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証拠にならない真実を、報告します 〜九藤探偵事務所の真相報告書〜  作者: 九藤隼人
第1章 三十二年前の赤い電話
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第9話 母を呼ぶ声

 東京へ戻ったあと、俺はすぐに記録室へ入った。


 九藤探偵事務所の奥にある、小さな部屋だ。


 窓はない。

 壁には防音材を貼ってある。


 据え置き型哭響機で記録した映像や音声を確認するための部屋だった。


 光咲さんには、応接室で待ってもらっている。


 彼女は何か言いたそうだった。

 だが、何も言わなかった。


 昨日、別件の残響写真を一枚見たことが、彼女の中に残っているのだろう。


 見たい。

 知りたい。


 その気持ちだけで踏み込める場所ではない。少なくとも、今の光咲さんは、それを少し理解している。


 俺は記録室の扉を閉め、鍵をかけた。


 机の上に、記録装置を置く。


 一箇所目。


 赤い電話があった可能性の高い場所。


 二箇所目。


 路地の入口。


 三箇所目。


 携帯型哭響機で最も強い反応が出た方向の先。


 映像ファイル。

 音声ファイル。

 補助反応データ。


 すべて保存されている。


 欠損はない。


 少なくとも、記録としては成功していた。


 問題は、何が残っているかだ。


 俺は深く息を吸い、最初のファイルを開いた。


 一箇所目。


 映像は荒れていた。


 現在の歩道の上に、三十二年前の景色が薄く重なる。


 古い商店街。

 青果店の店先。

 赤い電話。


 人の流れ。


 音声には強いノイズが入っている。

 それでも、ところどころ拾えていた。


 遠くの車の音。

 店先で誰かが話す声。


 電話機の受話器が上がる音。


 そして、少女の声。


 画面の中に、美咲さんと思われる少女がいた。


 制服。

 白い襟。


 細い肩。

 黒髪。


 顔は鮮明ではない。


 だが、前日に文子さんが確認した残響写真と一致している。


 少女は、赤い電話の前に立っていた。


 受話器を耳に当てている。

 誰かに電話をかけている。


 音声は乱れていた。

 相手の声までは拾えていない。


 それでも、少女の声の断片だけは、かろうじて残っていた。


 お母さん。


 今から帰る。


 大丈夫。


 そういう短い言葉。


 途中で、言葉はノイズに潰れた。


 通話が最後まで成立していたのか。

 相手にどこまで届いていたのか。


 それは分からない。


 だが、美咲さんが赤い電話から母親へ連絡を取ろうとしていたことは、ほぼ間違いなかった。


 美咲さんは、偶然そこを通ったわけではない。誰かと逃げるために電話をかけていたわけでもない。


 家に連絡しようとしていた。文子さんへ、帰る意思を伝えようとしていた。


 俺は感情を閉じる。


 記録する。

 判断する。

 言葉を選ぶ。


 次のファイルへ進む。


 二箇所目。


 路地の入口。


 映像の乱れは、一箇所目より強かった。


 赤い電話から離れた少女が、路地の前で一度立ち止まる。


 振り返る。

 迷っているようにも見える。

 誰かに声をかけられたようにも見える。


 音声に、男の声が混じった。


 低い声。

 親しげな口調。


 だが、映像は顔をはっきり映さない。


 少女は、その男についていく。


 自分の足で。


 無理やり引きずられているようには見えない。この段階では、だ。


 俺は画面を止めた。


 男の首元。

 左側。


 黒いほくろ。


 小さい。


 だが、位置ははっきりしている。


 俺はその部分を拡大し、静止画として保存した。


 その特徴には覚えがあった。藤澤での聞き込み中、古い家から出てきた老人。


 首筋に黒いほくろがあった。


 もちろん、断定はできない。


 三十二年前の男と、現在の老人が同一人物であると証明するには、これだけでは足りない。


 だが、無視できる一致ではない。


 俺は記録に書き加える。


 首筋の黒いほくろ。現地聞き込み時に遭遇した老人と特徴一致の可能性。


 同一人物と断定不可。


 三箇所目。


 俺は再生する前に、少しだけ手を止めた。

 反応値が最も強かった場所だ。


 そこに何が残っているのか。

 見たいとは思わない。


 だが、見なければ報告できない。


 俺は再生を開始した。


 映像は、最初からひどく乱れていた。


 画面の奥で、人影が重なる。


 少女の叫び声。


 男の怒鳴り声。


 駆け足の音。


 壁に何かが当たる音。


 男を拒む少女の声。


 母に助けを求める声。


 少女の泣き叫ぶ声。


 響く悲鳴。


 途切れる息。


 何かを押し殺すような音。


 俺は、余計な感情を入れないようにした。


 これは記録だ。

 刺激的な映像ではない。

 見世物ではない。


 それでも、画面の中で起きたことは、三十二年前の現実だった。


 音声だけでも、美咲さんがこの男から暴力を受けた可能性は高かった。身体的な暴力だけではない。性的な暴力も含まれていると見ていい。


 そして、その後、美咲さんは命を落とした。そう判断するしかなかった。


 直接的な場面は、映像としてもかなり乱れていた。


 だが、音声は残っていた。かすれて、途切れて、ノイズに潰れながらも、残っていた。


 美咲さんは、最後まで家に帰ろうとしていた。赤い電話で母に連絡しようとしたあとも。最後の瞬間まで、母を呼んでいた。


 お母さん。


 お母さん。


 助けて。


 その声を聞いた時、俺は一度だけ再生を止めた。


 息を整える。

 記録室は静かだった。


 まだ耳の奥に、声だけが残っている。


 俺は画面から目を離し、机の上に置いた手を見る。


 指先に力が入っていた。


 力を抜く。

 呼吸を戻す。


 もう一度、記録として見る。

 そうしなければ、報告できない。


 俺は端末の再生位置を戻し、必要な部分だけを切り出した。


 文子さんに見せるかどうか。


 それは、最終的には依頼人である文子さんが選ぶことだ。だが、見せ方は俺が決めなければならない。


 全部をそのまま見せることはできない。


 それは、真実の受け渡しではない。


 ただの暴力だ。


 俺は必要な箇所を整理し、報告用の一時フォルダーを作った。


 赤い電話。


 文子さんへ電話をかけようとする美咲さんの姿。


 男の首元の特徴。


 路地へ向かう流れ。


 そして、最後の声。


 それだけで十分だった。


 それ以上は、文子さんが望んだ場合でも、慎重に扱う必要がある。


 確認を終えた時、時計はかなり進んでいた。


 俺は記録室の扉を開けた。


 応接室へ戻る。


 光咲さんは、ソファに座ったまま、こちらを見た。立ち上がるのが早かった。


「九藤さん」


「はい」


「どうでした?」


 俺はすぐには答えなかった。


 言葉を探した。

 見ていないことは報告できない。


 だが、見たことも、そのまま言えばいいわけではない。


「私にも見せてください」


 光咲さんが言った。


 その声には、不安が混じっていた。


 俺は首を横に振る。


「まず、文子さんに連絡してください」


 光咲さんは、息を呑んだ。

 それだけで、何かを察したのだろう。


 いつもなら、理由を聞いただろう。


 反論しただろう。


 自分にも関係があると言っただろう。だが、その時の光咲さんは、珍しく何も言わなかった。


「……分かりました」


「来られる状態かどうか、確認してください。無理に連れてくる必要はありません」


「はい」


「それと、内容は電話で話さないでください」


「分かっています」


 光咲さんは鞄からスマートフォンを取り出し、応接室を出た。


 俺は一人残された。

 端末は閉じてある。


 それでも、耳の奥に声が残っていた。


 お母さん。


 助けて。


 何度も聞いたわけではない。

 必要な分だけ確認した。


 それでも、一度聞けば十分だった。


 しばらくして、光咲さんが戻ってきた。


「おばあちゃん、来ます」


「一人で来られますか?」


「私が迎えに行きます」


「分かりました」


「九藤さん」


「はい」


「……美咲伯母さんだったんですね」


 俺はすぐには答えなかった。

 光咲さんの顔を見る。


 答えれば、彼女は文子さんに会う前に背負うことになる。


 答えなければ、不安だけを抱えたまま迎えに行くことになる。


 どちらが正しいか。

 すぐには決められない。


「文子さんが来てから説明します」


 俺は言った。


 光咲さんは唇を結んだ。


 それでも、頷いた。


「……分かりました」


 光咲さんは事務所を出ていった。


 俺は応接室に一人残された。


 報告用の資料を整理する。


 映像データの一時フォルダー。

 静止画。


 音声の切り出し。

 補助反応データ。


 そして、報告用メモ。


 美咲さんと思われる人物が赤い電話付近に存在。 文子さんへ連絡を取ろうとしていた可能性が高い。


 男と接触。

 路地へ移動。


 男の首元に黒いほくろ。


 現地聞き込み時に遭遇した老人と特徴一致の可能性。その後、性的な暴力被害を受けた可能性。


 死亡した可能性が高い。

 最後に母を呼ぶ音声あり。


 書いている文字が、ただの文字に見えなかった。だが、報告書にはしなければならない。


 誰かが言葉にしなければ、文子さんは受け取れない。


 一時間ほどして、光咲さんが戻ってきた。文子さんと一緒だった。文子さんは、事務所に入る時から、俺の顔を見ていた。


 きっと、光咲さんから詳しい話は聞いていないのだろう。それでも、何かあったことは分かっている。


 応接室へ案内する。


 文子さんは、前と同じ席に座った。

 光咲さんは、その隣に座る。

 俺は向かいに座った。


 湯呑みは出さなかった。


 誰も、飲めないと思った。


「文子さん」


「はい」


「本観測の記録を確認しました」


 文子さんの手が、膝の上で固く重なった。


「記録には、残っていました」


「美咲が、ですか」


「はい」


 俺は短く答えた。


「美咲さんと思われる人物の姿と、声が記録されています」


 文子さんは目を閉じた。


 光咲さんが、祖母の手にそっと触れる。


「言いづらいこともあります」


 俺は続けた。


「探偵として、情報を曖昧にしたくはありません。ただ、すべてをそのまま言うことが正しいとも思っていません」


「構いません」


 文子さんは、目を開けた。


「教えてください」


「美咲さんは、家出ではありません」


 最初に、それだけ言った。


 文子さんの目が揺れた。


「記録を見る限り、美咲さんは赤い電話から文子さんへ連絡を取ろうとしていました」


「私に……?」


「はい」


 文子さんの唇が、わずかに震えた。


「通話が最後まで成立していたかは分かりません。相手の声も拾えていません。ただ、美咲さんの声には、『お母さん』という呼びかけと、家へ帰ろうとする言葉が残っていました」


 光咲さんが、息を呑んだ。


「その後、美咲さんは路地へ向かっています。自分の意思で歩いているように見える場面もありますが、その先で暴力を受けた可能性が高いです」


 文子さんは、ただ俺を見ていた。


「性的な暴力も含まれていると見ています」


 光咲さんの手が震えた。


 文子さんは、声を出さなかった。


「そして、美咲さんは、その場で命を落としたと見ています」


 応接室が静かになった。

 外の車の音だけが遠く聞こえる。


「……犯人は」


 文子さんの声は、かすれていた。


「犯人につながる特徴は記録されています」


「分かるんですか?」


「特徴としては、首元の黒いほくろです」


 俺は言った。


「三十二年前の映像に映っていた男の首筋に、黒いほくろが確認できます。藤澤での聞き込み中に、同じような位置に黒いほくろのある老人を見ています」


 光咲さんが息を呑んだ。


「九藤さん、それって……」


「同一人物である可能性があります」


「可能性……」


「断定はできません」


 俺は言った。


「ただし、無視できる一致ではありません」


 文子さんは、ゆっくり息を吸った。


「その人は、今も……」


「生きています。ですが、現在は認知症のような状態に見えました」


 あくまで、見えた、だ。


 診断したわけではない。


「仮に同一人物だったとしても、本人が事件を覚えているかは分かりません。さらに、事件から三十二年が経っています。当時の法律上、すでに公訴時効が成立している可能性が高い」


「訴えることは」


「難しいと思います」


 文子さんの肩が、小さく震えた。


「今回の記録も、法的証拠として使える保証はありません。警察に提出しても、過去の映像であることを証明するのは難しい。裁判で扱われるかどうかも分かりません」


「……そう、ですか」


「はい」


 光咲さんが唇を噛んでいた。


 怒り。

 悔しさ。


 何かを言いたい顔だった。

 だが、今は言わなかった。


 文子さんがいるからだろう。


「それでも」


 文子さんは言った。


「それでも、見せてください」


 俺は少しだけ目を伏せた。


「おすすめはしません」


「分かっています」


「途中で止めることもできます」


「はい」


「直接的な部分は、こちらで確認用に整理しています。すべてをそのまま再生する必要はありません」


「はい」


「それでも、見ますか」


 文子さんは頷いた。


「見ます」


 光咲さんも顔を上げた。


「私も、見ます」


「光咲さん」


「おばあちゃん一人にはさせません」


「あなた自身も、途中で見られなくなる可能性があります」


「分かっています」


 その返事は、以前より少しだけ重かった。


 分かっています、という言葉が、少しだけ本当に近づいている。


「では、確認用に整理した記録を再生します」


 俺は端末をモニターへ繋いだ。


 大きな画面ではない。

 応接室の確認用モニターだ。

 三人で見るには十分だった。


 俺は再生前に言った。


「これは、証拠ではありません」


 文子さんが頷く。


「でも、記録です」


「はい」


「美咲が残っているんですね」


「はい」


 俺は再生ボタンを押した。


 最初に映ったのは、赤い電話だった。

 三十二年前の藤澤駅前。


 古い青果店。

 店先の赤い電話。

 夕方の薄い光。


 美咲さんらしき少女が、電話の前に立っている。


 文子さんの手が震えた。


「美咲……」


 画面の中の少女は、受話器を取った。


 音声は乱れている。

 相手の声は拾えていない。


 ただ、少女の声だけが、かすかに残っていた。


『お母さん』


 文子さんの肩が揺れた。


 映像の中の少女は、受話器を握ったまま、何かを言おうとしている。


 言葉は、途中でノイズに沈む。それでも、帰ろうとしていたことは分かった。


 家へ連絡しようとしていたことは、分かった。


 次の場面。


 路地の入口。

 少女が歩いている。


 その少し前に、男の影がある。

 首元の黒いほくろ。


 そこだけを切り出した静止画を、俺は短く表示した。


「この特徴です」


 俺は言った。


「首元の黒いほくろ。藤澤で見た老人と、位置が近い」


 光咲さんは、画面を睨むように見ていた。

 文子さんは、ただ固まっていた。


 次の場面へ移る。


 ここから先は、映像をかなり短くしてある。直接的なものは見せない。


 音声も、必要な部分だけに絞った。


 乱れた画面。

 ノイズ。


 路地の奥。


 少女の拒む声。

 男の荒い声。


 そして。


『お母さん』


 文子さんの口が、ゆっくり開いた。


『お母さん……』


 音はかすれていた。

 それでも、聞こえた。


『文子……お母さん……』


 文子さんの名前だった。

 少女は、最後まで母を呼んでいた。


 家出ではなかった。

 母を捨てたわけではなかった。


 帰りたがっていた。

 助けを求めていた。


 文子さんの膝から、力が抜けた。


「美咲……」


 光咲さんが、祖母を支える。


 俺は再生を止めた。

 それ以上は必要ない。


 文子さんは、しばらく声を出さなかった。


 肩が小さく震えている。

 涙は、すぐには落ちなかった。


 あまりに長い時間を越えて届いた声だから、体が追いついていないように見えた。


「美咲は」


 やがて、文子さんが言った。


「美咲は、帰ろうとしていたんですね」


「はい」


 俺は答えた。


「記録を見る限り、美咲さんは家出ではありません」


「私に……電話を……」


「はい」


「最後にも、私を呼んでいたんですね」


「はい」


 文子さんの涙が、ようやく落ちた。

 一度落ちると、止まらなかった。


 光咲さんは、何も言わずに祖母の背中に手を添えていた。その手も震えている。


「ありがとうございます」


 文子さんは泣きながら言った。


「ありがとうございます……」


「まだ、報告は終わっていません」


 俺は言った。


 言うべきではないかもしれない。

 だが、言わなければならない。


「後日、正式な報告書にまとめます。映像の扱い、犯人と思われる人物の特徴、警察へ相談するかどうかも含めて、改めて説明します」


 文子さんは頷いた。

 泣きながら、何度も頷いた。


「でも、今日は」


 俺は端末を閉じた。


「ここまでにしましょう」


 光咲さんが俺を見た。

 何かを言いたそうだった。


 怒りか。

 悔しさか。


 あるいは、感謝か。


 そのどれかは分からなかった。


 ただ、今は文子さんを支える方が先だった。応接室には、しばらく文子さんの泣く声だけが残った。


 三十二年前、誰にも届かなかった声がある。


 それは証拠にはならない。

 犯人を裁けるとは限らない。


 けれど、文子さんには届いた。


 美咲さんは、家へ帰ろうとしていた。


 赤い電話から、母へ連絡しようとしていた。最後まで、母を呼んでいた。


 その事実だけが、今、応接室の中にあった。

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