第2話 同行します
篠宮文子さんが帰った翌日の午前、九藤探偵事務所の呼び鈴が鳴った。
俺は机の上に広げていた古い地図から顔を上げた。
昨日預かった資料は、一通り分類を終えている。
古い新聞の切り抜き。
色褪せた写真。
当時の駅前地図。
警察へ相談した時の記録。
根拠の薄い目撃情報。
そして、篠宮美咲さんの学生証のコピー。
三十二年前の紙は、どれも軽い。
けれど、そこに詰まっている時間は重かった。
「はい」
俺が返事をすると、扉が開いた。
入ってきたのは、文子さんではなかった。
二十代前半くらいの女性だった。
肩につくくらいの髪を後ろで軽くまとめている。
手には、昨日文子さんが持っていたものと似た紙袋を抱えていた。
もう片方の手には、小さな菓子折りらしい紙袋もある。
目元には、どこか文子さんに似た強さがあった。
ただし、表情は文子さんよりずっとはっきりしている。
緊張している。
警戒もしている。
そして、少しだけ困っているようにも見えた。
「篠宮光咲です」
女性は、軽く頭を下げた。
「昨日伺った篠宮文子の孫です。祖母から、追加の資料を預かってきました」
「どうぞ」
俺は応接用の椅子を示した。
光咲はすぐには座らず、まず紙袋を机の上に置いた。
「こちらが追加の資料です。それと、これは祖母からです。昨日は長い時間お話を聞いていただいたので」
光咲は菓子折りの紙袋を、少し遠慮がちに差し出した。
「駅前のお店のお菓子です。とてもおいしいので、よかったら」
「誰がそう判断しましたか」
「……はい?」
光咲の表情が止まった。
俺は紙袋を見た。
「今、とてもおいしいと言いました」
「言いました」
「光咲さんが食べたことのある品ですか?」
「いえ、私はまだ食べていません。でも、祖母が好きなお店で、評判もよくて」
「では、正確には『祖母が好んでいる店のお菓子で、評判もよいと聞いています』ではありませんか」
光咲は、数秒黙った。
それから、少しだけ目を瞬かせた。
「……すみません。では、祖母が好んでいる店のお菓子で、評判もよいと聞いています。よかったら召し上がってください」
「ありがとうございます。お預かりします」
俺は紙袋を受け取った。
光咲は、まだ少し固まっていた。
初対面の相手に対して、少し言い方が細かすぎたかもしれない。
ただ、確認していない味を断定するのは正確ではない。
それだけだ。
「座ってください」
「……はい」
光咲はようやく椅子に座った。
座ったが、背筋は伸びたままだった。
こちらを完全には信用していない人間の座り方だった。
「祖母は今日は来ません。昨日の説明だけで、かなり疲れたみたいなので」
「疲れたと本人が言っていましたか」
「え?」
「文子さん本人が、疲れたと?」
「あ、いえ。言ってはいません。でも、帰ってから少し黙り込んでいたので」
「では、『疲れたみたい』ではなく、『疲れているように見えた』ですね」
光咲は、また黙った。
今度はさっきより長かった。
「……九藤さん」
「はい」
「そういう確認、毎回するんですか」
「必要ならします」
「必要なんですね」
「はい。人の状態を、本人の確認なしに断定するのは危険です」
光咲は少しだけ眉を寄せた。
怒っているというより、困惑している顔だった。
「分かりました。祖母は、疲れているように見えました。なので、今日は私が来ました」
「分かりました」
俺は追加資料の紙袋を開けた。
中には、古い写真が数枚入っていた。
駅前商店街を写したもの。
店先に並んだ野菜。
薬局の看板。
人混み。
そして、写真の端にかすかに写る赤いもの。
光咲の視線は、その写真ではなく、机の上に置いてあった別の写真へ向いた。
篠宮美咲さんの写真だった。
「美咲伯母さんですね」
「伯母さん?」
「はい。父の姉です」
光咲は少しだけ表情を緩めた。
けれど、その声には、どこか複雑な響きが混じっていた。
「私の父は、篠宮誠一といいます。美咲伯母さんの弟です」
「確認しています」
「そうですか」
光咲は小さく頷いた。
「私の名前も、美咲伯母さんから一字もらったそうです」
「一字?」
「はい。美咲の咲です。読みも同じ、みさきです。父が、姉の名前から一字もらってつけたと聞いています」
俺は資料に視線を落とした。
篠宮美咲。
篠宮光咲。
同じ読み。
違う字。
三十二年前に消えた姉の名前を、弟が自分の娘に残した。
「たぶん、忘れたくなかったんだと思います」
光咲は、机の上の写真を見たまま言った。
「私の名前を呼ぶたびに、美咲伯母さんのことを思い出すんだと思います。辛いのかもしれません。でも、忘れたくもないのかもしれません」
「光咲さん」
「はい」
「あなたには、お父様の気持ちがそこまで分かるんですか」
光咲は言葉を止めた。
少しだけ、気まずそうに目を伏せる。
「……すみません。今のは、私の想像です」
「想像としてなら聞けます」
「はい。想像です」
光咲は小さく息を吐いた。
「でも、そう思ってしまうくらいには、父は美咲伯母さんのことを忘れていないように見えます」
そうかもしれない。
だが、断定はできない。
姉の名を娘に残した理由は、誠一さん本人にしか分からない。
「それで、今日は資料を届けに来ただけですか」
「違います」
光咲は顔を上げた。
「父と祖母に、行ってこいと言われました」
「行ってこい?」
「はい」
光咲は少しだけ言いにくそうに、鞄へ手を入れた。
取り出したのは、厚みのある封筒だった。
「これは?」
「父から渡されました。私の旅費と宿泊費です」
「俺に渡すためのものではない、という理解でいいですか」
「はい。九藤さんに渡せと言われたわけではありません」
光咲は封筒を握ったまま、少しだけ視線を落とした。
「父に言われました。必要なら泊まり込みでも行ってこいって。交通費も宿泊費も出すから、必ず姉さんがどうしていなくなったのか、理由を見つけてこいって」
「姉さん?」
「美咲伯母さんのことです。父にとっては、今でも“姉さん”なんだと思います」
光咲の声には、少しだけ戸惑いがあった。
「それで、父が最後に言ったんです。お前が行かないなら、俺が行くって」
「お父様が?」
「はい」
光咲は小さく息を吐いた。
「父が行ったら、たぶん余計にややこしくなります。冷静ではいられないと思います」
「それは光咲さんの推測ですね」
「はい。推測です。でも、かなり当たると思います」
「根拠は?」
「父の顔です」
「顔だけでは根拠として弱いです」
「そういうところです」
「どういうところですか」
「いえ、今はいいです」
光咲は封筒を鞄に戻した。
「祖母も、父を止めました。誠一が行くと、きっと余計につらくなるから、あなたが行ってきてって。祖母にまでそう言われたら、行かないわけにはいかないじゃないですか」
「それで来たんですね」
「はい。正直、巻き込まれたと思っています」
光咲ははっきり言った。
その正直さは、悪くなかった。
「美咲伯母さんには会ったこともありません。でも、父と祖母がそこまで言うなら、知らないふりもできませんでした」
その言葉で、ようやく少し分かった。
光咲は、最初から積極的にこの事件へ踏み込もうとしているわけではない。
父に押し出された。
文子さんにも頼まれた。
旅費まで持たされた。
そして、自分の名前に残された一字の意味を、今さら無視できなくなっている。
「事情は分かりました」
「では、連れて行ってください」
「連れていけません」
光咲の表情が止まった。
「今の流れでですか」
「はい」
「どうしてですか」
「事情と同行許可は別です。現地調査は危険です。関係者に接触する可能性があります。目的外の残響を拾う可能性もあります。古い事件の場合、依頼人や家族が知らない方がよかった情報に触れる場合もあります」
「でも、父が行くよりは私の方がいいと思います」
「それは比較の話です」
「比較としては正しいですよね」
「現時点では判断できません」
「本当に面倒ですね」
「感想として受け取ります」
光咲は少しだけ口を引き結んだ。
「では、どうすればいいんですか」
「感情的な理由だけなら同行は認めません。調査上の利点が必要です」
光咲は鞄から古いノートのコピーを取り出した。
「父のノートです」
子どもの字で、短い言葉がいくつか並んでいる。
その中に、たしかにあった。
『あかいでんわ』
「父は、これを私に渡しました。祖母の記憶だけじゃなくて、父が子どもの頃に書いたものもあります。写真も、祖母が思い出した話も、私が預かってきました」
光咲は俺をまっすぐ見た。
「現地で確認が必要になった時、私がいた方が早いと思います。それに、聞き込みでも、九藤さん一人よりは役に立つと思います」
「根拠は?」
「今の短いやり取りだけでも、九藤さん一人だと聞き込みで警戒されやすいかもしれないことは分かりました」
「失礼です」
「でも、たぶん事実です」
「確認できていません」
「では、明日確認してください」
光咲は一歩も引かなかった。
「私を連れて行けば、絶対に役に立ちます」
「絶対、という言葉は使わない方がいいです」
「では、高い確率で役に立ちます」
「確率の根拠は?」
「私が、九藤さんよりは普通に人と話せるからです」
俺は黙った。
そこは否定しづらかった。
少なくとも、現時点の会話だけでも、光咲の方が一般的な会話には向いている可能性がある。
可能性がある。
断定はできない。
だが、無視する理由もない。
「同行したい理由ではなく、同行する利点はあります」
「じゃあ、利点はあるんですね」
「あります。ただし、条件付きです」
光咲の表情が少し明るくなった。
「条件?」
「勝手に話さない。勝手に触らない。推測を事実のように言わない。途中経過を文子さんや誠一さんへ勝手に伝えない。俺が止めたら止まる。これが条件です」
「多いですね」
「同行しないなら、守る必要はありません」
「同行するなら?」
「守ってください」
光咲は腕を組んだ。
考えているようだった。
けれど、引くつもりはなさそうだった。
「分かりました」
「本当に分かりましたか」
「確認しないと気が済まないんですね」
「はい」
「勝手に話さない。勝手に触らない。推測を事実のように言わない。途中経過を祖母や父へ伝えない。九藤さんが止めたら止まる」
「それから、見たものについて感情だけで判断しないでください」
「それは難しいです」
「なら同行は認められません」
「……守ります」
光咲は、少しだけ口を引き結んだ。
我慢している顔だった。
「明日の朝、藤澤駅南口に集合です」
俺は言った。
「時間は後ほど連絡します」
「分かりました」
「歩きやすい靴で来てください。派手な服装は避ける。現地では許可なく話を広げない。美咲さんの事件について、こちらから詳細を話さない。疲れたら申告する。無理をしない」
「最後は普通に優しいんですね」
「安全管理です」
「そういうところです」
「どういうところですか」
「……いえ。分かってきました」
光咲は小さく息を吐いた。
「九藤さんって、優しくないわけじゃないんですね」
「その評価は不要です」
「はい。評価ではなく、私の印象です」
「印象なら構いません」
「構う時と構わない時の違いが難しいです」
「必要なら説明します」
「大丈夫です。たぶん長くなるので」
光咲は立ち上がった。
追加資料の紙袋は、机の上に置いたままだ。
「父には、何て言えばいいですか」
「まだ何も分かっていません」
「それをそのまま言えばいいんですね」
「はい。確認できていないことは、伝えないでください」
「父、怒ると思います」
「怒ったと本人が言った場合だけ、そう報告してください」
光咲は一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「やっぱり、かなり面倒です」
「そうですか」
「でも、その方がいいのかもしれません」
光咲はそう言って、事務所を出ていった。
扉が閉まる。
事務所に静けさが戻った。
俺は机の上の写真を見た。
駅前商店街。
青果店。
薬局。
人混み。
そして、写真の端に写った赤い電話。
翌日、俺は藤澤へ行く。
ただし、一人ではなくなった。
篠宮光咲。
文子さんの孫。
美咲さんと同じ読みの名を持つ女性。
彼女は、自分の意思だけで来たわけではない。
父に押し出され、祖母に頼まれ、旅費まで持たされて、半分巻き込まれるようにここへ来た。
信用はしていない。
こちらも信用されていない。
だが、彼女は美咲さんに続く家族の記憶を持っている。
それが現地調査で役に立つか、邪魔になるか。
まだ判断はできなかった。




