第1話 知らないままでは終われない
九藤探偵事務所には、誓約書が二種類ある。
一つは、普通の探偵業務用だ。
人探し。
落とし物探し。
迷子のペット探し。
素行調査。
浮気調査。
依頼内容によって細かな違いはあるが、書いてあることは大体同じである。
調査には限界があること。
違法行為はしないこと。
結果を保証するものではないこと。
調査費、交通費、宿泊費、資料取得費などが必要になる場合があること。
まあ、探偵事務所としては当然の内容だ。
問題は、もう一つの方だった。
俺は机の引き出しから、厚めの書類を取り出した。
黒い手袋をした指で、白い表紙の端を揃える。
表紙の中央には、黒い文字が並んでいた。
『哭声残響記録機による過去残響観測調査に関する確認書および誓約書』
目の前に座る老女は、その文字を見て、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「……ずいぶん、たくさんあるんですね」
「あります」
俺は短く答えた。
ここで曖昧に笑うわけにはいかない。
大丈夫です。
きっと分かります。
真実を見つけましょう。
そういう言葉は、言おうと思えばいくらでも言える。
けれど、過去を覗く依頼で一番危ないのは、機械ではない。
期待だ。
依頼人が抱えてきた希望が、真実とぶつかった瞬間、人は簡単に壊れる。
だから、最初に壊しておかなければならないものがある。
ここに来れば、ようやく救われるかもしれないという期待を。
「先に申し上げます」
俺は誓約書の一枚目を老女の前へ置いた。
「この調査は、誰かを裁くためのものではありません」
老女は、膝の上の鞄を両手で抱えていた。
古びた革の鞄だった。
その中には、三十二年前に行方が分からなくなった少女の写真が入っている。
名前は、篠宮美咲。
当時、十五歳。
最後に目撃されたのは、藤澤市の旧駅前商店街付近。
学校帰りだったという。
今回の依頼人は、その母親。
篠宮文子。
西園寺翁から紹介された時点で、少なくとも好奇心だけの依頼ではないとわかっていた。
俺は書類の文字を指で押さえながら、説明を続けた。
「警察や裁判所に提出するための証拠を作る仕事でもありません。ここで分かるかもしれないのは、過去にその場所で何が残ったかです」
「はい」
文子さんは黙って聞いていた。
薄く皺の入った手が、鞄の持ち手を握っている。
「文子さんが知りたいのは、娘さんが最後にどうなったのか、ということですね」
「……はい」
「なら、そのための説明をします」
俺は書類を一枚めくった。
「まず、観測できない場合があります」
文子さんが顔を上げた。
「できない……?」
「はい」
俺は机の横に置いてあった筒から、古い住宅地図のコピーを取り出した。
三十二年前の藤澤市駅前。
現在の地図とは、かなり違っている。
消えた商店街。
拡張された道路。
取り壊された映画館。
移転した薬局。
当時は細い路地だった場所が、今は駅前ロータリーの一部になっている。
人の記憶も、町の形も、三十二年あれば別物になる。
「哭響機は、過去を検索する機械ではありません」
俺は赤いペンで、地図の一角を示した。
「たとえば、『三十二年前に消えた娘さんを映してくれ』という使い方はできません。必要なのは、まず場所です」
「場所……」
「はい。どの場所に、どの程度の強い残響が残っているか。それを拾う機械です」
俺は地図の上に、赤い点を一つ打った。
「哭響機には、年月日や時刻を細かく入力するわけではありません。設定するのは、大まかな年代範囲と、残響レベルです」
「残響レベル、ですか」
「残った感情の強さです」
文子さんは、少しだけ眉を寄せた。
当然だ。
初めて聞く人間にとっては、分かりづらい言葉だろう。
「哭響機が拾うのは、普通の日常ではありません」
俺は言った。
「ただの風景も、何気ない会話も、笑顔の記録も、基本的には拾いません」
文子さんは、鞄を抱える手に少し力を入れた。
「事故、失踪、取り返しのつかない別れ。強い恐怖、後悔、助けを求める声。人の心が深く傷ついた瞬間」
俺は、言葉を一つずつ置いた。
「そういう強い残響だけを拾います」
「……」
「残響レベルは一から十まであります。最初は高いレベルで調べます。強い残響だけを拾うためです」
「低くすると、どうなるんですか」
「弱い残響まで拾えます。ただし、その分、関係のない残響も大量に混ざります」
文子さんは、黙って聞いていた。
「人が多く通る場所なら、喧嘩、事故、別れ、怪我、後悔、恐怖、怒り。そういうものはいくらでも残っています。レベルを下げれば下げるほど、候補は増えます。選別作業だけで、膨大な時間がかかります」
「それでも、何も出ないことも……?」
「あります」
俺は頷いた。
「レベルを一まで下げても何も引っかからない場合、その場所には哭響機で拾える残響が残っていない可能性が高い。あるいは、場所が間違っています」
「場所が……」
「はい」
俺は地図を指した。
「娘さんが駅前で最後に目撃されたとしても、そこで何かが起きたとは限りません。駅前から別の道へ進んだかもしれない。誰かと会ったかもしれない。車に乗ったかもしれない。観測地点が外れていれば、何も映りません」
文子さんは唇を結んだ。
その表情を見るたびに、俺は少しだけ嫌な気持ちになる。
目の前の人は、長い時間をかけてここまで来ている。
知りたいと願っている。
だから、期待してしまう。
ここなら分かるかもしれない。
ようやく終われるかもしれない。
けれど、哭響機は奇跡の道具ではない。
場所が違えば、何も拾えない。
残響が弱ければ、何も残っていない。
年代範囲を広くすれば、無関係な残響が混ざる。
残響レベルを下げれば、候補が増えすぎて選別に時間がかかる。
便利な機械ではない。
むしろ、面倒な機械だ。
「場所の特定には時間がかかります」
俺は次の書類を文子さんに見せた。
「古い地図の照合、現地確認、当時の新聞記事、警察への届出資料、目撃証言、役所資料。場合によっては、近隣への聞き込みも必要です。今回のように駅前が再開発されていると、当時の地点を現在のどこに当てはめるかだけで数日かかる可能性があります」
「数日……」
「はい」
俺は頷いた。
「ですから、安くはありません」
文子さんの手が、鞄の上でわずかに動いた。
金の話は、いつも言いづらい。
けれど、言わない方がずっと悪い。
「予備調査費。資料取得費。現地調査費。交通費。宿泊費。哭響機の運搬と設置費。観測が一度で済まなければ、追加の観測費もかかります」
「……おいくらくらいに」
「正確な見積もりは、予備調査の内容を確認してからになります」
俺は別紙を差し出した。
「ただ、少なくとも数万円では済みません。場合によっては、数十万円になります」
文子さんの顔が、少しだけ曇った。
当然だ。
軽い金額ではない。
それでも、ここを濁すわけにはいかなかった。
「予備調査に入る前に、まず初期費用の見積もりを出します。その時点で続けるかどうか判断してください。正式な本調査に進む場合は、改めて費用を提示します」
「途中で、やめることもできますか」
「できます」
俺は頷いた。
「ただし、そこまでに発生した実費は請求します。資料代、交通費、宿泊費、現地調査にかかった費用。調査を始めれば、結果が出なくても費用は発生します」
文子さんは、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「それと、観測記録を見た結果についても、こちらでは責任を負えません」
文子さんが、俺を見る。
「記録を、見ることができるんですか」
「観測できた場合は」
「私も……見ることが」
「できます」
俺は言った。
そして、少し間を置いた。
「ただ、正直に言えば、おすすめしません」
文子さんの目が揺れた。
「……どうしてですか」
「辛いものになる可能性が高いからです」
俺は、言葉を選びながら続けた。
「三十二年前に行方不明になった十五歳の少女です。現実的に考えれば、生きている可能性は高くありません。もちろん、断定はできません。どこかで生きている可能性も、ゼロではありません」
文子さんの手が、鞄の上で固まった。
「ですが、もし何かに巻き込まれていたのだとしたら、哭響機が拾うのは、おそらくその場所に残った強い残響です。娘さんが笑っている姿ではない。元気に暮らしている姿でもない。最後に強い恐怖や苦しみを覚えた場面かもしれません」
部屋の空気が、重くなる。
この説明をするたびに、俺は自分がひどいことを言っているような気分になる。
けれど、言わなければならない。
優しい言葉だけで依頼を受ける方が、ずっと残酷だ。
「望んだ結果にはならないかもしれません」
俺は言った。
「むしろ、望んだ結果にならない可能性の方が高いと思ってください」
文子さんは、黙っていた。
俺はさらに続ける。
「この手の依頼は、お断りすることも多いです」
「断る……?」
「はい」
俺は頷いた。
「好奇心で過去を見たい人。誰かを責めたい人。復讐したい人。自分の納得のために、他人の傷を掘り返そうとする人。そういう依頼は受けません」
文子さんは何も言わなかった。
「それに、依頼人が本気でも、俺の説明を聞いて帰る人も多いです」
俺は誓約書の束に視線を落とした。
「見られる保証はない。望んだ真実とは限らない。観測できない場合もある。費用もかかる。見たあとで、見なければよかったと思う可能性もある」
俺は、文子さんを見る。
「それでも知りたいのか。ここで一度、考えてください」
文子さんは、鞄の中から写真を取り出した。
制服姿の少女が笑っていた。
古い写真特有の色褪せがある。
それでも、その笑顔だけは妙にはっきりして見えた。
「この子が帰ってこない理由を、私は三十二年間、ずっと考えてきました」
文子さんは、写真の端を指で撫でた。
「家出だったのかもしれない。誰かと逃げたのかもしれない。事故だったのかもしれない。悪い人に連れていかれたのかもしれない。私が何か悪いことを言ったから、帰りたくなくなったのかもしれない」
声は震えていた。
けれど、涙は出ていなかった。
「どれを考えても、最後は同じところに戻るんです」
「同じところ?」
「あの子は、最後に何を思ったのか」
文子さんは、写真から目を離さなかった。
「怖かったのか。苦しかったのか。私を恨んだのか。助けを呼んだのか。それとも、私のことなんて思い出さなかったのか」
俺は、何も言えなかった。
「優しい結果じゃなくてもいいんです」
文子さんは言った。
「救われなくてもいいんです。ただ、知らないまま死ぬのが、もう嫌なんです」
その言葉で、俺は少しだけ息を吐いた。
この人は、慰めを求めているわけではない。
奇跡を求めているわけでもない。
自分が壊れるかもしれないことを、少なくとも今は理解している。
それでも、空白のまま終われないだけだ。
だからといって、すぐに頷くわけにはいかなかった。
俺は、誰かを裁くための資料を作っているわけではない。
警察の代わりをするつもりもない。
事件を解決する名探偵になりたいわけでもない。
ただ、事件に翻弄された人。
時効や迷宮入りに傷ついた人。
知らないまま、時間だけが止まってしまった人。
その人たちが、ほんの少しでも息をしやすくなるなら。
俺は、そのために記録する。
過去を。
残響を。
真相を。
たとえ、それが証拠にならないものだとしても。
今回の依頼は、西園寺翁の紹介だった。
あの老人は厄介だ。
顔が広い。
口も軽い。
お節介で、こちらの都合をあまり考えない。
けれど、依頼人を見る目だけは確かだった。
好奇心や復讐心だけの人間を、ここへ寄こすことはない。
少なくとも、この老女は本気で知りたがっている。
自分のために。
娘のために。
三十二年間、止まったままの時間のために。
「分かりました」
俺は言った。
文子さんの肩が、わずかに震えた。
「受けて……いただけるんですか」
「まだ正式受任ではありません」
俺は書類を一枚めくった。
「まずは予備調査です。当時の資料を確認して、観測できる可能性のある場所を探します。その段階で、調査継続が難しいと判断した場合は、そこで止めます」
「はい」
「その後、本調査に入るかどうかを改めて確認します」
「はい」
「それと、今すぐ署名しなくても構いません」
文子さんが顔を上げた。
「一度持ち帰って、考えてください。家族がいるなら、相談してもいい。誰にも話したくないなら、それでもいい。ですが、今日ここで決めなくてもいい」
文子さんは、写真を見下ろした。
「この説明を聞いて、依頼をやめる人もいます」
俺は言った。
「それは逃げではありません。知らないまま抱えていく方が、その人にとっては必要な場合もあります」
長い沈黙があった。
時計の針の音だけが、事務所に残る。
やがて、文子さんはゆっくりと首を横に振った。
「持ち帰ったら、私はまた三十二年前に戻ってしまいます」
その声は、小さかった。
「ここまで来るのに、三十二年かかりました。もう一度考えたら、たぶん、来られなくなります」
文子さんは、ペンを取った。
「それでも、お願いします」
手は震えていた。
けれど、文字は崩れていなかった。
篠宮文子。
俺はその署名を見て、ようやく書類を受け取った。
「お預かりします」
俺は書類をクリアファイルに入れた。
「今日は、ここまでです」
「今日、見られるわけではないんですね」
「見られません」
俺は即答した。
「場所の特定が先です。資料をお預かりします。写真、当時の新聞記事、警察に出した届出の写し、最後に目撃された場所の記憶。何でも構いません。関係がありそうなものは、できるだけ全部持ってきてください」
文子さんは鞄を開けた。
中には、封筒がいくつも入っていた。
古い新聞の切り抜き。
色褪せた写真。
当時の駅前地図。
娘の学生証のコピー。
手書きのメモ。
警察へ相談した時の記録。
どこかの誰かから届いた、根拠のない目撃情報。
三十二年分の諦めきれなさが、紙の形をして詰まっていた。
「これで、足りますか?」
「分かりません」
俺は言った。
「でも、預かります」
文子さんは、ほっとしたように息を吐いた。
それは、救われた息ではない。
まだ何も始まっていない。
けれど、誰かに初めて荷物を渡せた人の息だった。
「九藤さん」
「はい」
「あの子は……生きていると思いますか」
三十二年。
現実的に考えれば、希望を持たせるべきではない。
けれど、俺にそれを断定する資格もない。
「今は、何も言えません。ただ現実的に考えれば、難しいでしょう」
俺はそう答えた。
「けれど、見ていないことは、報告できません」
文子さんは小さく頷いた。
「……そうですね」
その顔は、少しだけ寂しそうだった。
俺は資料をまとめ、封筒に入れた。
文子さんが帰ったあと、事務所は急に静かになった。
机の上には、猫探しのメモが残っている。
ミーちゃん。
茶トラ。
赤い鈴。
現在の写真なし。
その横に、三十二年前に消えた少女の写真があった。
どちらも、人探しだ。
ただ、一方はたぶん近所の軒下にいる。
もう一方は、三十二年前の夕方にいる。
俺は奥の部屋へ目を向けた。
鍵のかかった扉の向こうに、哭響機がある。
哭声残響記録機。
九藤家に残されていた古い機械を、俺が修理し、今の形にしてしまったものだ。
できることなら、使わずに済ませたい。
あれは便利な道具ではない。
失くしたものを探す機械でもない。
正義を証明する機械でもない。
ただ、人が残した痛みを、無理やり掘り起こすだけのものだ。
それでも、知らないままでは終われない人がいる。
俺は椅子に座り直し、古い地図を広げた。
旧駅前商店街。
南口。
赤い公衆電話。
消えた路地。
取り壊された青果店。
移転した薬局。
三十二年前の町は、紙の上でだけ、まだそこにあった。
哭響機に必要なのは、まず場所だ。
だから、最初に探すべきものは真実ではない。
過去へ続く、正確な一点だった。




