表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
証拠にならない真実を、報告します 〜九藤探偵事務所の真相報告書〜  作者: 九藤隼人
第1章 三十二年前の赤い電話
7/12

第6話 見ない方がいい写真

 端末内の候補フォルダーには、残響写真データが二十七枚保存されていた。


 赤い電話の跡。

 路地の入口。


 現在はビルとビルの隙間になっている細い通路。そこで、携帯型哭響機は強い反応を示した。


 俺は、その場で撮影を止めた。 光咲はまだ先を見たそうな顔をしていたし、御手洗も何か言いたげだった。


 だが、ここで進むべきではない。 哭響機が拾うのは、真実そのものではない。


 過去に残った傷の断片だ。焦って追えば、都合のいい形に繋げてしまう。


 それは調査ではない。

 ただの想像だ。


 俺たちは駅前から離れ、いったんホテルへ戻った。


 確認に使うため、フロントに頼み、宿泊客用の小さな打ち合わせ室を一時間だけ借りた。


 窓のない部屋だった。


 机が一つ。

 椅子が四脚。


 壁際には使われていないホワイトボードが立てかけられている。


 それだけの、簡素な部屋だった。


 こういうものを、人目のある場所で開くべきではない。端末に保存されているのは、写真の形をしているだけだ。実際には、誰かが壊れた瞬間の残りかすである。


 俺は机の上に端末を置いた。


 光咲が、当然のように向かいの椅子へ座ろうとする。


「光咲さん」


「はい」


「確認中は、外で待っていてください」


 光咲の手が、椅子の背に触れたまま止まった。


「私だけですか」


「はい」


「どうしてですか?」


「文子さんより先に、あなたへ見せるものではないからです」


 光咲は唇を結んだ。


「でも、美咲伯母さんの写真かもしれないんですよね」


「だからです」


 俺は端末を閉じたまま言った。


「美咲さんである可能性が高いものを、依頼人本人である文子さんより先に、あなたへ見せることはできません」


「私も家族です」


「分かっています」


「なら」


「家族だからこそ、順番を間違えられません」


 光咲は何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。


 納得していない顔だった。

 だが、今はそれでいい。


 納得しないままでも、従ってもらう必要がある。


「御手洗さんには見せるんですか」


「必要な範囲で見せます」


「警察の人だからですか」


「それだけではありません。御手洗はこういう記録に対する耐性が、少なくとも光咲さんよりはあります」


「……私にはないってことですか」


「昨日までは、ありませんでした」


「昨日までは?」


「今も、あるとは判断していません」


 光咲は小さく息を吐いた。


「九藤さん、そういうところです」


「今はそういうところで構いません」


 御手洗が、珍しく茶化さずに言った。


「嬢ちゃん。ここは外で待ってろ」


「山中さんまで」


「見たい気持ちは分かる。でも、見たら戻れねえものもある」


 光咲は御手洗を見た。


 それから、俺を見た。


「……分かりました。外にいます」


「部屋から離れすぎないでください」


「それは命令ですか」


「指示です」


「分かりました」


 光咲はそう言って、打ち合わせ室を出た。


 扉が閉まる。


 その音を確認してから、俺は端末を開いた。御手洗は向かい側の椅子に座り、腕を組んでいる。


「確認します」


「おう」


 一枚目。


 赤い電話。


 画面の端は乱れている。

 電話の前に、人影があった。


 制服。

 白い襟。

 細い肩。


 顔はぼやけている。


 だが、文子さんから預かった写真と、体格や服装が近い。


 俺は画像を拡大した。

 感情を出してはいけない。


 二枚目。


 同じ赤い電話。


 人影が受話器を持っているように見える。


 三枚目。


 横顔。


 崩れた画像の中に、かろうじて少女の輪郭が残っている。御手洗が小さく呟いた。


「これは……」


「美咲さんである可能性が高いです」


 俺は言った。


「断定は」


「できません」


 御手洗が先に言った。


「言うと思った」


「ですが、現時点で無視できない一致があります」


「お前がそこまで言うなら、ほぼ間違いないってことだろ」


「ほぼ、という表現は避けます」


「はいはい」


 御手洗は画面を見つめたまま、口元を引き締めた。


 四枚目。


 赤い電話から離れる人影。


 五枚目。


 路地の入口。


 六枚目。


 振り返ったように見える少女の影。


 七枚目。


 画面の右端に、黒い影。


 人かどうかは分からない。


 残響の乱れかもしれない。

 ただ、そこに何かが重なっている。


 俺は画像ごとに番号を振り、保存フォルダーを分けていった。


 美咲さん関連候補。


 赤い電話周辺。


 路地入口。


 目的外残響。


 未分類。


 十枚目を過ぎたあたりで、御手洗の顔色が変わった。


「……待て」


「はい」


「これ、美咲さんじゃねえな」


「違います」


 十一枚目以降の画像は、明らかに別の残響だった。


 駅前の同じ一帯。

 けれど、時間も人物も違う。


 服装が違う。

 季節が違う。


 残っている感情の質も違う。


 事故。

 争い。


 倒れた誰か。

 助けを求める手。


 崩れた視界。


 こちらを見る誰かの顔。


 そのいくつかは、かなり決定的だった。


 美咲さんとは関係がないと思われる別件の残響写真が、十二枚。


 御手洗は深く息を吐いた。


「……本来なら」


 そこで言葉を止める。


 俺は画面から目を離さなかった。


「本来なら、警察に提出するべきだって言いたいところだけどな」


 御手洗は低い声で言った。


「でも、お前はしないだろ」


「提出しても、証拠として扱える保証はありません」


「分かってるよ」


「残響写真が本当に過去の映像であると証明する方法がありません。撮影日時、被写体、場所、改ざんの有無、すべて説明できません。警察に渡せば、逆に余計な混乱を招く可能性があります」


「だから、分かってるって」


 御手洗は苛立ったように言ったあと、すぐに声を落とした。


「分かってるけど、警官としては言いたくなるんだよ」


 俺は何も言わなかった。


 御手洗は、端末の画面を睨むように見ていた。


「決定的に見える写真がある。でも証拠じゃない。使えない。なのに、そこに何かあったことだけは分かる」


「はい」


「気持ち悪いな」


「そういう機械です」


「便利な機械じゃねえな」


「便利な機械ではありません」


 御手洗はしばらく黙ってから、端末から目を離した。


「まあ、今ここで俺が警察に持っていけって言っても、お前は納得しないだろうしな」


「はい」


「即答かよ」


「そこは即答できます」


「こういう時だけ早いな」


 御手洗は椅子にもたれた。


「分かった。俺からは今は何も言わねえ。ただ、完全に無視はするなよ」


「記録は残します」


「それでいい」


 俺は端末を閉じた。


 ここまでで、予備調査として必要な確認はできた。


 赤い電話の位置。

 美咲さんと思われる残響写真。

 路地入口の強い反応。


 そして、目的外の残響。


 見えたものは、すべて記録する。


 ただし、すべてを依頼人へ渡すわけではない。それは別の判断だ。


「呼ぶのか?」


 御手洗が聞いた。


「呼びます。ただし、美咲さんと思われる写真は見せません」


「だろうな」


 俺は立ち上がり、打ち合わせ室の扉を開けた。光咲は廊下の壁際に立っていた。彼女はスマートフォンを握っていたが、画面は点いていないようだった。


「終わりましたか?」


「一通りは」


「見せてください」


 予想していた言葉だった。


「美咲さんと思われる写真は見せられません」


 光咲の顔が強張った。


「やっぱり、あったんですね」


「可能性が高いものはありました」


「なら、私にも」


「依頼人の文子さん本人の同意が先です」


 光咲は黙った。その目には、不満よりも、怖さに近いものがあった。


「では、何がそんなに危ないのかだけでも、見せてください」


「おすすめしません」


「見せてもらえないままだと、私はずっと、何を隠されたのか考えます」


 その言葉は、思ったより静かだった。


「九藤さんが止める理由は、少し分かりました。でも、分かったつもりになっているだけかもしれません」


 俺は光咲を見た。

 御手洗も、彼女を見ていた。


 少しして、御手洗が俺に視線を向ける。


 やめた方がいい。

 その顔には、そう書いてあった。


 だが同時に、別の意味もあった。

 一度見せなければ、この人は止まらない。


 俺は端末を机の上に置いた。


「光咲さん」


「はい」


「残響写真は、好んで見るものではありません」


 光咲の肩が、少しだけ動いた。


「写真ですよね」


「形は写真です」


 俺は言った。


「ですが、そこに写っているのは、旅行の記録でも、家族写真でも、懐かしい風景でもありません。人が壊れた瞬間です。助けを求めた声や、恐怖や、後悔や、死の直前の視界が、写真の形で残ったものです」


 光咲は何も言わなかった。


「一度見ると、知らないふりはできなくなります」


「……」


「見る前の場所には戻れません」


 俺は、閉じた端末に視線を落とした。


「俺は、そういうものを何度も見てきました。必要だから見ています。見たいから見ているわけではありません」


「九藤さんも、見たくないんですか」


「見たくありません」


 即答した。


 御手洗が、わずかにこちらを見る。


 俺は続けた。


「こういうものを毎日見ていれば、精神は少しずつ削れます。正気でいられる保証はありません。俺も、自分がどこまで正常なのか分からなくなる時があります。だから嫌いなんです。」


 光咲の顔から、少し色が引いた。


「それでも見るということは、こちら側に入るということです」


「こちら側……」


「見ない人間ではいられなくなる、という意味です。」


 俺は言った。


「入ったあとで、後悔するかもしれません。なぜ見てしまったのか。なぜ知らないままでいなかったのか。そう思う可能性があります」


 光咲は、端末を見つめた。


「それでも、見るかどうかは、あなたが決めてください」


 御手洗が低い声で言った。


「やめとけって言ったからな」


 光咲はしばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「それでも、見ます」


「分かりました」


「美咲伯母さんの写真じゃないんですね」


「違います」


「どうして」


「まず、残響写真が何を写すものなのか、どういうものなのか、理解してもらう必要があります」


 俺は候補フォルダーの中から、一枚を選んだ。美咲さん関連ではない。


 だが、この場所に残っていた強い残響の一つ。詳細は言わない。言葉にすれば、それだけで余計な想像を創る。


「一枚だけです」


 俺は言った。


「見たあとで、見なければよかったと言っても、戻せませんよ」


「……分かっています」


「分かっている、では足りません」


「それでも、見ます」


 俺は端末を光咲の前へ向けた。


 光咲の目が、画面を見た。

 次の瞬間、顔から血の気が引いた。


 長い髪が乱れて、頬に張りついている見知らぬ女性の写真だった。背後から近づく男の気配に、彼女の目は大きく見開かれ、唇は声にならない悲鳴をこぼしているようだった。男の手には明らかに鋭利な凶器が見える。


「……っ」


 彼女は口元を押さえた。


 椅子が床をこする音がして、光咲は立ち上がる。そのまま、打ち合わせ室を飛び出した。


 御手洗がすぐに立ち上がる。


 俺は端末の画面を伏せた。


 写真には、始めに言った通り美咲さんは写っていない。ただ、この町のどこかで、誰かが最後に叫んだ、心の形が写っていた。


 それだけだった。


 数分後、光咲は戻ってきた。


 顔色は悪い。


 御手洗が買ってきた水を、両手で持っている。


「大丈夫ですか?」


 俺が聞くと、光咲は小さく首を横に振った。


「大丈夫では、ないです」


「その返答でいいです」


 光咲は、少しだけ目を伏せた。


「すみません」


「謝る必要はありません」


「でも、私、見たいって」


「見たいと思うこと自体は、悪いことではありません」


 俺は端末を閉じたまま言った。


「ただ、見るには準備が必要です。文子さんにも同じ説明をします」


 光咲は黙って頷いた。


「ここから先は、予備調査ではありません」


 俺は言った。


「赤い電話の位置は絞れました。美咲さんと思われる残響写真も確認しました。路地の入口にも強い反応があります。これ以上進むなら、本契約が必要です」


「本契約……」


「はい。費用も、リスクも、調査の重さも変わります」


 御手洗は黙って聞いていた。


「光咲さん」


「はい」


「文子さんに、もう一度、事務所へ来ていただけるよう連絡してください」


 光咲は、水のペットボトルを握ったまま、俺を見た。


「今からですか?」


「はい」


「何て言えばいいですか」


「予備調査で、確認したいことが出た、と。詳しい説明と本契約の相談があるので、改めて事務所へ来てほしい、と伝えてください」


「写真が撮れたことは」


「まだ言わないでください」


 光咲は小さく息を吸った。


「……分かりました」


「本当に?」


「本当に分かりました」


 少しだけ、前より返事が正確だった。


 光咲はスマートフォンを取り出し、祖母へ電話をかけた。呼び出し音が数回。


 やがて、繋がった。


「おばあちゃん」


 光咲の声は、まだ少し震えていた。


「うん。私。大丈夫」


 大丈夫ではない。けれど、電話の向こうの文子さんに、今それを言うわけにはいかないのだろう。


 光咲は目を伏せる。


「明日、もう一度、九藤探偵事務所に来られる?」


 電話の向こうで、文子さんが何かを言った。


「うん。少し、分かったことがあるの」


 少し。


 その言葉は、正確ではなかった。けれど、今の光咲には、それ以上の言葉を選べなかったのだと思う。


「詳しいことは、九藤さんから説明があるって。うん。東京の事務所。前に行ったところ」


 光咲はしばらく黙って聞いていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「分かった。じゃあ、明日。私も行くから」


 電話が切れた。


 光咲はスマートフォンを膝の上に置き、しばらく動かなかった。


 御手洗が、空になりかけた水のペットボトルを見た。


「もう一本いるか?」


「私が喉乾いてるって、どうして分かるんですか」


 光咲が、かすれた声で言った。


 俺は少し目を瞬かせた。

 御手洗は、数秒遅れて笑った。


「おい隼人。お前の変なの、うつってんぞ」


「変なのではありません」


「変なのだろ」


 光咲は、ほんの少しだけ笑った。


 顔色はまだ悪い。けれど、その笑いで、少しだけ呼吸が戻ったように見えた。


「飲み物が必要ですか」


 俺は聞いた。


 光咲は、小さく頷いた。


「はい。必要です」


「分かりました」


 御手洗が立ち上がる。


「俺が買ってくる。山中さんは役に立つからな」


「うんこさん、ありがとうございます」


「俺はうんこじゃねえ!」


 光咲は、また少しだけ笑った。その笑いで、この場に張りついていたものがわずかに緩んだ。


 だが、端末の中身は変わらない。


 候補フォルダーには、二十七枚の残響写真データ。美咲さんと思われる写真が複数枚。美咲さんとは別件と見られる、決定的な残響写真が十二枚。


 赤い電話。

 路地。

 少女の影。

 黒い影。


 事故か事件かも、まだ整理できていない過去の傷。予備調査は、もう終わりに近づいていた。


 ここから先は、依頼人本人に選んでもらうしかない。


 その日の夕方、俺たちは御手洗と別れ、藤澤を発ち、東京の九藤探偵事務所へ戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ