第0話 最後だけでも知りたい
九藤探偵事務所は、都内の古い雑居ビルの三階にある。
駅から近いわけでもない。
看板が目立つわけでもない。
階段は狭く、エレベーターはたまに妙な音を立てる。
初めて来る人の大半は、三階まで上がったところで一度不安そうな顔をする。
ここで本当に合っているのか。
そういう顔だ。
だが、探偵事務所なんてものは、少しくらい不安そうな場所にあった方がいい。
気軽に入れる場所では、気軽な依頼ばかり来る。もちろん、普通の依頼も受けている。
人探し。
落とし物探し。
迷子のペット探し。
素行調査。
浮気調査。
今日の最初の依頼は猫探しだった。
二件目は、駅前で落とした結婚指輪の捜索。
三件目は、夫の帰宅時間が遅いという相談。
どれも探偵事務所らしいと言えば、探偵事務所らしい仕事だ。
人を探す。
物を探す。
嘘の輪郭を探す。
それが、普段の仕事だった。
午後五時を少し過ぎた頃、事務所の扉が鳴った。
その日の四人目の来客だった。
「どうぞ」
俺が返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。
入ってきたのは、老女だった。
小柄で、背筋は少し曲がっている。
それでも、服装はきちんとしていた。
古い鞄を両手で抱えるように持ち、部屋の中を一度だけ見回す。猫探しの依頼人とも、浮気調査の相談者とも違う顔をしていた。
俺は、その顔を見た時点で、少し嫌な予感がした。
「九藤探偵事務所さん、でしょうか?」
「はい。九藤です」
俺は立ち上がり、応接用の椅子を示した。
両手には、いつもの黒い手袋をしている。
左手には、その上からさらに、数珠のようにも、古い傷を隠すためのものにも見える黒い輪を巻いていた。
初対面の依頼人は、たいてい一度そこを見る。
老女も、ほんの少しだけ視線を落とした。
だが、すぐに目を逸らした。
それだけで、この人は無遠慮な人間ではないと分かった。
「突然、申し訳ありません」
「ご相談ですか」
老女は頷いた。
俺は椅子を勧めた。
老女は礼を言い、ゆっくり座る。そして、鞄の中から一枚の写真を取り出した。
「娘です」
写真の中では、制服姿の少女が笑っていた。
色褪せた写真だった。けれど、その笑顔だけは妙にはっきりしている。
「三十二年前に、いなくなりました」
俺は写真から目を上げた。
「警察には?」
「届けました。ずっと探していただきました。でも、何も分からないままでした」
老女の両手は、写真の端を押さえていた。
強く握っているわけではない。
それでも、離す気がないことだけは分かった。
「あの子がどこへ行ったのか。何があったのか。今も、分からないままです」
「……」
「もう、誰かを罰してほしいわけではありません」
老女は言った。
「ただ、あの子が最後にどこへ向かったのか。それだけでも知りたいんです」
俺は、すぐには答えなかった。
こういう依頼は、誰からでも受けるわけではない。
過去を知りたい人間は多い。
好奇心で来る人間。
復讐のために来る人間。
誰かを責めるために、過去を欲しがる人間。そういう依頼は受けない。受けてはいけない。
俺は、犯人を捕まえるためにこの仕事をしているわけではない。警察の代わりになるつもりもない。
過去を暴くことだけが目的なら、そんなものは調査ではなく、覗き見だ。
だから、俺は一つだけ確認した。
「失礼ですが、こういった仕事があることを、どなたからお聞きになりましたか?」
老女は、少しだけ迷った。
そして、静かに答えた。
「西園寺さんからです」
その名前を聞いて、俺は心の中で息を吐いた。
あのじいさんか。相変わらず、面倒なものばかり寄こしてくる。
だが、西園寺翁が紹介したのなら、少なくとも依頼人の覚悟だけは疑わなくていい。
あの人は、好奇心だけの人間をここへ送ってこない。
余計なことはする。
面倒なこともする。
だが、人を見る目だけは確かだった。
「西園寺さんは、こちらなら、最後に何があったのか分かるかもしれないと……。でも、事件を解決するためのものではないとも言われました」
老女は写真を見つめた。
「それでも、知りたいなら行ってみなさい、と」
「西園寺さんらしい言い方です」
「ご存じなんですね」
「少しだけ」
少しだけ、ではない。
かなり面倒な付き合いがある。
だが、今それを説明する必要はない。
「先に言っておきます」
俺は言った。
「ここで分かるかもしれないことは、あなたが望んでいる答えとは限りません」
老女は頷いた。
「はい」
「見られない場合もあります」
「はい」
「知ったことで、楽になるとは限りません。むしろ、知らない方がよかったと思うこともあります」
老女の指が、写真の端でわずかに動いた。
「それでも、知りたいです」
声は小さかった。
けれど、迷いはなかった。
俺は、机の引き出しを開けた。
普通の探偵業務用の書類ではない。
厚めの確認書を取り出し、机の上に置く。
黒い手袋越しに紙の端を揃える。
表紙には、こう書いてある。
『哭声残響記録機による過去残響観測調査に関する確認書および誓約書』
老女は、その文字を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「哭声……」
「こくせい、と読みます」
俺は答えた。
「正式名称は、哭声残響記録機。普段は、哭響機と呼んでいます」
「哭響機……」
「人の哭く声が、場所に残した残響を記録するための機械です」
老女は、確認書の表紙を見つめていた。
読みにくい言葉だ。
軽い言葉でもない。
だが、この仕事には、それくらい重い名前が必要だった。
「まずは説明からです」
俺は言った。
「この仕事は、普通の探偵業務とは違います」
事務所の奥には、鍵のかかった部屋がある。
その奥に、布をかけた無骨な機械が置かれている。
哭声残響記録機。
通称、哭響機。
普通の過去は映さない。
ただの風景も、穏やかな日常も映さない。
事故。
失踪。
取り返しのつかない別れ。
強い心の痛みや叫び、後悔が残った場所。
そういうものだけを、この機械は拾う。
過去は変えられない。
死者は戻らない。
犯人を裁けるとは限らない。
それでも、知らないままでは終われない人がいる。
俺は確認書の一枚目を開いた。
「九藤探偵事務所は、真相を報告する場所です」
老女は、写真を胸元に引き寄せた。色褪せた少女の笑顔が、薄い夕方の光の中に沈んでいる。
「それでもよければ、話を聞きます」
老女は、深く頭を下げた。
「お願いします」
その日、九藤探偵事務所に、普通ではない依頼が来た。
三十二年前に消えた少女。
止まったままの母親の時間。
そして、誰にも届かなかったかもしれない声を探すための調査。
すべては、その一枚の写真から始まった。




