝の上で手を組んでいる。


「今日の観測地点は三箇所です」


 俺は言った。


「三箇所?」


「一つ目は、赤い電話があった可能性の高い場所。二つ目は、路地の入口。三つ目は、携帯型で最も強い反応が出た方向の先です」


「そこに、美咲伯母さんが……」


 光咲さんは、言いかけて止めた。


「美咲さんがいた可能性があります」


 俺は言った。


「ただし、本観測で何も映らない可能性もあります。映像が乱れる可能性もある。音声が拾えない可能性もある。別件の残響が混ざる可能性もあります」


「はい」


「だから、今日は真相を見に行くのではありません」


「記録しに行く、それだけです。」


「はい」


 光咲さんは小さく頷いた。


 それから、少しだけ声を落とす。


「おばあちゃん、本当は行きたかったと思います」


「そうでしょうね」


「でも、行かないって自分で言いました」


「それなら、その判断を尊重します」


「九藤さんなら、そう言うと思いました」


「他に言い方がありますか」


「ありますけど、今日はそれでいいです」


「そうですか」


 車は首都高へ入った。


 夜の道路は、昼間よりも音が少ない。タイヤの音と、エンジンの低い響きだけが続いている。


 藤澤へ着く頃には、空の端が少しだけ白み始めていた。


 駅前はまだ静かだった。

 昼間の人通りはない。


 店のシャッターは閉まり、バス停にもほとんど人がいない。朝というより、夜の残り香の中にいるような時間だった。


 俺は駅前から少し外れた場所に車を止めた。後部ドアを開け、据え置き型哭響機のケースを下ろす。


 光咲さんも降りて、周囲を見回した。


「静かですね」


「この時間を選びました」


「人が少ないから?」


「はい。設置しやすい。周囲への迷惑も少ない。余計な反応も拾いにくい可能性があります」


「可能性」


「はい」


「そこはもう慣れました」


「それは助かります」


 光咲さんは、赤い電話があったと推定される歩道を見た。


 そこには何もない。


 青果店もない。

 薬局もない。

 時計店もない。


 ただ、新しい歩道と、ビルと、植え込みがあるだけだ。


「ここからなんですね」


「はい」


 俺は機材を開く。

 固定脚を広げる。


 レンズユニットを取り付ける。

 記録装置を接続する。


 集音部の角度を調整する。


 光咲さんは少し離れた場所で見ていた。


 今日は、余計なことを言わない。それだけで、昨日よりずっと現地調査向きだった。


「何してるんですか?」


 しばらくして、光咲さんが小声で聞いた。


「年代設定です」


「年代設定?」


「今回の対象は三十二年前なので、携帯型と同じく五十年未満に設定します」


「それ以上も撮れるんですか」


「物理的には可能です」


「すごいですね」


「今回は必要ありません」


「……はい」


 光咲さんは、それ以上は聞かなかった。


 聞きたいことはあったのだろう。


 けれど、飲み込んだ。


 今は、別の謎を覗きに来たわけではない。


 三十二年前の、美咲さんの残響を記録しに来たのだ。


「光咲さん」


「はい」


「本観測中は、機械の正面に立たないでください。記録に影響します」


「分かりました」


「記録中は話しかけないでください」


「はい」


「気分が悪くなったら、すぐに申告してください」


「はい、わかりました。」


「勝手に画面を覗かないでください」


「……はい」


「今の間は何ですか」


「覗きたい気持ちはあるので」


「正直ですね」


「でも、覗きません」


「なら構いません」


 俺は一箇所目の設定を終えた。

 赤い電話があった可能性の高い場所。


 レンズを歩道の端へ向ける。


 集音部は、当時の電話位置と推定される地点へ合わせる。


「始めます」


 俺は記録を開始した。


 装置のランプが静かに点灯する。

 低い駆動音が、わずかに響いた。


 画面に表示されるのは、反応値と録画状態だけだ。


 内容は見ない。


 見ないまま記録する。


 一分。


 二分。


 三分。


 反応値は小さく揺れている。


 強いとは言えない。


 だが、ゼロでもない。


 俺は記録状態だけを確認する。


 光咲さんは、少し離れた場所で手を握り、何もない歩道を見つめていた。


 十分後、俺は記録を停止した。


「一箇所目、終了です」


「撮れたんですか」


「記録は完了しています。内容は戻ってから確認します」


「……はい」


 光咲さんは、赤い電話があったと思われる場所へ、一度だけ頭を下げた。


 文子さんがいない分、彼女がそうしたのかもしれない。


 俺は何も言わなかった。


 二箇所目は、路地の入口だった。


 携帯型で最初に強い反応が出た場所。


 現在はビルの隙間に残る、細い通路のような場所だ。


 朝の光がまだ届かない。


 駅前から少し入っただけなのに、空気が変わったように感じる。


 そう感じるだけだ。実際に何かが変わったと断定できるわけではない。


「ここですか」


 光咲さんの声は小さかった。


「はい」


「昨日、写真がたくさん出た場所」


「正確には、残響写真データが多く保存された場所です」


「そこ、訂正します?」


「します」


「九藤さんらしいです」


 俺は機材を設置し直した。

 レンズの角度を変える。

 集音部を路地の奥へ向ける。


 地面のわずかな傾きを確認し、固定脚を調整する。


 風が少し吹いた。


 細い通路の奥で、何かが擦れるような音がした。


 看板か。

 ビニール袋か。

 古い配管の音か。


 余計な意味は持たせない。


「二箇所目、記録開始します」


 装置が動き始めた。


 一箇所目より、反応値の揺れが大きい。


 画面の端に、細いノイズが走る。


 光咲さんがそれに気づいた。


「今の」


「反応です」


「強いんですか」


「一箇所目よりは」


「映ってるんですか」


「戻ってから確認します」


 光咲さんは唇を結んだ。


 見たい。


 早く知りたい。


 そう思っているのは分かる。


 それでも、彼女はそれ以上言わなかった。


 十分間。


 ほとんど会話はなかった。


 光咲さんは、周囲を見ていた。


 俺は反応値と記録状態だけを確認していた。


 やがて、記録が終わる。


「二箇所目、終了です」


 俺は装置を停止した。


 光咲さんが、小さく息を吐いた。


「……緊張しますね」


「はい」


「そこは同意するんですね」


「緊張する状況ではあります」


「九藤さんもですか」


「作業上の緊張はあります」


「感情としては?」


「今は作業中です」


「答えないんですね」


「答える必要がある場面ではありません」


「そういうところです」


 光咲さんは、少しだけ笑った。


 三箇所目は、路地の奥だった。


 携帯型で最も反応が強くなった方向の先。


 昨日は、そこまで深入りしていない。


 古い地図では、当時この先に小さな裏道があった。今はビルの裏手に抜ける通路になっている。


 防犯カメラが一台、角の上に取り付けられていた。


 新しいものだ。


 三十二年前の残響とは関係がない。


「ここが三箇所目です」


 俺は言った。


 光咲さんは、路地の奥を見た。


「美咲伯母さんは、ここまで来たんでしょうか?」


「その可能性を確認します」


「はい」


 光咲さんは、自分の手をぎゅっと握った。


「私も怖いです」


「申告として受け取ります」


「そこは普通に、大丈夫ですか、でいいんですよ」


「大丈夫ですか」


「今言われると、ちょっと違います」


「難しいですね」


「九藤さんが難しくしてるんです」


 俺は反論せず、機材を設置する。


 この場所は足場が悪い。

 固定脚の一本を少し伸ばす。


 レンズの角度を調整し、集音部を通路の奥へ向ける。反応値は、設置した段階から小さく揺れていた。


 何かがある。

 それは分かる。


 だが、何があるのかは見ない。

 ここで見てはいけない。


「三箇所目、記録開始します」


 俺はボタンを押した。


 低い駆動音。

 点灯するランプ。

 記録装置のカウント。


 画面の端で、反応値が揺れる。


 一分。

 二分。

 三分。


 途中で、記録画面に強いノイズが走った。


 光咲さんが息を呑む。


「九藤さん」


「はい」


「何か、出てますか」


「反応はあります」


「強いですか」


「強いです」


 俺は短く答えた。


 ここで濁しすぎても、不安を増やすだけだ。


「ですが、内容は確認しません」


「……はい」


 光咲さんは頷いた。


 その目は路地の奥を見ている。


 何もない場所を。


 何かが残っているかもしれない場所を。


 十分後、記録が終了した。

 装置のランプが消える。


 俺はすぐにデータ保存を確認した。


 一箇所目。

 二箇所目。

 三箇所目。


 すべて記録済み。


 映像ファイル。

 音声ファイル。

 補助反応データ。


 欠損はない。


 少なくとも、記録としては回収できている。


「三箇所目、終了です」


 俺は言った。


「必要な記録は取れました」


 光咲さんは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり頭を下げた。


 路地の奥へ向かって。

 誰もいない場所へ向かって。


「帰ってから、見るんですね」


「はい」


「今は、見ないんですね」


「はい」


「分かりました」


 光咲さんは頷いた。


「今日は、それでいいです」


 俺は据え置き型哭響機を分解し、ケースへ戻した。


 機材は重い。

 だが、来る時よりもさらに重く感じた。

 中に入っているのは、機械だけではない。


 三十二年前の記録がある。


 まだ誰にも見られていない映像と音声がある。それが何を映しているのか、俺にもまだ分からない。


 分からないまま、持ち帰る。


 それが今日の仕事だった。


 車へ戻る途中、光咲さんが小さく言った。


「九藤さん」


「はい」


「これで、分かるんでしょうか」


「分かる可能性があります」


「また可能性ですか」


「はい」


 光咲さんは、少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


「今日は、それでいいです」


 俺は車の後部へ機材を積み込んだ。


 朝の藤澤駅前は、少しずつ人の数を増やしていた。


 会社員が歩く。

 学生が駅へ向かう。

 店のシャッターが開いていく。


 町は、今日も普通に動き始める。


 三十二年前の少女が消えたことなど、知らないように。いや、知っていても、止まらないように。


 車に乗り込み、藤澤を離れる。


 しばらく、会話はなかった。


 後部には、据え置き型哭響機。中には、まだ誰も見ていない映像と音声がある。


 それが何を記録しているのか、俺にも分からない。


「九藤さん」


 助手席から、光咲さんが小さく声を出した。


「はい」


「美咲伯母さんのこととは、別なんですけど」


「はい」


「私、昔から、歴史の謎とか、古い事件の話とか、そういうのが好きだったんです」


「そうですか」


「反応、薄いですね」


「運転中です」


「運転してなくても薄そうです」


「否定はしません」


 光咲さんは、少しだけ笑った。


「記録には残っているけど、肝心なところが分からない話とか。誰が本当は何をしたのかとか。昔の人が、最後に何を見たのかとか。そういうの、気になってしまうんです」


「今の依頼とは別の話ですね」


「はい。別です」


 光咲さんは、そこをはっきり言った。


「美咲伯母さんのことは、面白いとか、知りたいだけとか、そういう話じゃないです。それは分かっています」


「分かっているなら、いいです」


「でも、別の話として、そういう謎が好きなのは本当です」


「そうですか」


「やっぱり薄いですね」


「今は、本観測後です」


「それはそうですね」


 光咲さんは窓の外を見た。


 朝の光が、少しずつ強くなっていく。


「でも、今日のことで少し分かりました」


「何がですか」


「昔の謎って、外から見ると面白いんです。でも、その近くには、誰かの苦しさとか、止まった時間とかがあるんですね」


「常にそうとは限りません」


「出ました」


「ただ、そういう場合もあります」


「はい。そういう場合もある」


 光咲さんは、繰り返すように言った。


「だから、気軽に見たいって言っちゃいけないんだなって、少し思いました」


「少し、ですか」


「はい。全部分かったって言うと、九藤さんに訂正されそうなので」


「訂正の必要はなさそうです」


「珍しいですね」


「正確だったので」


 光咲さんは、今度は少しだけ明るく笑った。


 それから、また窓の外へ目を向ける。


「でも、やっぱり私は、昔の謎も好きです」


「そこは変わらないんですね」


「変わりません。好きなものなので」


「そうですか」


「いつか、その話もします」


「聞きません」


「今はしません」


「なら、まあ構いません」


 俺は記録装置を積んだ車を、東京へ向けて走らせた。


 現地で真実を見つけたわけではない。ただ、真実へ続くかもしれない記録を回収した。


 それだけだった。


 見ていないことは、報告できない。


 だから、まずは戻る。


 東京の九藤探偵事務所へ。


 証拠にはならない真実を、確認するために。

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