第7話 間違いないです
九藤探偵事務所の応接机には、三つの湯呑みが置かれていた。
一つは、篠宮文子さんの前。
一つは、篠宮光咲さんの前。
そして一つは、俺の前。
湯気は、もうほとんど立っていない。
誰も、すぐには手をつけなかった。
昨日、藤澤から東京へ戻ったあと、俺は残響写真データを整理した。候補フォルダーに保存された二十七枚の写真。
そのうち、篠宮美咲さんと思われるものが複数枚。
別件と見られる強い残響写真が十二枚。
赤い電話。
路地。
少女の影。
黒い影。
まだ断定できるものは少ない。
ただ、予備調査としては十分だった。
ここから先は、正式な契約が必要になる。
依頼人本人の同意が必要になる。そして、費用と覚悟を、もう一度確認しなければならない。
「文子さん」
俺は静かに言った。
「今日は、予備調査の結果について説明します」
文子さんは、小さく頷いた。
昨日よりも、少し顔色が悪いように見えた。おそらく、光咲さんから電話を受けたあと、ほとんど眠れていないのだろう。
ただし、そう断定はしない。俺に分かるのは、顔色が悪く見える、という事実だけだ。
「はい」
文子さんは、両手を膝の上で揃えていた。
「お願いします」
隣に座る光咲さんは、いつもより口数が少なかった。昨日、別件の残響写真を一枚見た影響だろう。
あれ以来、彼女は不用意に「見せてください」とは言わなくなった。
それが良い変化なのかは分からない。
必要な変化だった、とは思う。
「まず、最初にお伝えしておきます」
俺は端末を机の上に置いた。
「今回の予備調査で、いくつか重要な反応が確認されました」
文子さんの指が、わずかに動いた。
「美咲の……?」
「その可能性が高い写真があります」
俺は言った。
「ただし、まだ断定はしません」
文子さんは、すぐには返事をしなかった。
光咲さんが、小さく俺を見た。
たぶん、またその言い方なのか、と思ったのだろう。けれど、今日は何も言わなかった。
「確認していただきたい写真があります」
俺は端末を操作した。
候補フォルダーの中から、一枚だけ選ぶ。
赤い電話の前に立つ少女の影。
顔は鮮明ではない。
輪郭も崩れている。
けれど、制服の白い襟、髪の長さ、肩の線は、預かった写真とよく似ていた。
画像の端には、叫びのような乱れがある。
そこに音はない。
だが、静かな写真ではなかった。
これ以上先の写真は、まだ見せない。
路地へ向かう影も。
黒い影も。
別件の残響も。
今ここで文子さんへ見せるべきではない。
俺は端末を文子さんの方へ向けた。
「この写真です」
文子さんは、画面を見た。
時間が止まったようだった。
光咲さんも、画面を覗き込むことはしなかった。ただ、祖母の横顔を見ている。
文子さんは、しばらく何も言わなかった。
瞬きも少なかった。
画面の中の少女は、粗く、ぼやけている。普通なら、本人確認できるほど鮮明な写真ではない。
だが、家族には分かることがある。
俺は、それを知っている。
やがて、文子さんの唇が震えた。
「……美咲です」
声は、ほとんど息だった。
「間違いないです」
光咲さんが、息を呑んだ。
俺はすぐに頷かない。
確認のために言う。
「この写真は、画質が不鮮明です。顔もはっきりとは確認できません」
「でも、美咲です」
文子さんは、画面から目を離さなかった。
「この立ち方も、髪の感じも……制服の襟も。美咲です」
俺は短く息を吸った。
「分かりました」
記録する。
依頼人であり母親である篠宮文子が、当該残響写真の人物を篠宮美咲と確認。
ただし、客観的同一性は未確定。
九藤隼人の判断としては、篠宮美咲本人である可能性が高い。
そういう記録になる。
「これは……どこで撮れたんですか?」
文子さんが聞いた。
予想していた質問だった。
俺は端末を伏せた。
「場所については説明します。ただ、その前に本契約の話をさせてください」
文子さんの目が、俺を見る。
「本契約……」
「はい。ここまでが予備調査です」
俺は書類を出した。初回に見せたものより、さらに具体的な本調査用の確認書だった。
「赤い電話の位置は、おおよそ確認できました。美咲さんと思われる残響写真も確認しました。さらに、その先に強い反応が出ています」
「その先……?」
「路地です」
文子さんの顔色が、少し変わった。
光咲さんの手も、膝の上で動いた。
「ただし、ここから先は携帯型ではなく、据え置き型哭響機を使う必要があります」
「据え置き型……」
「安定した映像と音声を記録するための機械です。携帯型で拾えるのは、断片的な写真と反応だけです。本観測を行えば、よりはっきりした映像が残る可能性があります」
文子さんは黙っていた。
「ですが」
俺は続けた。
「見えるものが、優しいものとは限りません」
文子さんの肩が、わずかに落ちた。
それでも目は逸らさない。
「美咲さんが赤い電話にいた可能性は高いです。そこから路地へ向かった可能性もあります。ただし、何が起きたのかはまだ分かりません」
「……はい」
「本観測を行えば、文子さんが望まないものまで記録される可能性があります」
文子さんは、小さく息を吸った。
「それでも、私は知りたいです」
その答えは早かった。
けれど、俺はすぐには書類を渡さなかった。
「もう一つ、費用について説明します」
文子さんの手が、膝の上で少し強く重なった。
光咲さんも顔を上げる。
金の話は、いつも言いづらい。
けれど、言わない方がずっと悪い。
「本契約をしない場合、調査はここで終了です」
俺は見積書を出した。
「その場合でも、ここまでの予備調査にかかった費用は請求します」
「ここまでの……」
「はい。藤澤での現地調査費、交通費、宿泊費、資料整理費、携帯型哭響機による予備観測費です。見積書に記載した範囲の実費と調査費になります」
文子さんは、見積書を見下ろした。
「本契約をしない場合、請求はここまでです。これ以上の調査は行いません」
「……はい」
「本契約をする場合は、追加費用が発生します」
俺は別紙を文子さんの前へ置いた。
「据え置き型哭響機の運搬と設置。現地での本観測。映像と音声の記録整理。必要に応じた複数回観測。報告書作成。今回の場合、最低でも二十八万円。観測が一度で済まない場合や、追加調査が必要になった場合は、三十五万円を超える可能性があります」
光咲さんが息を呑んだ。
文子さんは、黙って聞いていた。
「安い金額ではありません」
俺は言った。
「だから、ここでやめることもできます」
「やめる……」
「はい。予備調査で、美咲さんと思われる写真は確認できました。赤い電話の位置も、おおよそ絞れています。ここまでの報告書だけを受け取って終えることもできます」
文子さんは、ゆっくり顔を上げた。
「その場合、私は……美咲がその先でどうなったのかは、知らないままですか」
「はい」
俺は答えた。
「ここで止めれば、そうなります」
文子さんは、伏せられた端末を見た。
画面はもう見えない。それでも、そこに美咲さんらしき影が保存されていることは、分かっている。
「本観測に進めば、より詳しい映像と音声が記録できる可能性があります。ただし、見えるものが優しいとは限りません。費用もかかります。精神的な負担も大きくなります」
文子さんは、膝の上で手を握った。
「もう一度、確認します」
俺は言った。
「ここで止めても構いません。その場合、ここまでの実費と予備調査費のみいただきます。先へ進むなら、本契約として追加費用が発生します」
部屋が静かになった。
光咲さんは、何か言いかけて、飲み込んだ。これは、彼女が決めることではない。
文子さんが決めることだ。
やがて、文子さんは小さく息を吐いた。
「お願いします」
声は小さかった。
けれど、迷いはなかった。
「ここまで来て、やめることはできません」
俺はすぐには頷かなかった。
「費用の説明は理解されましたか」
「はい」
「映像を見るかどうかは、あとで選べます」
「はい」
「本観測で何も追加情報が得られない可能性もあります」
「はい、お願いします。」
「それでも、進みますか」
文子さんは、まっすぐ俺を見た。
「進みます」
俺は、そこで初めて本契約書を文子さんの前へ差し出した。
「本契約書です」
文子さんは書類を見下ろした。
最初に予備調査の確認書を書いた時と同じように、手は震えていた。けれど、ペンを取るまでの動きに迷いはなかった。
篠宮文子。
その名前が、本契約書に記された。
俺は書類を受け取り、内容を確認する。
名前。
住所。
連絡先。
同意欄。
調査範囲。
観測結果の扱い。
映像閲覧の選択。
費用確認欄。
すべて確認する。
「お預かりします」
俺は書類をクリアファイルに入れた。
文子さんは、まだ伏せた端末を見ていた。
「九藤さん」
「はい」
「あの子は、電話をかけようとしていたんですか」
俺は少しだけ間を置いた。
「その可能性があります」
「誰に」
「まだ分かりません」
「その人が……美咲を」
「まだ分かりません」
文子さんは、目を閉じた。
「そうですね」
「見ていないことは、報告できません」
「……はい」
光咲さんが、小さく俺を見た。
以前なら、硬い言い方だと思ったかもしれない。
今は、少し違う目だった。
「本観測は、明日の早朝に行います」
俺は言った。
「早朝ですか」
「人通りが少ない時間帯の方が、設置しやすい。周囲への迷惑も少なく済みます」
「現地集合ですか」
「いいえ。こちらから車で向かいます。機材がありますので」
光咲さんが小さく頷いた。
「分かりました」
そして、すぐに言った。
「私も行きますからね」
「篠宮さん」
「言われると思いました」
「分かっているなら、先に言わないでください」
「でも言わないと、九藤さんは置いていきそうなので」
「安全面と調査の正確性を考えれば、同行者は少ない方がいいです」
「でも、祖母を一人で待たせるわけにはいきません」
光咲さんは、文子さんを見た。
文子さんは何も言わなかった。けれど、その手は、光咲さんの手に少し触れていた。
「文子さん」
俺は文子さんへ向き直る。
「明日の本観測では、現地で映像を確認する予定はありません。記録だけを取り、事務所に戻ってから整理します」
「その場では、見ないんですか」
「はい。機材の撤収や周囲への注意が必要です。現地で内容を確認して動揺すれば、作業に支障が出ます」
文子さんは、静かに頷いた。
「それなら、私は……行かない方がいいんですね」
「その方がいいと思います」
俺は答えた。
「文子さんには、記録の有無を確認したあと、改めて事務所で説明します。見るかどうかも、その時に選べます」
文子さんは少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
それから、隣の光咲さんを見た。
「光咲」
「うん」
「お願いします」
光咲さんは、祖母の手に自分の手を重ねた。
「行ってくる」
俺は少しだけ息を吐いた。
これで、同行者は一人に絞られた。
理想的とは言えない。
だが、文子さんを一人で待たせないために、光咲さんが現地へ行くという理屈は通る。
「分かりました」
俺は言った。
「ただし、本観測の場では、俺の指示に従ってください。勝手に動かない。勝手に機材に触れない。記録中に話しかけない。途中で気分が悪くなった場合は、すぐに申告してください」
「分かりました」
光咲さんは頷いた。
「文子さんもです」
「はい」
「映像を見る時は、途中でやめることもできます。ここまで来たから最後まで見なければいけない、ということはありません」
文子さんは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
その日の契約は、静かに終わった。
赤い電話の前にいた少女。
路地へ続く残響。
まだ名前のついていない黒い影。
明日、俺たちはそこへ戻る。
証拠にはならない真実を、記録するために。そう思って書類を片づけていると、文子さんがふと顔を上げた。
「九藤さん」
「はい」
「うちの光咲は、役に立っていますか」
「おばあちゃん」
光咲さんが、少し慌てた声を出した。
俺は手元の書類を揃えながら、少し考えた。役に立っているか?その問いには、正確に答える必要がある。
「役に立っていない、とは言えません」
「九藤さん」
光咲さんが、低い声で言った。
「そこはもう少し言い方ありませんか」
「聞き込みでは、俺より相手の警戒を解く場面がありました。文子さんへの連絡も適切でした。現地での現在写真の記録も、指示通り行われています」
「なら、役に立ってるってことでいいじゃないですか」
「ただし」
「ただし?」
「勝手に同行を決める。推測で怪しいと言う。人の話を聞かずに進もうとする。御手洗をうんこさんと呼ぶ。総合すると、色々と面倒な女性です」
光咲さんが目を丸くした。
文子さんも、少しだけ瞬きをした。
「……九藤さん」
「はい」
「それ、あなたが言います?」
「どういう意味ですか」
「あなたの方が、ずっと面倒だと思います」
光咲さんが即答した。
文子さんが、口元に手を添えた。
「そうですねえ」
「文子さん?」
「九藤さんも、とても丁寧でありがたいんですけど」
「はい」
「少し、面倒な方ですね」
俺は返答に迷った。
丁寧。
ありがたい。
面倒。
三つの評価が同じ文脈に並んでいる。
整理に時間がかかる。
「……面倒、ですか」
「はい」
光咲さんが頷いた。
「お腹空きませんかって聞いたら、私の空腹を推測する根拠はありませんって返す人ですよ」
「それは質問の形式に問題が」
「今もそういうところです」
「……」
言い返そうとしたが、文子さんが小さく笑った。
光咲さんも、それにつられるように笑う。
重かった事務所の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
文子さんの笑い声は、弱く、短かった。
それでも、確かに笑っていた。
俺は、揃えた書類の端を指で押さえたまま、何も言わなかった。
言葉を選んでいるうちに、返す機会を失ってしまったからだ。
たぶん。
明日、俺たちは藤澤へ戻る。
証拠にはならない真実を、記録するために。




