第10話 助手、まだ誰も来てないんじゃないですか
文子さんと光咲さんが帰ったあと、事務所は急に静かになった。
応接室に残っていた湯呑みを片づけ、端末を記録室へ戻し、報告書用のメモを机の左側に置く。
それだけで、部屋の空気が少しずつ元に戻っていく。
人が泣いた場所は、しばらく重い。けれど、時間が経てば、事務所は事務所に戻る。
外は夕方だった。
窓の向こうを、人が歩いている。誰も、三十二年前の声のことなど知らない。
それでいい。
知らないまま日常が続く人もいる。
知ったことで、ようやく呼吸ができる人もいる。俺の仕事は、その間にある。
俺は紅茶を淹れた。
コーヒーよりも、今日は紅茶の方がよかった。理由は分からない。
分からないことを、無理に言葉にする必要もない。
椅子に座り、ひと口飲む。
ようやく静かになった。
俺の好きな時間帯だった。
報告書を書く前に、少しだけ頭を切り替えよう。そう思って、本棚へ手を伸ばす。
古い海外ミステリの背表紙に指が触れた、その時だった。
事務所の扉が、勢いよく開いた。
「九藤さん!」
俺は本から指を離した。
「扉は、もう少し静かに開けてください」
「すみません。でも、確認したんですけど」
光咲さんが、入口に立っていた。
息が少し上がっている。
目元は、まだ赤い。
それでも、その目は妙に強かった。
「助手、まだ誰も応募してないんじゃないですか?」
俺は数秒、黙った。
「何の話ですか?」
「前に見た。助手募集の貼り紙です。」
「古いものです」
「でも、まだ貼ってありました」
「剥がし忘れていただけです」
「それ、前にも聞きました」
「では、今回も同じ説明です」
「その間に、誰か来たんですか?」
「……」
「来てないんですよね」
「断定は避けます」
「それは来てない人の言い方です」
俺は紅茶のカップを置いた。
まだ温かい。
本も、まだ開いていない。
俺の好きな時間帯は、かなり短かった。
「光咲さん」
「はい」
「今日のことで感情が動いている状態の中、仕事や進路を決めるべきではありません」
「そう言われると思いました」
「なら、素直にそのまま帰ってください」
「でも、違います」
光咲さんは首を横に振った。
「美咲伯母さんのことだけで言ってるわけじゃありません」
「では、何ですか?」
「私、歴史ミステリーが好きなんです」
話が飛んだ。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「歴史ミステリー??」
「はい。昔の事件とか、記録には残っているけど肝心なところが分からない話とか、誰が本当は何をしたのかとか。そういうのが、とても気になるんです」
「そうですか」
「反応、薄いですね」
「先ほどから話の方向が急なので、頭の中を整理しています」
「それでですね」
「続くんですね」
「続きます」
光咲さんは、勝手に応接用の椅子へ座った。
座る許可は出していない。ただ、今それを指摘すると、話がさらに長くなる可能性がある。
俺は黙って向かいに座った。
「私、あの機械で調査してほしい謎があるんです」
「断ります」
「まだ内容を言ってません」
「好奇心だけの依頼なら受けません」
「好奇心だけとは、限らないじゃないですか」
「今の説明では、かなり好奇心よりです」
「歴史の謎ですよ。知りたくなりませんか?」
「なりません」
「少しも?」
「少なくとも、依頼として受ける理由にはなりません」
光咲さんは不満そうに眉を寄せた。
俺は紅茶を置く。
「以前にも、似たような依頼はありました。古い史料の空白を見たい。ある人物の最期を確認したい。伝承の真偽を確かめたい。そういう内容です」
「すごいじゃないですか」
「断りました」
「どうしてですか」
「ここは探偵事務所です。歴史研究所ではありません」
「でも、調べられるんですよね?」
「調べられることと、受けるべきことは別です」
「またそれですか」
「はい」
「九藤さん、歴史ロマンに厳しいですね」
「歴史ロマンだけで哭響機を使う気はありません」
「でも、今回の依頼は受けたじゃないですか」
「今回は違います」
「どう違うんですか」
「西園寺の爺さんからの紹介です。あの人には借りがあります。依頼人を見る目もあります。好奇心だけの人間を、ここへ寄こすような人ではありません」
「借りがあれば受けるんですか」
「借りがあっても受けない場合はあります」
「じゃあ、今回はどうして」
「文子さんが、知る必要のある人だったからです」
光咲さんは、少しだけ黙った。その沈黙は、さっきまでの勢いとは違っていた。
「おばあちゃんは、知る必要のある人だった」
「はい」
「私は?」
「今のところ、ただの歴史ミステリーが好きな人です」
「急に扱いが雑です」
「正確です」
光咲さんは、少し考え込んだ。
考え込んでいる時の彼女は、意外と静かだった。やがて、顔を上げる。
「じゃあ、やっぱり助手にしてください」
「なぜそうなりますか」
「助手なら、事務所の人間ですよね」
「それは雇用関係です」
「事務所の人間なら、相談くらい聞いてくれる可能性があります」
「可能性という言葉を都合よく使わないでください」
「九藤さんがよく使うので」
「俺の使い方とは違います」
光咲さんは身を乗り出した。
「助手にしてください」
「しません」
「理由は?」
「危険がある。精神的負担が大きい。守秘義務がある。機材を扱う知識も必要です。感情で動く人間には向いていません」
「私、聞き込みでは役に立ったって言われました」
「役に立っていないとは言えない、と言いました」
「ほぼ同じです」
「違います」
「文子さんへの連絡も適切だったんですよね」
「それは事実です」
「じゃあ、判断してください」
「今ですか」
「今です」
「帰ってください」
「判断してません」
「帰るかどうかの判断はしました」
「私は帰りません」
俺はこめかみを押さえた。
「光咲さん」
「はい」
「あなたは、なぜそこまで入りたがるんですか?」
光咲さんは、すぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とす。
「美咲伯母さんの件を見たから、だけじゃありません」
「はい」
「でも、あれを見たから、分かったこともあります」
「何がですか」
「知りたいって言うだけなら、簡単なんだってことです」
彼女の声は、さっきより少し静かだった。
「昔の謎とか、事件とか、歴史ミステリーとか。外から見ると面白いです。でも、それを知るって、誰かの痛いところに入ることでもあるんですね」
「常にそうとは限りません」
「はい。でも、そういう場合もある」
「その理解なら、大きくは間違っていません」
「珍しく褒めました?」
「確認です」
「九藤さんらしいです」
光咲さんは少し笑った。
それから、また真面目な顔になる。
「私は、ただ面白がって知りたいわけじゃないです。歴史の謎が好きなのは本当です。でも、今回みたいに、知ることで誰かが少しだけ息をできるようになるなら、そういう仕事を近くで見たいと思いました」
「見たいだけでは、仕事になりません」
「じゃあ、仕事にしてください」
「話が戻っています」
「戻しました」
俺は黙った。
光咲さんは、ここで引かない。
それはもう分かっている。
「それに」
「まだありますか」
「あります」
光咲さんは、今度は少しだけ得意げに言った。
「前にも言いましたけど、九藤さんの性格じゃ、普通の人が入ってもすぐやめちゃいますよ」
「普通の人がやめる根拠は?」
「質問に対して毎回、可能性とか、根拠とか、断定できませんとか言うからです」
「必要なことです」
「必要でも、面倒です」
「面倒」
「はい」
光咲さんはきっぱりと言った。
「でも私は、もう結構慣れました」
「慣れたから助手に向いている、という主張ですか」
「はい」
「無理があります」
「じゃあ聞きますけど」
光咲さんは、事務所の入口の方を指さした。
「あの貼り紙、前に私が見た時からずっと貼ってありましたよね」
「……」
「その間に、誰か来ました?」
「……」
「来てないんですよね」
「断定は避けます」
「それは来てない人の言い方です」
俺は反論しようとして、言葉を失った。
確かに、来ていない。
正確には、一度だけ電話はあった。だが、仕事内容を説明した時点で、相手は二度と連絡してこなかった。
それを「来た」と表現するのは、かなり無理がある。
「ほら」
光咲さんは勝ち誇ったような顔をした。
「普通の人は来ないんです。来ても続かないんです。だったら、もうここにいる私でいいじゃないですか」
「論理が雑です」
「でも現実的です」
「……」
現実的。
その言葉だけは、少し厄介だった。
「絶対に入れてもらいます」
「絶対に帰ってもらいます」
「私がそんなんで帰る性格じゃないのも、もう分かったでしょう」
「分かってしまったのが問題です」
その時、事務所の固定電話が鳴った。
古いベルの音が、応接室に響く。
俺が立ち上がるより早く、光咲さんが受話器を取った。
「九藤探偵事務所です」
俺は動きを止めた。
勝手に電話に出た。
指摘するべきだ。
だが、彼女の声は思ったより落ち着いていた。
「はい。少々お待ちください。……お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
受話器の向こうから、大きな声が漏れた。
『誰だ?』
「篠宮光咲です」
『嬢ちゃんか?』
「はい。九藤さんは今、少し頭を抱えています」
「余計な情報を伝えないでください」
光咲さんは受話器を押さえた。
「うんこさんです」
「御手洗です」
受話器の向こうから、また声が漏れる。
『俺はうんこじゃねえ!』
「聞こえています」
俺は額を押さえた。
「はい。九藤さんに代わりますか?」
『いや、用件だけ伝えりゃいい。片付いてるなら、明日あたり行っていいかって聞いといてくれ』
「明日ですね。お時間は?」
『昼前くらいでいいか』
「確認します。九藤さん、明日の昼前、山中さんが来たいそうです」
「御手洗です」
「御手洗さんが来たいそうです」
『山中でいい』
「山中さんでいいそうです」
「どちらでもいいので、用件を確認してください」
「ご用件は?」
『こないだ言った、個人的な頼みの件だ。隼人に話したい』
「個人的な頼みの件ですね。承知しました」
『……嬢ちゃん、電話対応まともだな』
「ありがとうございます」
『あいつ一人じゃ、こういうのまともにできねえからな。声は丁寧なのに、言ってることが冷たいんだよ』
「分かります」
「分からないでください」
『嬢ちゃんが出た方が、事務所としてはよさそうだな』
「はい。採用に向けて前向きに調整中です」
「調整していません」
『そうか。よかったな、隼人。助手できて』
「できていません」
『まあ、あいつ面倒だけど頑張れよ、嬢ちゃん』
「はい。もう少し慣れています」
「慣れないでください」
『じゃあ明日な。あと、うんこじゃねえからな』
「はい、うんこさん」
『だから違うって言ってんだろ!』
光咲さんは、丁寧に受話器を置いた。
そして、満足そうにこちらを見る。
「明日、山中さんが来るそうです」
「御手洗です」
「山中さんでいいって言ってました」
「本名は御手洗です」
「電話対応、褒められました」
「それは聞こえていました」
「つまり、役に立つ可能性があります」
俺は黙った。
その言い方は、俺がよく使う。
使われると、少し腹立たしい。
「可能性はあります」
俺は、やむなく言った。
光咲さんの表情が明るくなる。
「では、明日からよろしくお願いします」
「まだ採用していません」
「仮採用ですね」
「違います」
「試用期間ですか」
「違います」
「でも、可能性はありますね」
「言質を取ろうとしないでください」
光咲さんは立ち上がり、勝手に机の端に置いてあったメモ帳を見た。
「まずは、電話対応からですね」
「まずは、帰るところからです」
「でも、明日も来ます」
「来ないでください」
「御手洗さんが来るんですよね。お茶を出す人が必要です」
「俺が出します」
「九藤さんが出すと、たぶん冷たいお茶になります」
「温度の話ですか」
「態度の話です」
「……」
俺は言い返そうとして、やめた。
紅茶は、もう冷めかけている。
本棚の本は、結局開かれていない。
事務所は、さっきまで静かだった。ようやく、俺の好きな時間帯になったと思った。
だが、机の向こうでは、光咲さんが勝手にメモ帳を開いている。
「九藤さん、私の席はどこに作りますか」
「作りません」
「応接室だとお客様が来た時に邪魔ですよね。記録室は入っちゃ駄目そうですし、じゃあ、この机の横ですか」
「作りません」
「小さい机でいいです。椅子はありますか?」
「ありません」
「じゃあ買わないとですね」
「買いません」
「電話の横に用件メモも置いた方がいいですよ」
「もう、帰ってください」
「来客用のお茶の種類も分かりやすくした方がいいです」
「帰ってください」
「助手募集の貼り紙は、剥がさない方がいいと思います」
「今すぐ剥がします」
「剥がしたら、私がまた貼ります」
俺は、そこで完全に頭を抱えた。
否定すれば反論する。
黙れば肯定と受け取る。
そして俺は、もう否定する言葉をいくつか使い果たしていた。
光咲さんは、それを見て小さく笑った。
勝ち誇った笑みだった。
「じゃあ、私の席、明日までに決めておきますね」
「……」
「九藤さん?」
「……」
「無言は、検討中ということで受け取ります」
俺は何も言わなかった。俺の好きな静かな時間帯は、どうやら完全に終わったらしい。
そして、明日の昼前。
御手洗大輔、あるいは山中大輔と呼ぶべき男が、個人的な頼みを持ってやって来る。
その時、光咲さんが事務所にいるのかどうか。答えは、ほとんど分かっていた。
ただし、断定は避ける。
まだ、今は。




