第4話 うんこではありません
ホテルを出たのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
藤澤駅前は、昨日と同じように人が多い。
出勤する人。
買い物へ向かう人。
駅へ急ぐ学生。
スマートフォンを見ながら歩く若者。
再開発された駅前の歩道は広く、三十二年前の商店街の面影はほとんど残っていない。
けれど、昨日の聞き込みで、赤い電話があったと思われる位置はかなり絞れた。
駅前商店街の入口付近。
青果店の店先。
電話ボックスではなく、店の前に置かれた赤い公衆電話。
住宅地図には載っていない。
警察資料にもはっきり残っていない。
それでも、古い写真と、篠宮誠一の子供の頃のノートと、町の人の記憶は、同じ場所を指し始めていた。
今日は、そこから携帯型哭響機で反応を追う予定だった。美咲が赤い電話の前で誰かからの電話を待っていたのなら。
電話を受けたあと、どちらへ向かったのか。その最初の足取りを確かめる。
「九藤さん」
隣を歩いていた光咲が、急に声を落とした。
「はい」
「後ろに、怪しい奴がいます」
「怪しい、はまだ早いです」
「じゃあ、電信柱の影からこっちを見ている男がいます」
「それは事実に近い表現です」
「近いじゃなくて、います」
光咲が小さく指を向けた。
通りの向こう側。
電信柱のそばに、男が立っていた。
昨日、聞き込み先の家から出てきた首筋に黒いほくろの老人ではない。
別人だ。
もっと若い。
俺と同じくらいの年齢に見える。
がっしりした体格で、肩幅が広い。黒っぽい上着に、濃い色のパンツ。私服のはずなのに、妙に立ち方が硬い。
本人は隠れているつもりなのかもしれない。だが、体が大きいので、まるで隠れていなかった。
俺はその男を見て、少しだけ目を細めた。
「あれは、たぶんうんこです」
「……はい?」
光咲が、こちらを見た。
同時に、電信柱の影にいた男がびくりと肩を震わせた。どうやら聞こえたらしい。
男は一度だけ周囲を見回した。
それから、隠れるのを諦めたように、こちらへ大股で歩いてきた。近づいてくるだけで、周囲の空気が少し重くなる。
光咲が、半歩だけ俺の後ろへ下がった。
「俺はうんこじゃねえ!」
低い声だった。
ただし、かなり本気で傷ついている声でもあった。男は俺たちの前で止まった。
短く刈った髪。
彫りの深い顔。
鋭い目つき。
普通に立っているだけでも、かなり圧がある。
御手洗大輔。
二〇〇一年生まれ。
俺と中学、高校が同じだった男だ。
「隼人。お前、第一声がそれか」
「違うんですか」
「違うに決まってんだろ」
「では、便所ですか?」
「それも違う」
「大便ですか?」
「悪夢みたいな選択肢を順番に出すな!」
「どれも違うとなると、呼称に困ります」
「普通に呼べ!」
「御手洗」
「それも嫌だ」
「大輔」
「それも嫌だ」
「やはり、うんこでは?」
「戻るな!」
光咲が、完全に固まっていた。
「あの……」
恐る恐る手を上げる。
「どなたですか?」
御手洗は一瞬だけ姿勢を正した。
女性の前で本名を名乗りたくない顔だった。
「俺は……山中」
「御手洗大輔です」
「言うな!」
御手洗が俺を睨む。
光咲が、ぽつりと言った。
「みたらい……」
「忘れてください」
「え?」
「今すぐ忘れてください」
「無理です。今、聞いたので」
「じゃあ、せめて口に出さないでください」
御手洗は本気だった。
光咲は少しだけ首をかしげた。
「御手洗さん……」
「やめてください」
「でも、お名前ですよね?」
「名前だけど、やめてください」
「お手洗いさん?」
「字を変えるな!」
光咲は一瞬だけ目を瞬かせた。
「すみません。今、完全にお手洗いの方で理解してました」
「理解しなくていい!」
「御手洗って書いて、みたらいさんなんですね」
「そうだ。だが呼ぶな」
「じゃあ、お手洗いさんではなく、御手洗さん」
「どっちも音が同じだからやめてくれ!」
俺は補足した。
「小さい頃のあだ名が、うんこだったんです」
「補足すんな!」
光咲の口元が、ぴくりと動いた。
「笑うなよ」
「笑ってません」
「今、笑いかけただろ」
「理解が……追いつかなくて」
「理解しなくていい!」
「苗字の御手洗から便所と呼ばれ、名前の大輔から大便に繋がり、最終的にうんこになりました」
「詳細に言うな!」
光咲は、とうとう吹き出した。
「す、すみません……!」
「笑ってるじゃねえか!」
「ごめんなさい。でも、今の説明は無理です」
「無理じゃねえ!」
御手洗は頭を抱えた。
大柄な男が、駅前で本気で傷ついている。
光咲は慌てて姿勢を正したが、まだ肩が震えていた。
「あの、えっと……うんこさんは」
「俺はうんこでも便所でもねえ!」
御手洗が即座に訂正した。
光咲はまた口を押さえた。
「すみません、名前が……名前がそっちに引っ張られて」
「引っ張られるな!」
「御手洗さん、ですか」
「できればそれもやめてほしい」
「じゃあ、お手洗いさん」
「もっとやめてほしい!」
「すみません。音が同じなので」
「分かってるから嫌なんだよ!」
「じゃあ、何と呼べば」
「……山中でいい」
「山中さん?」
「そうだ」
「本名ではありません」
「隼人、黙れ」
俺は黙った。
光咲は、御手洗を見てから俺を見る。
「九藤さんのお知り合いですか」
「中学と高校が同じでした」
「友達ですか」
「定義によります」
「そこも断言しないんですね」
「関係性の定義は難しいので」
「お前、本当に変わってねえな」
御手洗は呆れたように言った。
「それで、御手洗」
「だから呼ぶなって」
「何をしているんですか」
御手洗は少し気まずそうに頭をかいた。
「仕事じゃねえよ。今日は休みだ」
「仕事?」
光咲が御手洗を見た。
「山中さん、何のお仕事なんですか」
御手洗は一瞬、面倒くさそうな顔をした。
「警察官」
「……え?」
光咲が固まった。
それから、ゆっくり俺を見る。
「九藤さん」
「はい」
「うんこさん、警察の人なんですか」
「俺はうんこじゃねえ!」
御手洗が即座に訂正した。
「警察官であることは事実です」
「そこは認めるんですね」
「職業は事実なので」
光咲は、御手洗をもう一度見た。さっきまで完全に変な人を見る目だったのが、少しだけ混乱した目に変わっている。
「警察の人が、電信柱の影からこっちを見てたんですか」
「言い方に悪意があるな」
「事実確認です」
「隼人みたいなこと言うな」
御手洗は嫌そうに顔をしかめた。
「今日は本当に休みだ。仕事で来たんじゃねえ。こいつに個人的な頼みがあって来ただけだ」
「個人的な頼み」
「ああ。けど、お前がどこにいるか分からなかったから、早波さんに聞いた」
「早波さんに?」
俺は少し眉を寄せた。
「本人の許可なく、俺の滞在先を教えるのは望ましくありませんね」
「お前、それ早波さんに直接言えるのかよ」
「言えません」
「だろうな」
光咲が、俺と御手洗を交互に見た。
「早波さんって、どなたですか?」
それから少し間を置いて、続けた。
「九藤さんの彼女ですか?」
「違います」
「いや、こいつにはもったいない」
俺と御手洗の声が重なった。
光咲が目を瞬かせる。
「もったいない?」
「そのまんまの意味だよ。早波さんはな、綺麗なんだよ。見た目もだけど、中身もな。こう……白いんだよ」
「白い?」
「真っ白。心まで綺麗な人」
「いとこです」
俺は言った。
「九藤早波。俺のいとこで、本家筋の人です。姉代わりのような人でもあります」
「いとこ……」
光咲は少しだけ気まずそうにした。
「すみません。彼女さんかと思いました」
「早波さんがこいつの彼女とか、もったいなさすぎるだろ」
「御手洗」
「事実だろ」
光咲は少し考えるように御手洗を見た。
「でも、早波さんが真っ白な方なら……」
「なら?」
「トイレットペーパーとうんこみたいで、意外と相性いいのでは」
「よくねえよ!」
御手洗の声が駅前に響いた。
通行人が何人か振り返る。
「光咲さん」
俺は言った。
「その表現は、比喩としてかなり問題があります」
「すみません。少し失礼でした」
「少しじゃねえ!」
御手洗が全力で抗議する。
光咲は真面目な顔で頷いた。
「でも、ベストカップル感はあります」
「ねえよ!」
「白と茶色で」
「色で考えるな!」
「光咲さん」
「はい」
「これ以上、御手洗の尊厳を削るのはやめましょう」
「お前が一番削ってんだよ、隼人!」
御手洗は深く息を吐いた。
かなり疲れているように見えた。
まだ会って五分も経っていない。
「それで?」
俺は話を戻した。
「個人的に頼みたいこととは何ですか」
「ああ、それなんだけどな」
御手洗は一瞬、言いかけてから、駅前の人通りを見た。それから、俺の持っている黒いケースに視線を落とす。
「お前、今仕事中だろ」
「予備調査中です」
「似たようなもんだろ」
「厳密には違います」
「相変わらず細けえな」
「細かくしないと、後で壊れます」
御手洗の顔から、少しだけ冗談の色が消えた。
「……また、そういう仕事か」
「現時点では答えられません」
「そう言うと思ったよ」
御手洗は肩をすくめた。
「じゃあ、俺の話は後でいい。この件が終わってから聞け」
「聞くことは約束します。受けるかどうかは別です」
「それでいい。約束だぞ」
「はい」
「今のはい、は記録したからな」
「音声記録はありません」
「心に記録した」
「それは証拠能力が弱いです」
「そこまで言うな」
光咲が、少し笑っていた。
初対面の男をうんこさんと呼び間違え、お手洗いさんとも呼んだわりには、もうかなり慣れている。
早い。
「で、お前らはこれからどこへ行くんだ」
御手洗が聞いた。
「赤い電話があった可能性の高い場所です」
「赤い電話?」
「昔、駅前商店街にあった公衆電話です」
「公衆電話か。駅の近くにあったやつか?」
俺は御手洗を見る。
「知っているんですか?」
「はっきり覚えてるわけじゃねえけど、この町には何度か来たことがある。昔の話を聞いたこともある」
「土地勘は?」
「少しはある」
「それなら、同行してもらえると助かる可能性があります」
「素直に助かるって言えよ」
「助かる可能性があります」
「そこまで濁すな」
光咲が口を挟んだ。
「お手洗いさん、この町に詳しいんですね」
「俺はお手洗いじゃねえ!」
「あ、すみません。山中さん」
「今の間違い方、絶対わざとじゃないよな?」
「まだ名前が混ざってます」
「混ぜるな!」
「御手洗さん」
「それもできればやめてくれ」
「じゃあ、山中さん」
「それでいい」
御手洗は疲れたように頷いた。
俺は黒いケースを持ち直した。
「同行するなら、余計なことはしないでください」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、俺の名前を余計に広げるな」
「必要に応じて説明します」
「必要ねえからな」
「光咲さんが混乱した場合は」
「混乱させてるのはお前だろ」
光咲は、俺たちのやり取りを見て、首をかしげた。
「九藤さん」
「はい」
「いつもより、少し雑ですね」
「そうですか」
「はい。御手洗さん相手だと、ちょっと雑です」
「昔からの知人なので」
「つまり、友達ですか」
「定義によります」
「またそれですか」
御手洗が呆れたように笑った。
「まあ、昔の知り合いだよ。こいつが変に真面目なのは、昔からだ」
「昔から?」
「そう。小テストの答え合わせで、“だいたい合ってる”って言った奴に、“だいたいでは採点できません”って返すような奴だった」
「九藤さんらしいです」
「光咲さん」
「はい」
「そこで納得されるのは、少し不本意です」
「でも、納得しました」
「納得しないでください」
「無理です」
御手洗が笑った。
「お前ら、何その会話」
「通常です」
「通常なんだ」
御手洗は俺と光咲を交互に見た。
「変な二人だな」
「心外です」
「私はちょっと分かります」
「光咲さん」
「でも、たぶん変です」
「否定してください」
「事実確認が済んでいません」
御手洗が声を上げて笑った。
「おい隼人。お前、変なのに懐かれてるぞ」
「懐かれてはいません」
「監視中です」
光咲が言った。
御手洗はさらに笑った。
「監視されてんのかよ」
「正確には、依頼人家族による同行確認です」
「言い方を変えても監視だろ」
「はい。かなりしっかり監視しています」
「だそうだぞ」
「困っています」
「困ってください」
光咲は昨日と同じことを言った。
御手洗がまた笑う。
第三者が入ると、俺たちの会話はどうやら奇妙に聞こえるらしい。それは、今後修正が必要な点かもしれない。
ただし、今すぐ修正できる気はしなかった。
「行きましょう」
俺は言った。
「時間を使いすぎました」
「お前がうんこって言ったからだろ」
「訂正するために歩いてきたのは御手洗です」
「元凶はお前だ」
「私は少し笑っただけです」
光咲が言った。
「少しじゃなかっただろ」
「記憶に誤差があります」
「便利な言い方すんな!」
御手洗はそう言いながらも、俺たちの隣に並んだ。
三人で、駅前の歩道を進む。昨日の聞き込みで位置を絞った、赤い電話の跡へ。
今日、本来なら、携帯型哭響機で最初の反応を確認する予定だった。だが、御手洗大輔の登場で、予定は少しずれた。
それでも悪いずれ方ではない。
この町を何度か知る警察官。
俺の昔馴染み。
個人的な依頼を抱えて、休日に藤澤まで来た男。そして、九藤早波から俺の居場所を聞いたという事実。
それらは、今すぐ三十二年前の事件に繋がるものではない。少なくとも、現時点では断定できない。
だが、記録しておく価値はある。俺は頭の中でそう整理しながら、黒いケースを持ち直した。
赤い電話の跡は、もうすぐそこだった。
予備調査の続きは、そこから始まる。




