第6話 見ない方がいい写真
端末内の候補フォルダーには、残響写真データが二十七枚保存されていた。
赤い電話の跡。
路地の入口。
現在はビルとビルの隙間になっている細い通路。そこで、携帯型哭響機は強い反応を示した。
俺は、その場で撮影を止めた。 光咲はまだ先を見たそうな顔をしていたし、御手洗も何か言いたげだった。
だが、ここで進むべきではない。 哭響機が拾うのは、真実そのものではない。
過去に残った傷の断片だ。焦って追えば、都合のいい形に繋げてしまう。
それは調査ではない。
ただの想像だ。
俺たちは駅前から離れ、いったんホテルへ戻った。
確認に使うため、フロントに頼み、宿泊客用の小さな打ち合わせ室を一時間だけ借りた。
窓のない部屋だった。
机が一つ。
椅子が四脚。
壁際には使われていないホワイトボードが立てかけられている。
それだけの、簡素な部屋だった。
こういうものを、人目のある場所で開くべきではない。端末に保存されているのは、写真の形をしているだけだ。実際には、誰かが壊れた瞬間の残りかすである。
俺は机の上に端末を置いた。
光咲が、当然のように向かいの椅子へ座ろうとする。
「光咲さん」
「はい」
「確認中は、外で待っていてください」
光咲の手が、椅子の背に触れたまま止まった。
「私だけですか」
「はい」
「どうしてですか?」
「文子さんより先に、あなたへ見せるものではないからです」
光咲は唇を結んだ。
「でも、美咲伯母さんの写真かもしれないんですよね」
「だからです」
俺は端末を閉じたまま言った。
「美咲さんである可能性が高いものを、依頼人本人である文子さんより先に、あなたへ見せることはできません」
「私も家族です」
「分かっています」
「なら」
「家族だからこそ、順番を間違えられません」
光咲は何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
納得していない顔だった。
だが、今はそれでいい。
納得しないままでも、従ってもらう必要がある。
「御手洗さんには見せるんですか」
「必要な範囲で見せます」
「警察の人だからですか」
「それだけではありません。御手洗はこういう記録に対する耐性が、少なくとも光咲さんよりはあります」
「……私にはないってことですか」
「昨日までは、ありませんでした」
「昨日までは?」
「今も、あるとは判断していません」
光咲は小さく息を吐いた。
「九藤さん、そういうところです」
「今はそういうところで構いません」
御手洗が、珍しく茶化さずに言った。
「嬢ちゃん。ここは外で待ってろ」
「山中さんまで」
「見たい気持ちは分かる。でも、見たら戻れねえものもある」
光咲は御手洗を見た。
それから、俺を見た。
「……分かりました。外にいます」
「部屋から離れすぎないでください」
「それは命令ですか」
「指示です」
「分かりました」
光咲はそう言って、打ち合わせ室を出た。
扉が閉まる。
その音を確認してから、俺は端末を開いた。御手洗は向かい側の椅子に座り、腕を組んでいる。
「確認します」
「おう」
一枚目。
赤い電話。
画面の端は乱れている。
電話の前に、人影があった。
制服。
白い襟。
細い肩。
顔はぼやけている。
だが、文子さんから預かった写真と、体格や服装が近い。
俺は画像を拡大した。
感情を出してはいけない。
二枚目。
同じ赤い電話。
人影が受話器を持っているように見える。
三枚目。
横顔。
崩れた画像の中に、かろうじて少女の輪郭が残っている。御手洗が小さく呟いた。
「これは……」
「美咲さんである可能性が高いです」
俺は言った。
「断定は」
「できません」
御手洗が先に言った。
「言うと思った」
「ですが、現時点で無視できない一致があります」
「お前がそこまで言うなら、ほぼ間違いないってことだろ」
「ほぼ、という表現は避けます」
「はいはい」
御手洗は画面を見つめたまま、口元を引き締めた。
四枚目。
赤い電話から離れる人影。
五枚目。
路地の入口。
六枚目。
振り返ったように見える少女の影。
七枚目。
画面の右端に、黒い影。
人かどうかは分からない。
残響の乱れかもしれない。
ただ、そこに何かが重なっている。
俺は画像ごとに番号を振り、保存フォルダーを分けていった。
美咲さん関連候補。
赤い電話周辺。
路地入口。
目的外残響。
未分類。
十枚目を過ぎたあたりで、御手洗の顔色が変わった。
「……待て」
「はい」
「これ、美咲さんじゃねえな」
「違います」
十一枚目以降の画像は、明らかに別の残響だった。
駅前の同じ一帯。
けれど、時間も人物も違う。
服装が違う。
季節が違う。
残っている感情の質も違う。
事故。
争い。
倒れた誰か。
助けを求める手。
崩れた視界。
こちらを見る誰かの顔。
そのいくつかは、かなり決定的だった。
美咲さんとは関係がないと思われる別件の残響写真が、十二枚。
御手洗は深く息を吐いた。
「……本来なら」
そこで言葉を止める。
俺は画面から目を離さなかった。
「本来なら、警察に提出するべきだって言いたいところだけどな」
御手洗は低い声で言った。
「でも、お前はしないだろ」
「提出しても、証拠として扱える保証はありません」
「分かってるよ」
「残響写真が本当に過去の映像であると証明する方法がありません。撮影日時、被写体、場所、改ざんの有無、すべて説明できません。警察に渡せば、逆に余計な混乱を招く可能性があります」
「だから、分かってるって」
御手洗は苛立ったように言ったあと、すぐに声を落とした。
「分かってるけど、警官としては言いたくなるんだよ」
俺は何も言わなかった。
御手洗は、端末の画面を睨むように見ていた。
「決定的に見える写真がある。でも証拠じゃない。使えない。なのに、そこに何かあったことだけは分かる」
「はい」
「気持ち悪いな」
「そういう機械です」
「便利な機械じゃねえな」
「便利な機械ではありません」
御手洗はしばらく黙ってから、端末から目を離した。
「まあ、今ここで俺が警察に持っていけって言っても、お前は納得しないだろうしな」
「はい」
「即答かよ」
「そこは即答できます」
「こういう時だけ早いな」
御手洗は椅子にもたれた。
「分かった。俺からは今は何も言わねえ。ただ、完全に無視はするなよ」
「記録は残します」
「それでいい」
俺は端末を閉じた。
ここまでで、予備調査として必要な確認はできた。
赤い電話の位置。
美咲さんと思われる残響写真。
路地入口の強い反応。
そして、目的外の残響。
見えたものは、すべて記録する。
ただし、すべてを依頼人へ渡すわけではない。それは別の判断だ。
「呼ぶのか?」
御手洗が聞いた。
「呼びます。ただし、美咲さんと思われる写真は見せません」
「だろうな」
俺は立ち上がり、打ち合わせ室の扉を開けた。光咲は廊下の壁際に立っていた。彼女はスマートフォンを握っていたが、画面は点いていないようだった。
「終わりましたか?」
「一通りは」
「見せてください」
予想していた言葉だった。
「美咲さんと思われる写真は見せられません」
光咲の顔が強張った。
「やっぱり、あったんですね」
「可能性が高いものはありました」
「なら、私にも」
「依頼人の文子さん本人の同意が先です」
光咲は黙った。その目には、不満よりも、怖さに近いものがあった。
「では、何がそんなに危ないのかだけでも、見せてください」
「おすすめしません」
「見せてもらえないままだと、私はずっと、何を隠されたのか考えます」
その言葉は、思ったより静かだった。
「九藤さんが止める理由は、少し分かりました。でも、分かったつもりになっているだけかもしれません」
俺は光咲を見た。
御手洗も、彼女を見ていた。
少しして、御手洗が俺に視線を向ける。
やめた方がいい。
その顔には、そう書いてあった。
だが同時に、別の意味もあった。
一度見せなければ、この人は止まらない。
俺は端末を机の上に置いた。
「光咲さん」
「はい」
「残響写真は、好んで見るものではありません」
光咲の肩が、少しだけ動いた。
「写真ですよね」
「形は写真です」
俺は言った。
「ですが、そこに写っているのは、旅行の記録でも、家族写真でも、懐かしい風景でもありません。人が壊れた瞬間です。助けを求めた声や、恐怖や、後悔や、死の直前の視界が、写真の形で残ったものです」
光咲は何も言わなかった。
「一度見ると、知らないふりはできなくなります」
「……」
「見る前の場所には戻れません」
俺は、閉じた端末に視線を落とした。
「俺は、そういうものを何度も見てきました。必要だから見ています。見たいから見ているわけではありません」
「九藤さんも、見たくないんですか」
「見たくありません」
即答した。
御手洗が、わずかにこちらを見る。
俺は続けた。
「こういうものを毎日見ていれば、精神は少しずつ削れます。正気でいられる保証はありません。俺も、自分がどこまで正常なのか分からなくなる時があります。だから嫌いなんです。」
光咲の顔から、少し色が引いた。
「それでも見るということは、こちら側に入るということです」
「こちら側……」
「見ない人間ではいられなくなる、という意味です。」
俺は言った。
「入ったあとで、後悔するかもしれません。なぜ見てしまったのか。なぜ知らないままでいなかったのか。そう思う可能性があります」
光咲は、端末を見つめた。
「それでも、見るかどうかは、あなたが決めてください」
御手洗が低い声で言った。
「やめとけって言ったからな」
光咲はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「それでも、見ます」
「分かりました」
「美咲伯母さんの写真じゃないんですね」
「違います」
「どうして」
「まず、残響写真が何を写すものなのか、どういうものなのか、理解してもらう必要があります」
俺は候補フォルダーの中から、一枚を選んだ。美咲さん関連ではない。
だが、この場所に残っていた強い残響の一つ。詳細は言わない。言葉にすれば、それだけで余計な想像を創る。
「一枚だけです」
俺は言った。
「見たあとで、見なければよかったと言っても、戻せませんよ」
「……分かっています」
「分かっている、では足りません」
「それでも、見ます」
俺は端末を光咲の前へ向けた。
光咲の目が、画面を見た。
次の瞬間、顔から血の気が引いた。
長い髪が乱れて、頬に張りついている見知らぬ女性の写真だった。背後から近づく男の気配に、彼女の目は大きく見開かれ、唇は声にならない悲鳴をこぼしているようだった。男の手には明らかに鋭利な凶器が見える。
「……っ」
彼女は口元を押さえた。
椅子が床をこする音がして、光咲は立ち上がる。そのまま、打ち合わせ室を飛び出した。
御手洗がすぐに立ち上がる。
俺は端末の画面を伏せた。
写真には、始めに言った通り美咲さんは写っていない。ただ、この町のどこかで、誰かが最後に叫んだ、心の形が写っていた。
それだけだった。
数分後、光咲は戻ってきた。
顔色は悪い。
御手洗が買ってきた水を、両手で持っている。
「大丈夫ですか?」
俺が聞くと、光咲は小さく首を横に振った。
「大丈夫では、ないです」
「その返答でいいです」
光咲は、少しだけ目を伏せた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
「でも、私、見たいって」
「見たいと思うこと自体は、悪いことではありません」
俺は端末を閉じたまま言った。
「ただ、見るには準備が必要です。文子さんにも同じ説明をします」
光咲は黙って頷いた。
「ここから先は、予備調査ではありません」
俺は言った。
「赤い電話の位置は絞れました。美咲さんと思われる残響写真も確認しました。路地の入口にも強い反応があります。これ以上進むなら、本契約が必要です」
「本契約……」
「はい。費用も、リスクも、調査の重さも変わります」
御手洗は黙って聞いていた。
「光咲さん」
「はい」
「文子さんに、もう一度、事務所へ来ていただけるよう連絡してください」
光咲は、水のペットボトルを握ったまま、俺を見た。
「今からですか?」
「はい」
「何て言えばいいですか」
「予備調査で、確認したいことが出た、と。詳しい説明と本契約の相談があるので、改めて事務所へ来てほしい、と伝えてください」
「写真が撮れたことは」
「まだ言わないでください」
光咲は小さく息を吸った。
「……分かりました」
「本当に?」
「本当に分かりました」
少しだけ、前より返事が正確だった。
光咲はスマートフォンを取り出し、祖母へ電話をかけた。呼び出し音が数回。
やがて、繋がった。
「おばあちゃん」
光咲の声は、まだ少し震えていた。
「うん。私。大丈夫」
大丈夫ではない。けれど、電話の向こうの文子さんに、今それを言うわけにはいかないのだろう。
光咲は目を伏せる。
「明日、もう一度、九藤探偵事務所に来られる?」
電話の向こうで、文子さんが何かを言った。
「うん。少し、分かったことがあるの」
少し。
その言葉は、正確ではなかった。けれど、今の光咲には、それ以上の言葉を選べなかったのだと思う。
「詳しいことは、九藤さんから説明があるって。うん。東京の事務所。前に行ったところ」
光咲はしばらく黙って聞いていた。
それから、ゆっくり頷く。
「分かった。じゃあ、明日。私も行くから」
電話が切れた。
光咲はスマートフォンを膝の上に置き、しばらく動かなかった。
御手洗が、空になりかけた水のペットボトルを見た。
「もう一本いるか?」
「私が喉乾いてるって、どうして分かるんですか」
光咲が、かすれた声で言った。
俺は少し目を瞬かせた。
御手洗は、数秒遅れて笑った。
「おい隼人。お前の変なの、うつってんぞ」
「変なのではありません」
「変なのだろ」
光咲は、ほんの少しだけ笑った。
顔色はまだ悪い。けれど、その笑いで、少しだけ呼吸が戻ったように見えた。
「飲み物が必要ですか」
俺は聞いた。
光咲は、小さく頷いた。
「はい。必要です」
「分かりました」
御手洗が立ち上がる。
「俺が買ってくる。山中さんは役に立つからな」
「うんこさん、ありがとうございます」
「俺はうんこじゃねえ!」
光咲は、また少しだけ笑った。その笑いで、この場に張りついていたものがわずかに緩んだ。
だが、端末の中身は変わらない。
候補フォルダーには、二十七枚の残響写真データ。美咲さんと思われる写真が複数枚。美咲さんとは別件と見られる、決定的な残響写真が十二枚。
赤い電話。
路地。
少女の影。
黒い影。
事故か事件かも、まだ整理できていない過去の傷。予備調査は、もう終わりに近づいていた。
ここから先は、依頼人本人に選んでもらうしかない。
その日の夕方、俺たちは御手洗と別れ、藤澤を発ち、東京の九藤探偵事務所へ戻った。




