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証拠にならない真実を、報告します 〜九藤探偵事務所の真相報告書〜  作者: 九藤隼人
第1章 三十二年前の赤い電話
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第7話 間違いないです

 九藤探偵事務所の応接机には、三つの湯呑みが置かれていた。


 一つは、篠宮文子さんの前。


 一つは、篠宮光咲さんの前。


 そして一つは、俺の前。


 湯気は、もうほとんど立っていない。


 誰も、すぐには手をつけなかった。


 昨日、藤澤から東京へ戻ったあと、俺は残響写真データを整理した。候補フォルダーに保存された二十七枚の写真。


 そのうち、篠宮美咲さんと思われるものが複数枚。


 別件と見られる強い残響写真が十二枚。


 赤い電話。

 路地。

 少女の影。

 黒い影。


 まだ断定できるものは少ない。

 ただ、予備調査としては十分だった。


 ここから先は、正式な契約が必要になる。


 依頼人本人の同意が必要になる。そして、費用と覚悟を、もう一度確認しなければならない。


「文子さん」


 俺は静かに言った。


「今日は、予備調査の結果について説明します」


 文子さんは、小さく頷いた。


 昨日よりも、少し顔色が悪いように見えた。おそらく、光咲さんから電話を受けたあと、ほとんど眠れていないのだろう。


 ただし、そう断定はしない。俺に分かるのは、顔色が悪く見える、という事実だけだ。


「はい」


 文子さんは、両手を膝の上で揃えていた。


「お願いします」


 隣に座る光咲さんは、いつもより口数が少なかった。昨日、別件の残響写真を一枚見た影響だろう。


 あれ以来、彼女は不用意に「見せてください」とは言わなくなった。


 それが良い変化なのかは分からない。

 必要な変化だった、とは思う。


「まず、最初にお伝えしておきます」


 俺は端末を机の上に置いた。


「今回の予備調査で、いくつか重要な反応が確認されました」


 文子さんの指が、わずかに動いた。


「美咲の……?」


「その可能性が高い写真があります」


 俺は言った。


「ただし、まだ断定はしません」


 文子さんは、すぐには返事をしなかった。


 光咲さんが、小さく俺を見た。


 たぶん、またその言い方なのか、と思ったのだろう。けれど、今日は何も言わなかった。


「確認していただきたい写真があります」


 俺は端末を操作した。

 候補フォルダーの中から、一枚だけ選ぶ。


 赤い電話の前に立つ少女の影。


 顔は鮮明ではない。

 輪郭も崩れている。


 けれど、制服の白い襟、髪の長さ、肩の線は、預かった写真とよく似ていた。


 画像の端には、叫びのような乱れがある。


 そこに音はない。


 だが、静かな写真ではなかった。


 これ以上先の写真は、まだ見せない。


 路地へ向かう影も。

 黒い影も。

 別件の残響も。


 今ここで文子さんへ見せるべきではない。


 俺は端末を文子さんの方へ向けた。


「この写真です」


 文子さんは、画面を見た。

 時間が止まったようだった。


 光咲さんも、画面を覗き込むことはしなかった。ただ、祖母の横顔を見ている。


 文子さんは、しばらく何も言わなかった。


 瞬きも少なかった。


 画面の中の少女は、粗く、ぼやけている。普通なら、本人確認できるほど鮮明な写真ではない。


 だが、家族には分かることがある。


 俺は、それを知っている。


 やがて、文子さんの唇が震えた。


「……美咲です」


 声は、ほとんど息だった。


「間違いないです」


 光咲さんが、息を呑んだ。


 俺はすぐに頷かない。


 確認のために言う。


「この写真は、画質が不鮮明です。顔もはっきりとは確認できません」


「でも、美咲です」


 文子さんは、画面から目を離さなかった。


「この立ち方も、髪の感じも……制服の襟も。美咲です」


 俺は短く息を吸った。


「分かりました」


 記録する。


 依頼人であり母親である篠宮文子が、当該残響写真の人物を篠宮美咲と確認。


 ただし、客観的同一性は未確定。


 九藤隼人の判断としては、篠宮美咲本人である可能性が高い。


 そういう記録になる。


「これは……どこで撮れたんですか?」


 文子さんが聞いた。


 予想していた質問だった。


 俺は端末を伏せた。


「場所については説明します。ただ、その前に本契約の話をさせてください」


 文子さんの目が、俺を見る。


「本契約……」


「はい。ここまでが予備調査です」


 俺は書類を出した。初回に見せたものより、さらに具体的な本調査用の確認書だった。


「赤い電話の位置は、おおよそ確認できました。美咲さんと思われる残響写真も確認しました。さらに、その先に強い反応が出ています」


「その先……?」


「路地です」


 文子さんの顔色が、少し変わった。


 光咲さんの手も、膝の上で動いた。


「ただし、ここから先は携帯型ではなく、据え置き型哭響機を使う必要があります」


「据え置き型……」


「安定した映像と音声を記録するための機械です。携帯型で拾えるのは、断片的な写真と反応だけです。本観測を行えば、よりはっきりした映像が残る可能性があります」


 文子さんは黙っていた。


「ですが」


 俺は続けた。


「見えるものが、優しいものとは限りません」


 文子さんの肩が、わずかに落ちた。


 それでも目は逸らさない。


「美咲さんが赤い電話にいた可能性は高いです。そこから路地へ向かった可能性もあります。ただし、何が起きたのかはまだ分かりません」


「……はい」


「本観測を行えば、文子さんが望まないものまで記録される可能性があります」


 文子さんは、小さく息を吸った。


「それでも、私は知りたいです」


 その答えは早かった。


 けれど、俺はすぐには書類を渡さなかった。


「もう一つ、費用について説明します」


 文子さんの手が、膝の上で少し強く重なった。


 光咲さんも顔を上げる。


 金の話は、いつも言いづらい。

 けれど、言わない方がずっと悪い。


「本契約をしない場合、調査はここで終了です」


 俺は見積書を出した。


「その場合でも、ここまでの予備調査にかかった費用は請求します」


「ここまでの……」


「はい。藤澤での現地調査費、交通費、宿泊費、資料整理費、携帯型哭響機による予備観測費です。見積書に記載した範囲の実費と調査費になります」


 文子さんは、見積書を見下ろした。


「本契約をしない場合、請求はここまでです。これ以上の調査は行いません」


「……はい」


「本契約をする場合は、追加費用が発生します」


 俺は別紙を文子さんの前へ置いた。


「据え置き型哭響機の運搬と設置。現地での本観測。映像と音声の記録整理。必要に応じた複数回観測。報告書作成。今回の場合、最低でも二十八万円。観測が一度で済まない場合や、追加調査が必要になった場合は、三十五万円を超える可能性があります」


 光咲さんが息を呑んだ。


 文子さんは、黙って聞いていた。


「安い金額ではありません」


 俺は言った。


「だから、ここでやめることもできます」


「やめる……」


「はい。予備調査で、美咲さんと思われる写真は確認できました。赤い電話の位置も、おおよそ絞れています。ここまでの報告書だけを受け取って終えることもできます」


 文子さんは、ゆっくり顔を上げた。


「その場合、私は……美咲がその先でどうなったのかは、知らないままですか」


「はい」


 俺は答えた。


「ここで止めれば、そうなります」


 文子さんは、伏せられた端末を見た。


 画面はもう見えない。それでも、そこに美咲さんらしき影が保存されていることは、分かっている。


「本観測に進めば、より詳しい映像と音声が記録できる可能性があります。ただし、見えるものが優しいとは限りません。費用もかかります。精神的な負担も大きくなります」


 文子さんは、膝の上で手を握った。


「もう一度、確認します」


 俺は言った。


「ここで止めても構いません。その場合、ここまでの実費と予備調査費のみいただきます。先へ進むなら、本契約として追加費用が発生します」


 部屋が静かになった。


 光咲さんは、何か言いかけて、飲み込んだ。これは、彼女が決めることではない。


 文子さんが決めることだ。


 やがて、文子さんは小さく息を吐いた。


「お願いします」


 声は小さかった。

 けれど、迷いはなかった。


「ここまで来て、やめることはできません」


 俺はすぐには頷かなかった。


「費用の説明は理解されましたか」


「はい」


「映像を見るかどうかは、あとで選べます」


「はい」


「本観測で何も追加情報が得られない可能性もあります」


「はい、お願いします。」


「それでも、進みますか」


 文子さんは、まっすぐ俺を見た。


「進みます」


 俺は、そこで初めて本契約書を文子さんの前へ差し出した。


「本契約書です」


 文子さんは書類を見下ろした。


 最初に予備調査の確認書を書いた時と同じように、手は震えていた。けれど、ペンを取るまでの動きに迷いはなかった。


 篠宮文子。


 その名前が、本契約書に記された。


 俺は書類を受け取り、内容を確認する。


 名前。

 住所。

 連絡先。


 同意欄。

 調査範囲。

 観測結果の扱い。


 映像閲覧の選択。

 費用確認欄。


 すべて確認する。


「お預かりします」


 俺は書類をクリアファイルに入れた。


 文子さんは、まだ伏せた端末を見ていた。


「九藤さん」


「はい」


「あの子は、電話をかけようとしていたんですか」


 俺は少しだけ間を置いた。


「その可能性があります」


「誰に」


「まだ分かりません」


「その人が……美咲を」


「まだ分かりません」


 文子さんは、目を閉じた。


「そうですね」


「見ていないことは、報告できません」


「……はい」


 光咲さんが、小さく俺を見た。


 以前なら、硬い言い方だと思ったかもしれない。


 今は、少し違う目だった。


「本観測は、明日の早朝に行います」


 俺は言った。


「早朝ですか」


「人通りが少ない時間帯の方が、設置しやすい。周囲への迷惑も少なく済みます」


「現地集合ですか」


「いいえ。こちらから車で向かいます。機材がありますので」


 光咲さんが小さく頷いた。


「分かりました」


 そして、すぐに言った。


「私も行きますからね」


「篠宮さん」


「言われると思いました」


「分かっているなら、先に言わないでください」


「でも言わないと、九藤さんは置いていきそうなので」


「安全面と調査の正確性を考えれば、同行者は少ない方がいいです」


「でも、祖母を一人で待たせるわけにはいきません」


 光咲さんは、文子さんを見た。


 文子さんは何も言わなかった。けれど、その手は、光咲さんの手に少し触れていた。


「文子さん」


 俺は文子さんへ向き直る。


「明日の本観測では、現地で映像を確認する予定はありません。記録だけを取り、事務所に戻ってから整理します」


「その場では、見ないんですか」


「はい。機材の撤収や周囲への注意が必要です。現地で内容を確認して動揺すれば、作業に支障が出ます」


 文子さんは、静かに頷いた。


「それなら、私は……行かない方がいいんですね」


「その方がいいと思います」


 俺は答えた。


「文子さんには、記録の有無を確認したあと、改めて事務所で説明します。見るかどうかも、その時に選べます」


 文子さんは少しだけ目を伏せた。


「分かりました」


 それから、隣の光咲さんを見た。


「光咲」


「うん」


「お願いします」


 光咲さんは、祖母の手に自分の手を重ねた。


「行ってくる」


 俺は少しだけ息を吐いた。


 これで、同行者は一人に絞られた。


 理想的とは言えない。


 だが、文子さんを一人で待たせないために、光咲さんが現地へ行くという理屈は通る。


「分かりました」


 俺は言った。


「ただし、本観測の場では、俺の指示に従ってください。勝手に動かない。勝手に機材に触れない。記録中に話しかけない。途中で気分が悪くなった場合は、すぐに申告してください」


「分かりました」


 光咲さんは頷いた。


「文子さんもです」


「はい」


「映像を見る時は、途中でやめることもできます。ここまで来たから最後まで見なければいけない、ということはありません」


 文子さんは、少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 その日の契約は、静かに終わった。


 赤い電話の前にいた少女。

 路地へ続く残響。

 まだ名前のついていない黒い影。


 明日、俺たちはそこへ戻る。


 証拠にはならない真実を、記録するために。そう思って書類を片づけていると、文子さんがふと顔を上げた。


「九藤さん」


「はい」


「うちの光咲は、役に立っていますか」


「おばあちゃん」


 光咲さんが、少し慌てた声を出した。


 俺は手元の書類を揃えながら、少し考えた。役に立っているか?その問いには、正確に答える必要がある。


「役に立っていない、とは言えません」


「九藤さん」


 光咲さんが、低い声で言った。


「そこはもう少し言い方ありませんか」


「聞き込みでは、俺より相手の警戒を解く場面がありました。文子さんへの連絡も適切でした。現地での現在写真の記録も、指示通り行われています」


「なら、役に立ってるってことでいいじゃないですか」


「ただし」


「ただし?」


「勝手に同行を決める。推測で怪しいと言う。人の話を聞かずに進もうとする。御手洗をうんこさんと呼ぶ。総合すると、色々と面倒な女性です」


 光咲さんが目を丸くした。


 文子さんも、少しだけ瞬きをした。


「……九藤さん」


「はい」


「それ、あなたが言います?」


「どういう意味ですか」


「あなたの方が、ずっと面倒だと思います」


 光咲さんが即答した。


 文子さんが、口元に手を添えた。


「そうですねえ」


「文子さん?」


「九藤さんも、とても丁寧でありがたいんですけど」


「はい」


「少し、面倒な方ですね」


 俺は返答に迷った。


 丁寧。

 ありがたい。

 面倒。


 三つの評価が同じ文脈に並んでいる。


 整理に時間がかかる。


「……面倒、ですか」


「はい」


 光咲さんが頷いた。


「お腹空きませんかって聞いたら、私の空腹を推測する根拠はありませんって返す人ですよ」


「それは質問の形式に問題が」


「今もそういうところです」


「……」


 言い返そうとしたが、文子さんが小さく笑った。


 光咲さんも、それにつられるように笑う。


 重かった事務所の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 文子さんの笑い声は、弱く、短かった。

 それでも、確かに笑っていた。


 俺は、揃えた書類の端を指で押さえたまま、何も言わなかった。


 言葉を選んでいるうちに、返す機会を失ってしまったからだ。


 たぶん。


 明日、俺たちは藤澤へ戻る。


 証拠にはならない真実を、記録するために。

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