第1話 まだ助手ではありません
翌日の昼前、九藤探偵事務所には、俺以外の気配があった。
篠宮光咲さんである。
彼女は、応接室の隅に置いた小さな机の前で、妙にきちんと背筋を伸ばしていた。
その向かいで、俺はいつもの黒い服に袖を通している。
黒いシャツ。
黒に近い細身の上着。
左手には、外すことのない黒い手袋。
自分で選んでいるというより、余計な色を避けていたらこうなっただけだ。
光咲さんは以前、俺の服装を見て「葬儀帰りみたいですね」と言いかけ、途中で飲み込んだことがある。
言わなかっただけで、思ってはいたのだろう。
体つきも、頼もしいというよりは細い。
健康的な痩せ方ではなく、食事と睡眠を後回しにした人間の線だ。
そのあたりを指摘されるのが面倒で、俺は黒い上着の袖口を直した。
見た目について説明する必要はない。
少なくとも、仕事には関係がない。
そう思っていた。
しかし、目の前の光咲さんは、そういう俺の事務所に、勝手に自分の席を作っていた。
正確には、まだ雇ったわけではない。
雇用契約書も交わしていない。
勤務条件も、給与も、業務範囲も、守秘義務に関する書類も、何一つ決めていない。
それなのに、応接室の隅には小さな机が置かれていた。
昨日までは資料置き場だった場所だ。
今朝来た時には、その上にノート、ペン立て、付箋、卓上カレンダーが並んでいた。
誰が置いたのかは、考えるまでもない。
「光咲さん」
「はい」
「この机は何ですか」
「私の席です」
「俺は許可していません」
「でも、置けました」
「置けたことと、許可されたことは別です」
「そういうところです」
光咲さんは、昨日から何度もそれを言う。
かなり便利な言葉として使っているようだった。
「電話の横に用件メモを置いておきました。あと、来客用のお茶も分かりやすく整理してあります」
「頼んでいません」
「困りましたか?」
「……」
困っていない。
そこが問題だった。
電話の横にあるメモは、確かに使いやすそうだった。
来客用のお茶も、以前より分かりやすい。
事務所としては改善されている。
だから余計に困る。
そのあたりをどう訂正するか考えていると、事務所の扉が開いた。
「よお」
御手洗大輔が入ってきた。
大柄な体で、入口の印象が急に狭くなる。
黒っぽい上着に丈夫そうなパンツ。
私服ではあるが、妙に警察官らしい立ち方をしていた。
「御手洗」
「その名前で呼ぶなって言ってんだろ」
「では、山中」
「……それでいい」
本人の中で、もう諦めがついたらしい。
光咲さんが立ち上がった。
「いらっしゃいませ、山中さん。お茶をお持ちします」
「お、ありがとな」
光咲さんは事務所奥の小さな給湯スペースへ向かった。
昨日までこの事務所の人間ではなかったはずなのに、すでにかなり馴染んでいる。
御手洗はそれを見て、にやりと笑った。
「本当に助手になってんじゃねえか」
「なっていません」
「席まであるぞ」
「勝手に置かれました」
「使いやすそうだな」
「それは否定しません」
「認めてんじゃねえか」
俺は答えなかった。
光咲さんがお茶を運んできた。
湯呑みを御手洗の前に置き、俺の前にも置く。
「どうぞ」
「おお」
御手洗は一口飲み、妙に感心した顔をした。
「うまいな」
「本当ですか」
「ちゃんと熱いし、濃すぎないし、渋くもない。すげえな」
光咲さんの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「前にこいつが出した茶なんか、ぬるいのに渋かったからな」
「それは温度と抽出時間の問題です」
「問題が分かってて直してなかったのかよ」
御手洗は呆れた顔で俺を見た。
光咲さんも俺を見る。
「九藤さん。お茶を出しただけでここまで褒められるということは、今まで相当ひどかったんですね」
「比較対象が少ないため、断定は避けます」
「いや、断定していいぞ。酷かった」
「山中さんが断定しました」
「御手洗です」
「山中でいいって言ったじゃないですか」
「俺はもう、どこで何を諦めればいいのか分からなくなってきた」
御手洗はそう言って、持っていた紙袋を光咲さんへ差し出した。
「ほら」
「何ですか?」
「就職祝い」
「就職祝い!」
光咲さんの目が輝いた。
「受け取らないでください。就職していません」
「でも、せっかくですし」
「せっかくでも、事実と違う贈答品を受け取るのは」
「九藤さん。いただいていいですか?」
「俺に確認する前に受け取る気でしたね」
「はい」
「正直ですね」
「ありがとうございます!」
光咲さんは紙袋を受け取った。
中には、シンプルなボールペンが入っていた。
安物ではないが、高すぎるものでもない。
実務で使うにはちょうどいい。
「わ、ちゃんとしてる」
「助手っぽいだろ」
「すごく助手っぽいです。ありがとうございます」
「だから助手ではありません」
「就職祝いもらいました」
「受け取ったことと、就職したことは別です」
「九藤さん、その台詞、昨日から何回も聞いてます」
「言わされているんです」
光咲さんは嬉しそうにボールペンを胸元に抱えた。
それを見て、御手洗が少しだけ目を細める。彼なりに、前の依頼で沈んだ空気を気にしているのだろう。
不器用だが、こういう気遣いはできる男だ。
「で?」
御手洗は湯呑みを置いた。
「前の件は、終わったのか?」
応接室の空気が、少しだけ変わった。
光咲さんも表情を戻す。
「一応、報告書の作成段階です」
「犯人も分かってんだろ?」
「詳細は話せません」
「相変わらずだな」
「守秘義務があります」
「分かってるよ」
御手洗は苦く笑った。
「けど、顔見りゃ分かる。軽い話じゃなかったんだろ」
「軽い話ではありませんでした」
俺はそれだけ答えた。
御手洗はそれ以上聞かなかった。
警察官として聞きたいことはあるはずだ。
けれど、依頼人がいて、守秘義務がある。
その線は彼も理解している。
「じゃあ、俺の話に移ってもいいか」
御手洗が言った。
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
就職祝いだの、茶がうまいだの、山中と呼べだの。
そういう軽い話をしに来ただけではない。
それくらいは、顔を見れば分かる。
「個人的な頼み、でしたね」
「ああ」
御手洗は、持ってきた封筒を膝の上で軽く叩いた。
古い茶封筒だった。
角は少し潰れている。
中には、何か紙の束が入っているように見えた。
光咲さんも、その封筒を見ていた。
さっきまで嬉しそうに抱えていたボールペンを、そっと机に置いている。
空気が変わったことに気づいたのだろう。
「その前に」
俺は言った。
「光咲さんは席を外してください」
「え」
光咲さんが目を丸くした。
「どうしてですか」
「正式採用前だからです」
「でも、仮助手になる予定では」
「予定ではありません。あなたが勝手に言っているだけです」
「机もあります」
「勝手に置いた机です」
「お茶も出しました」
「勝手に出したお茶です」
「就職祝いもいただきました」
「勝手に受け取った就職祝いです」
御手洗が湯呑みを持ったまま、肩を揺らして笑った。
「お前、そこまで来たらもう雇ってるのと変わらねえだろ」
「変わります」
「変わらねえよ。机があって、茶を出して、電話対応もする気で、メモも取ってる。しかも本人がやる気だ。どうせ雇うんだろ」
「どうせ、という言い方は雑です」
「じゃあ、どうすんだよ。俺の話をするたびに嬢ちゃんを廊下に出すのか」
「必要ならそうします」
「それ、かえって怪しいだろ」
御手洗は封筒を指で叩いた。
「俺は別に、嬢ちゃんに聞かれて困る話を持ってきたわけじゃねえ。むしろ、資料整理できる人間がいた方が助かる」
「依頼人がそう言っても、事務所側の守秘義務は別問題です」
「だから書かせりゃいいだろ。守秘義務の紙とか、そういうの」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃねえのか?」
「簡単ではありません」
「でも、用意してあるんだろ」
俺は黙った。
御手洗がにやりと笑う。
「あるんだな」
「……」
「ほら見ろ。どうせ雇うつもりだったんじゃねえか」
「違います。必要になった場合に備えていただけです」
「それを世間では、だいたい雇う気があるって言うんだよ」
光咲さんが、俺を見る。
期待した目だった。
非常に面倒な目だった。
「九藤さん」
「はい」
「私は、聞いてはいけませんか」
その言い方は、さっきまでより少しだけ静かだった。
ただ聞きたいだけではない。
関わるなら、ちゃんと立場を持ちたい。
そういう顔だった。
「まだ正式採用ではありません」
「はい」
「仮採用も、俺はまだ認めていません」
「はい」
「給与、勤務時間、業務範囲、守秘義務。何一つ確定していない人に、依頼内容を聞かせるわけにはいきません」
「はい」
「ですから、席を外してください」
光咲さんの顔が、分かりやすく沈んだ。
だが、反論はしなかった。
それが余計に面倒だった。
「仕方ねえな」
御手洗が言った。
「何がですか」
「外堀を埋める」
「やめてください」
俺が止める前に、御手洗はスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、どこかへ電話をかける。
「誰にかけているんですか」
「早波さん」
「切ってください」
「もう呼び出してる」
「切ってください」
「嫌だね」
数回の呼び出し音のあと、電話がつながった。
「あ、早波さん? 大輔です。はい、御手洗の方です。いや、山中でもいいですけど」
光咲さんが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。
御手洗は俺を見ながら、わざとらしく続ける。
「隼人がですね、気の利く女の子を雇うかどうかで、まだぐだぐだ言ってまして」
「御手洗」
「しかも席はある。茶も出してる。メモも取ってる。本人もやる気。なのに、正式採用前だから依頼を聞かせられないとか言い始めまして」
「事実です」
「だから早波さんから、ちょっと言ってやってもらえませんか」
御手洗は、にやりと笑ってスマートフォンを俺へ差し出した。
「代われってさ」
「代わりません」
「隼人君に代わって、だそうだ」
「……」
俺はしばらくスマートフォンを見た。
出なければ、あとで別の形で連絡が来る。
たぶん、もっと面倒な形で来る。
俺は仕方なくスマートフォンを受け取った。
「……はい、九藤です」
『隼人君』
電話の向こうから、早波さんの声がした。
落ち着いた声だった。
落ち着いている時ほど、逆らいづらい声でもある。
『大輔君から聞いたけど、事務所に手伝ってくれる人が来たの?』
「まだ手伝ってもらうと決めたわけではありません」
『机はあるのよね』
「勝手に置かれました」
『お茶も出してくれるのよね』
「勝手に出しています」
『電話対応もできそうなのよね』
「それは可能性の話です」
『隼人君』
「はい」
『あなた、一人で全部抱え込む癖があるでしょう』
「業務上必要な範囲で処理しています」
『そういうところよ』
光咲さんが、小さく「そういうところです」と口の形だけで言った。
俺は見なかったことにした。
『その子が本当に危ない子なら別だけど、大輔君が見ていて、あなたも追い出していないなら、少なくとも事務所に置ける人なんでしょう』
「判断材料が不足しています」
『判断材料を集めるためにも、試用期間を設ければいいじゃない』
「簡単に言いますね」
『簡単ではないから、契約書を作るのよ』
「……」
『正式採用が嫌なら、まずは試用期間付きの雇用契約。守秘義務も明記。業務範囲も限定。危険な調査には同行させない。哭響機には触らせない。そう書けばいいでしょう』
「それは、こちらでも考えていました」
『考えていただけでは、相手には伝わらないわ』
「……はい」
『隼人君』
「はい」
『その子を雇いなさい。少なくとも、試用期間として』
命令だった。
柔らかい口調だった。
だが、完全に命令だった。
「……分かりました」
『よろしい』
早波さんは、満足そうに言った。
『それから、大輔君』
「はい」
御手洗が背筋を伸ばした。
『あなたも、隼人君をからかいすぎないこと』
「はい、すみません」
『でも、今回はよく電話してくれました』
「ありがとうございます」
『光咲さん、だったかしら。電話の近くにいる?』
光咲さんが慌てて姿勢を正した。
俺はスマートフォンを光咲さんへ差し出す。
「早波さんが、光咲さんに」
「え、私ですか」
光咲さんは両手でスマートフォンを受け取った。
「はい、篠宮光咲です」
応接室に、少し緊張した沈黙が落ちた。
光咲さんは、何度か小さく頷いている。
「はい。……はい。まだ分からないことばかりですが、きちんと覚えます。……はい。九藤さんに迷惑をかけないようにします」
そこで、光咲さんが一瞬こちらを見た。
「……いえ、もうかけているかもしれません」
「そこは否定してください」
御手洗が笑った。
光咲さんも少しだけ笑い、すぐに真面目な顔へ戻る。
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」
光咲さんはスマートフォンを俺へ返した。
俺が受け取る前に、早波さんの声が少しだけ聞こえた。
『隼人君、ちゃんとしなさいね』
「……はい」
通話は切れた。
御手洗が湯呑みを持ち上げる。
「決まりだな」
「外堀を埋められました」
「埋めたんじゃねえ。整地したんだ」
「同じです」
「いや、親切だ」
「違います」
俺は引き出しを開けた。
試用期間付き雇用契約書。
守秘義務確認書。
現地同行に関する誓約書。
できれば使いたくなかった書類を、机の上に置く。
「不本意ですが、試用期間付きで雇用契約を結びます」
光咲さんの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当にいいんですか」
「よくはありません」
「でも、契約するんですよね」
「試用期間です」
「はい!」
「業務範囲は限定します。危険な調査には同行させません。哭響機には触らせません。守秘義務違反があれば即終了です」
「分かりました」
「勤務条件、給与、時間についても書面で確認します」
「はい」
「喜ぶ場面ではありません」
「喜んでいません」
「顔が喜んでいます」
「少しだけです」
御手洗が笑った。
「よかったな、嬢ちゃん。これで現地に行けるな」
「はい!」
「まだ現地に行くとは決めていません」
「でも、行ける可能性はありますよね」
「可能性はあります」
「じゃあ、前進です」
「そういう解釈をしないでください」
「します」
光咲さんは、さっそく新しいボールペンを構えた。
俺は机の上の書類を整える。
応接室の隅には、昨日まで資料置き場だった小さな机がある。
今朝から、そこは勝手に光咲さんの席になっていた。
正式に決めたわけではない。
認めたわけでもない。
けれど、そこに席があることだけは、もう否定できなかった。
御手洗は、膝の上の封筒を静かに押さえている。
その中身を聞くのは、書類が済んでからだ。
どうやら、面倒な一日になりそうだった。
ただし。
それについても、まだ断定は避ける。




