◆第32話【最終話】◆
母親は学校に呼び出されたらしく、頭から湯気が出そうなほどに怒っていた。
夜中になってから家に帰ると、1時間以上正座のままグダグダと説教を受けた。
携帯に何度も着信が入っていたのは、もちろん母親からだった。
「お母さんはいいよね、女だから……」
僕は思わずそう呟いてしまった。
「何言ってるの? あなただって女でしょ」
母親は僕の妙な呟きに、怒りの顔を急激に静めて怪訝な表情を浮かべた。
僕はそのまま立ち上がって、階段を駆け上がった。
母親は、その場から動けずにリビングから僕の後姿を見ているだけだった。
携帯の着信者はもう一人いた。
昌美だ。彼女はメールも入れてよこしたが、その夜僕は返信をしなかった。
結局僕は、あれ以来学校には行っていない。
このまま転校の書類が出されて、あの学校とはオサラバだ。
引越しの日、朝一で来た引越しセンターの連中は、次々に家の荷物をトラックに運び込んでいた。
外国製の家具などは、クッション材で厳重に梱包している。
父親は、一足先に引っ越し先へ仕事場を替えて、ホテル暮らしをしている。
もし家にいたら、僕はどれだけ怒鳴られていた事だろう。
あっという間に家の中はがらんどうになって、僕の部屋にも小さな鞄だけが残った。
何も無い部屋は以外に広かった。
ここへ越してきた時、既にベッドや机は入っていたので、この殺風景な部屋を見るのは初めてだ。
カーテンの無くなった剥き出しの窓から見える空は、まるで簡素な額縁に入った安っぽい風景画のようで、何だか奇妙な景色として僕の目に映っていた。
宣伝用の飛行船が、ゆっくりと動きながら、空に浮かんでいた。
不意に携帯の着メロが鳴った。
昌美からのメールだった。
彼女とも、学校を後にして以来会っていない。
少しだけ未練はあるが、これでいいと思っていた。
『外にいるよ』
外? 僕は、部屋の窓に近づいて外を見下ろした。
通りに昌美が立っているのが見えたので、僕は母親に気づかれないようにそっと表へでた。
「学校は?」
「歯医者に行くって言って、早退した」
昌美はそう言って笑った。
近くの公園まで行って、ベンチに腰掛けた。
風は涼しくなったが、陽差はまだ暑かった。
「寂しくなるなぁ、アッコがいなくなったら」
「昌美は仲いい人がたくさんいるから、大丈夫だよ」
「そんなの、上辺だけだよ」
昌美はそう言って寂しそうに笑った。
僕は、彼女のその表情が嬉しかった。
僕がいなくなる事を、寂しがってくれる人が、ここにいると言う事が。
「ねぇ、まだ今日時間あるの?」
昌美が言った。
* * * *
小さなゴンドラは、大きな滑車に揺られながらまるで時間が止まったように見えた。
でもそれは、確かに少しずつ動いていて、気がつくと元いた場所に戻ってくる。
僕たちはみなとみらいで観覧車に乗った。
次第に人並みは小さくなって、空が近くに感じた。
何時もと違う水平線が見えて、海が大きくなったような気がした。
そして、自分が暮らすちっぽけな大地を見下ろして、些細な優越感に浸る。
ゴンドラの中では確かに時間が止まっていた。
動いている小部屋の、その中の空間だけが魔法を掛けられたみたいに止まるのだ。乗ってから元の場所へ帰るまでは、二人が貰った二人だけの時間だ。
上に向かう心地よさ、下へ向かう切なさ……
「あたしさ、前から亜希子とこれに乗ってみたかったんだ」
「どうして? オサムと乗ればよかったジャン」
「だってさ、こんな狭い所でこんな高い場所、気が置けない人とじゃないと乗れないよ」
昌美はそう言って少しテレ笑いを浮かべた。
彼女の表現が、僕には嬉しかった。
少なくとも、僕は彼女にとって気が置けない相手だったのだ。
「昌美」
「なに?」
「あ、あたしさ……」
僕は一端言葉を呑み込んでから、再び口を開いた。
西に傾いた逆光の太陽が眩しかった。
「あたし、昌美の事……好き」
僕はそう言ってから、思わず「えへへ」と滑稽に笑った。
昌美は僕の顔をじっと見つめてから、少しずつ遠ざかる空を仰いで
「あたしも好き!」
そう言って笑った。
昌美がどう受け止めたか判らなかったけど、いや、きっと女同士の友情の「好き」と思っただろう。
それでもよかった。
僕は初めて女性に対して自分の気持ちを言葉で打ち明けたのだ。
そして捉え方が違うとしても、彼女も僕を好きだと言ってくれた。
それだけで充分だった。
地上に到達すると、ゴンドラに掛けられた魔法は解けて、僕たちの時間が日常の喧騒に再び呑み込まれる。
その時僕は、少しだけ横浜を離れたくないと思った。
「メールしてね」
「うん。昌美も」
瞳に溜まった涙が零れ落ちないうちに、昌美は大きく手を振ってから、通りを駅に向かって駆けていった。
この先もう会うことが無いとしても、彼女を好きになってよかったと思った。
そして、この横浜で僕は一人ではなかったのだと、今頃になって気づいた。
僕の横浜での生活はこれで終わる。
半年ほどの短い生活は、あまりにも心に残るモノが多くて、まるでこの地で育ったような錯覚さえ起こる。
夕方の新幹線で、僕は母親と一緒に、これから暮らしが始まる東北の町へと発った。
トンネルを幾つも抜けると、窓の外には田畑が広がっていて、いかにも長閑な風景が続いていた。
遠くに聳える山々の向こう側へ静かに沈んでいく夕日が、なんだかとても切なく感じて、僕は少しだけ目の奥が熱くなって、朱色の光りを浴びながら瞬きをするのをじっと堪えていた。
それはきっと、空を染め上げる紅い太陽が、洋介と見た湘南の夕日に似ていたからかもしれない。
END
ここまで読んで下さった方々には、大変感謝いたします。ここで、一端お話は完結いたしますが、亜希子の話は【みちのく編】へ続きます。しかしそれは、しばらくお時間をいただきます。
みちのく編は、言わずと知れた、刑部真夕に出会う話です。
タイトルは未定ですが、「Girl」が付いたらそれだと思ってください。
お付き合いいただき、有難う御座いました。