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第2話「鬼」

母が着替えを持って戻ってきたときには、勇人の涙は止まっていた。

「今日は早めに休みなさいね」

渡された服を受け取り、勇人はうなずいた。

祖母もいつもの声で、「そうしなさい」と言った。

けれど、部屋へ戻って着替えても、眠る気にはなれなかった。

勇人は机の前に座り、お守りを掌に載せた。

刺繍を指でなぞってみたが、もう光らなかった。

あの声も、聞こえなかった。

控えめに戸をたたく音がした。

「勇人。少し、話してもいいかい」

祖母の声だった。

「うん」

勇人が戸を開けると、祖母は中へ入り、ベッドの端に腰を下ろした。

勇人も机の椅子へ戻り、祖母に向き直った。

廊下の向こうでは、テレビの音がしていた。

「ばあちゃん、知ってたの?」

祖母は勇人の掌を見た。

「そのお守りのことなら、私も小さい頃から聞かされてきたよ」

勇人は祖母へ顔を向けた。

「じゃあ、俺があんなふうになることも?」

祖母はすぐには答えなかった。

「……本当に、この目で確かめる日が来るとは思っていなかったけれどね」

勇人はお守りへ視線を落とした。

いつもなら、祖母の昔話をそこまで真剣に聞くことはなかった。

けれど、今は次の言葉を待っていた。

「どんなことがあったのか、聞かせてくれるかい」

勇人は、雄太の足元から黒い靄が立ち上ったことを話した。

笑った顔のまま、別のものに変わってしまったこと。

何度呼びかけても、襲ってきたこと。

祖母は途中で口を挟まず、聞いていた。

「あの声に言われて、天装って叫んだら……鎧みたいなのが出てきて」

勇人は空いた手を、何かを握る形にした。

「剣も出てきたんだ」

その手を見つめるうちに、勇人の声が小さくなった。

「でも、中に雄太がいるから。斬ったら、あいつまで……って」

剣を振り下ろす直前の感触が、まだ手に残っていた。

「それでも、斬ったんだよ。俺」

祖母は静かにうなずいた。

「雄太君は、どうなった?」

勇人はあのときの様子を思い返しながら答えた。

「戻った。黒いやつだけ離れて、どっかに飛んでいった」

勇人は祖母を見た。

「雄太には、傷もなくて。あんなに思い切り斬ったのに」

祖母の目が、お守りへ移った。

「悪しきものを断つ剣」

確かめるような口調だった。

「そう、伝えられているんだよ。その石に宿る力は」

勇人は、布越しに小さな石を押さえた。

「……これに?」

祖母は、勇人が押さえているお守りを見た。

「草薙の剣の力を宿した石。そして、それを包む天の羽衣。どちらも、うちに伝わってきた大切なものだよ」

勇人はお守りを持ち上げ、薄い布を見直した。

昨日、祖母から渡されたときには、きれいなお守りだとしか思わなかった。

「じゃあ、俺が斬ったのは……」

祖母は勇人の言葉を受けて答えた。

「雄太君に取り憑いていたものだったんだろうね」

勇人はしばらく黙っていた。

やがて、小さく息を吐いた。

「だから、助けられたんだ」

祖母はうなずいた。

けれど、その顔には笑みがなかった。

「ばあちゃん?」

呼ばれて、祖母は勇人へ目を戻した。

「もう一つ、伝えられていることがあるんだよ」

勇人はお守りを掌へ戻した。

「世が混沌とするとき、クサナギが現れ、悪しきものを断つ」

勇人は、その名を口の中で確かめた。

「……クサナギ」

初めて聞く名だった。

「それが、あの鎧の……?」

祖母は静かに答えた。

「昔、この地を守った武者の名だよ」

祖母は、勇人の顔をじっと見ていた。

その視線に、勇人は少し身じろぎした。

「それって、また今日みたいなことが起きるってこと?」

祖母は膝の上で手を重ねた。

「私にも、そこまでは分からない」

テレビから笑い声が聞こえた。

勇人は閉じた戸へ目を向け、また祖母に向き直った。

「父さんと母さんは?」

祖母も一度、閉じた戸へ目を向けた。

「昔話と、お守りのことは知っているよ。でも、あんたに今日何が起きたかは、知らない」

勇人は、手当てされた掌を見た。

「母さん、びっくりしてた」

祖母は勇人の包帯を見た。

「そりゃあ、あんな格好で帰ってきたんだから」

そこだけは、いつもの祖母の口調だった。

勇人の口元も、少し緩んだ。

雄太が助かった。

その事実が、遅れて胸に広がっていく。あの場で何もできなかったらと思うと、今でも息が詰まりそうだった。助けられたのだという安堵が、ようやく身体の力を抜いていく。

「今日は、もう休みなさい」

祖母が部屋を出ると、勇人はお守りを机の上へ置いた。

悪しきものを断つ剣。

雄太を助けられた理由は、分かった。

けれど、また同じことが起きたら。

次も、自分は間に合うのか。あの恐ろしいものを前にして、今度も立っていられるのか。考えるほど、胸の奥が冷たくなった。

勇人は、手当てされた掌をそっと開いた。

傷が引きつり、指を伸ばしきる前に止まった。

この痛みが消えても、あの場面は消えない気がした。雄太を助けられた安堵の裏で、いつかまた誰かを失うかもしれないという恐れが、掌の傷のように残っている。

勇人はお守りと傷ついた手を交互に見つめた。

それから、何も答えてくれないお守りを握りしめ、机の明かりを消した。

朝、制服のボタンを留めようとして、勇人は顔をしかめた。

指を曲げると、掌の傷が引きつれた。

昨夜は気づかなかったところまで痛む。腕を上げると肩が、腰をかがめると脇腹が痛かった。

机の上には、お守りが置いてあった。

勇人はしばらく見つめてから、紐を首にかけた。

服の中へ入れる前に、そっと握ってみる。

光らなかった。

声もしなかった。

階下から、母が呼んだ。

「勇人、ご飯できてるよ」

勇人は階下へ声を返した。

「今行く」

勇人は机から鞄を持ち上げた。

掌に痛みが走り、反対の手に持ち替えた。

食卓では、父が先に朝食を食べていた。

勇人が椅子を引くと、包帯の巻かれた手に目を向けた。

「昨日より痛むか」

勇人は父へ顔を向けた。

「……ちょっと」

勇人は椅子に腰を下ろし、傷に触れないように指を曲げた。

「今日は走るなよ」

父の言葉に、勇人はうなずいた。

母が勇人の前に味噌汁を置き、その手の包帯に目を向けた。

「体育も、無理しないで先生に話しておきなさい」

勇人は母に答えた。

「分かってる」

勇人は箸を取った。

けれど、うまく力が入らなかった。

卵焼きを一つ落とす。

持ち直そうとすると、隣からスプーンが差し出された。

祖母だった。

「これを使いなさい」

勇人は箸を置き、受け取った。

「……ありがと」

祖母は、それ以上何も言わずに自分の席へ戻った。

昨夜、聞いた言葉が浮かんだ。

悪しきものを断つ剣。

あの剣が、雄太を助けた。

けれど、手に残っているのは、剣を握った感触だけではなかった。

殴られた衝撃。

地面に叩きつけられた痛み。

目の前へ迫ってきた、雄太ではない顔。

勇人は、口へ運びかけたスプーンを止めた。

「勇人?」

母の声に顔を上げる。

「遅刻するよ」

時計を見て、慌ててご飯を頬張った。

教室の戸を開けると、雄太がこちらを向いた。

目が合った瞬間、勇人は少しだけ息を吐いた。

いつもの顔だった。

いつもの席に座って、こちらを見ていた。

「おはよう」

勇人が声をかけると、雄太もうなずいた。

「おはよう。……手、大丈夫?」

雄太の視線を追って、勇人は自分の手を見た。

「箸が使いにくい」

鞄を机に置き、包帯を巻いた手を少し持ち上げる。

「朝、スプーン出された」

雄太の視線が、その手にとどまった。

「……ごめん」

勇人は椅子を引く手を止めた。

返事をする前に、昨日の雄太の声を思い出した。

俺が悪いのかな。

「雄太が謝ることじゃないだろ」

雄太は机へ目を落とした。

勇人も腰を下ろした。

少し迷ってから、声を落とす。

「ばあちゃんに聞いたんだ。昨日のこと」

雄太が顔を上げた。

「あのお守り?」

勇人は制服の胸元にそっと触れた。

「うん。全部は分かんないけど……あの剣、人に取り憑いたものを切り離せるらしい」

雄太は、自分の手を見た。

指を開き、また握った。

「じゃあ、俺にも何かが……」

勇人は小さく答えた。

「たぶん」

言い切れるほど、自分にも分かってはいなかった。

雄太は何かを考えるように黙った。

やがて、隣の席へ顔を寄せた。

「勇人。俺、昨日――」

そこへ、横から声がかかった。

「塚口」

二人が振り向くと、昨日、動画を撮った男子が立っていた。

スマートフォンは持っていなかった。

「あの動画、送ったやつには消してって言った」

雄太の肩が、わずかに上がった。

男子は続けた。

「でも、その先に送ったやつもいて。全部消えたかまでは、まだ分かんない」

雄太は膝の上で手を握った。

「……昨日、また来た」

男子は顔を曇らせた。

「そっか」

短い沈黙が落ちた。

「勝手に撮って、ごめん」

雄太はすぐには返事をしなかった。

しばらく机を見つめてから、男子へ顔を向けた。

「もう、撮らないで」

男子は雄太の言葉を受け止めるようにうなずいた。

「うん」

雄太は視線をそらさなかった。

「あと……まねも、しばらくやりたくない」

男子はもう一度、うなずいた。

「分かった」

自分の席へ戻る背中を、雄太は見送った。

勇人は隣で待っていた。

雄太が前を向いてから、尋ねた。

「先生にも話す?」

雄太は少し考え、うなずいた。

「……一緒に来てくれる?」

勇人は雄太を見て、すぐに答えた。

「うん」

勇人は今度こそ椅子に深く座った。

胸元のお守りは、静かなままだった。

職員室から戻る途中、二人は廊下の窓際で立ち止まった。

担任は、まず話を聞いてくれた。

動画がどこまで送られているのか、確認するとも言っていた。

それで全部が終わったわけではない。

教室へ戻れば、また誰かに何かを言われるかもしれなかった。

雄太は窓の外を見たまま言った。

「昨日さ。途中から、あんまり覚えてないんだ」

勇人は雄太を見た。

「でも、笑い声は聞こえてた。ずっと」

校庭で、ボールが弾んだ。

遠くから誰かが名前を呼ぶ声がした。

「誰が笑ってるのかも分かんなくて。やめろって言っても、もっと大きくなる感じで」

雄太は、窓枠に触れかけた手を引っ込めた。

「その中で、お前の声がした」

勇人は思わず聞き返した。

「俺の?」

雄太がこちらを向いた。

「うん。俺の名前、呼んでた」

勇人は、あのときの自分の声を思い出そうとした。

必死だった。何を叫んだのか、はっきりとは覚えていなかった。

ただ、雄太に戻ってほしかった。

「……聞こえてたんだ」

雄太はうなずいた。

それから勇人の包帯へ目を向け、唇を結んだ。

「また、ああなったらどうしよう」

勇人は答えられなかった。

もう大丈夫だと、言ってやりたかった。

けれど、自分にも分からなかった。

窓の外から、冷たい風が入ってきた。

「……ばあちゃんに、聞いてみる」

勇人は言った。

「俺も、分かんないことばっかだから。一緒に聞こう」

雄太がこちらを見た。

「……うん。俺も、何が起きたのか知りたい」

その返事に、勇人もうなずいた。

「今日、帰りに寄ってけよ」

雄太は勇人の方へ向き直った。

「分かった」

雄太が答えると、予鈴が鳴った。

二人は窓から離れ、教室へ歩き出した。

戸の手前で、雄太が小さく足を緩めた。

勇人も、その隣で立ち止まった。

中では、いつもどおりの話し声がしていた。

やがて雄太が戸に手をかけた。

勇人は、その後に続いた。

放課後、勇人は昇降口で靴を履き替えていた。

少しかがんだだけで、脇腹が痛んだ。

息を止めて靴のかかとを直していると、隣から手が伸びてきた。

「鞄、持っとく」

雄太が、勇人の肩からずり落ちかけた鞄を支えた。

「ありがと」

勇人は背筋を伸ばしてから、鞄を受け取った。

二人で校門を出る。

昨日と同じ道だった。

しばらく歩くと、雄太の足が遅くなった。

道の先に、あの側溝があった。

勇人も歩みを緩めた。

コンクリートの縁が欠けている。

塀の下には、細かな破片がまだ残っていた。

昨日、ここで何が起きたのか。

その跡だけが、昼間の道に取り残されていた。

雄太は側溝の暗がりを見ていた。

勇人も、そこから目を離せなかった。

お守りのある胸元へ、思わず手が伸びた。

何も動かなかった。

自転車のベルが鳴り、二人は道の端へ寄った。

通り過ぎた自転車を見送ってから、勇人が口を開いた。

「……こっちから行こうか」

一本手前の角を指さすと、雄太はうなずいた。

「うん」

二人は並んで角を曲がった。

「ただいま」

勇人が玄関を開けると、奥から祖母が顔を出した。

「おかえり」

その後ろから、雄太が頭を下げた。

「お邪魔します」

祖母は雄太にも笑顔を向けた。

「雄太君。いらっしゃい」

祖母はいつものように二人を迎えた。

けれど、勇人の顔を見ると、その場で足を止めた。

「ばあちゃん。昨日のことで、聞きたいことがあるんだ」

祖母の視線が、勇人から雄太へ移った。

雄太は鞄の持ち手を握り直した。

「俺にも、聞かせてもらえますか」

祖母は二人の顔を見てから、うなずいた。

「上がりなさい」

居間の座卓に、湯呑みが三つ並んだ。

雄太は膝の上に両手を置いていた。

いつもなら、勇人と並んでゲームの画面を見ている場所だった。

祖母が向かいに腰を下ろす。

「話せるところからでいいよ」

雄太は一度、隣の勇人を見た。

勇人がうなずくと、少しずつ話し始めた。

動画のこと。

嫌だと言っても、分かってもらえなかったこと。

帰り道で、また動画が届いたこと。

祖母は、途中で口を挟まなかった。

「それで……もう、何を言っても無駄だって思って」

雄太は自分の手へ目を落とした。

「足が冷たくなったんです」

勇人が顔を向けた。

「冷たく?」

雄太はうなずいた。

「水に入ったみたいに。足から、だんだん上がってきて……その後は、よく覚えてなくて」

言葉が途切れた。

雄太は湯呑みに手を伸ばしたが、持ち上げずに引っ込めた。

祖母が静かに尋ねた。

「今も、その感じはするかい」

雄太は首を振った。

「今は、しません」

祖母は雄太の返事を聞いて、静かにうなずいた。

「そうかい」

祖母は急かさずに待った。

雄太は唇を湿らせた。

「でも、また同じことを考えたら……また、ああなるんでしょうか」

勇人は膝の上で手を握りかけ、傷の痛みに力を緩めた。

祖母はすぐには答えなかった。

「同じこと、というのは?」

雄太の声が小さくなった。

「あいつらなんか、いなくなればいいって」

壁の時計が鳴った。

雄太は顔を上げなかった。

「昨日、そう思ったんです」

勇人は雄太を見た。

教室で笑っていた顔が浮かんだ。

その帰り道で、何かを言いかけてやめた顔も。

祖母は、座卓に置いていた手を膝へ戻した。

「そこまで、つらかったんだね」

雄太の肩が動いた。

「……でも」

その先が続かなかった。

祖母は少し身をかがめ、雄太の顔を見た。

「そう思ったことと、君があんな姿にされたことを、一緒にしてはいけないよ」

雄太がゆっくり顔を上げた。

「何が取り憑いたのか、まだ確かめなければ分からない。けれど、嫌なことを嫌だと思うたびに、自分を疑っていたら、休まるときがないだろう」

雄太は膝の上の手を見つめた。

「今日も、教室に戻るのが嫌でした」

祖母は雄太の話に耳を傾けた。

「うん」

祖母がうなずくと、雄太はようやく息を吐いた。

「また、何か言われるんじゃないかって」

勇人は口を開いた。

「先生には、一緒に話してきた」

祖母がこちらを見る。

「動画のこと、確認してくれるって」

祖母は二人を見て、表情を和らげた。

「そう。それはよかった」

その声は、少し和らいでいた。

雄太は湯呑みを持ち上げた。

今度は、両手で包むようにして口をつけた。

「ばあちゃん」

雄太が湯呑みを置いてから、勇人は尋ねた。

「昨日、雄太から黒いものが出てったんだ」

祖母の表情が変わった。

「黒いもの?」

勇人は、空へ飛び去ったものの形を思い浮かべた。

「煙みたいな……でも、勝手に動いてた。剣で切り離した後、飛んでったんだ」

勇人は窓の向こうへ目を向けた。

「あれ、消えたんじゃなかった」

祖母は黙っていた。

座卓の木目へ目を落とし、何かを思い返しているようだった。

やがて、立ち上がった。

「少し待っていておくれ」

廊下へ出る足音が遠ざかった。

雄太が、勇人へ顔を寄せた。

「お前、それ見てたんだ」

勇人は雄太に答えた。

「うん。でも、追いかけられなかった」

勇人は包帯に触れた。

「雄太が倒れてたから」

雄太は何か言いかけたが、勇人が先に続けた。

「目、開けてくれてよかった」

雄太は口を閉じた。

しばらくして、小さくうなずいた。

祖母が戻ってきたとき、その手には布に包まれたものがあった。

座卓の空いているところへ置き、結び目をほどく。

中から出てきたのは、薄い冊子だった。

表紙は茶色く変わり、綴じ糸の一部がほつれていた。

祖母は端を押さえながら、慎重に開いた。

勇人は身を乗り出した。

細い筆で書かれた文字が並んでいた。

読める字もあったが、ほとんどは形さえつかめなかった。

「これも、うちにあったの?」

祖母は開いた頁に手を添えた。

「私の祖母から預かったものだよ。昔からの言い伝えを、書き留めてある」

祖母の指が、ある頁で止まった。

文字の脇に、小さな絵があった。

角のある顔。

その周りに、煙とも雲ともつかない黒い線が描かれていた。

勇人は、その絵から目を離せなくなった。

「……鬼?」

祖母はうなずいた。

「昔、静岡で人を苦しめた鬼の話がある」

雄太が湯呑みから手を離した。

「それが、俺に取り憑いたんですか」

祖母は冊子から顔を上げた。

「まだ、そうとは言えないよ」

それから、頁の文字を指でたどった。

「ただ、鬼そのものが姿を現さなくても、残った力が人に災いをもたらす、と伝わっている」

勇人は絵の周りの黒い線を見た。

雄太の体から抜け出し、空へ飛んでいったもの。

あのときは、目の前の友達が元に戻ったことしか考えられなかった。

「残った力……」

つぶやくと、祖母は勇人を見た。

「君が見たものがそれなのか、私も確かめたい」

雄太が膝の上で手を組んだ。

「もし、それだったら。ほかの人にも、取り憑くんですか」

祖母は答えるまでに、少し間を置いた。

「……その恐れはある」

勇人の胸元で、お守りが重く感じられた。

服の上から触れてみた。

温かくも、冷たくもなかった。

隣では、雄太が冊子の絵を見つめていた。

勇人は祖母へ向き直った。

「この本、もう少し見せて」

祖母は冊子を二人の方へ寄せた。

「古いものだから、ゆっくりね」

勇人は傷のない方の手を伸ばした。

雄太が反対側の頁を、そっと押さえた。

頁をめくると、山道の絵が現れた。

道の両側に木々が描かれ、その奥に、小さなお堂があった。

中に立つ像の頭は丸く、片手に杖を持っていた。

「これ、お地蔵さん?」

勇人が尋ねると、祖母は絵をのぞき込んだ。

「そうだよ。宇津ノ谷のお地蔵様」

雄太が顔を上げた。

「宇津ノ谷って、トンネルのある?」

祖母は雄太へ顔を向けた。

「うん。あの辺りは、昔から峠を越える人が通っていたからね」

祖母は、絵の横に書かれた文字へ指を添えた。

「その道に鬼が出て、人を苦しめていた。それを、お地蔵様が退治なさったという話だよ」

勇人は前の頁へ目を戻した。

角のある顔。

その周りに描かれた、黒い線。

「じゃあ、鬼はもういないんだよね」

祖母は冊子を見つめたまま答えた。

「退治されたと、私は聞いているよ」

勇人は祖母の顔を見た。

「でも、力だけ残った?」

祖母は慎重に言葉を選んだ。

「その話と、君が見たものがつながっているのか。そこは、まだ分からない」

祖母は、二人の間にある冊子へ目を落とした。

「ここに書いてあることも、誰かが見聞きして、後の人へ残したものだからね」

雄太はお堂の絵を見ていた。

「……行ってみたら、何か分かるかな」

勇人も同じことを考えていた。

お守りをもらうまでは、そんな昔話を自分に関係のあるものとして聞いたことがなかった。

けれど今は、絵の中の黒い線を、ただの墨だと思えなかった。

「土曜、行ってみる?」

勇人が尋ねると、雄太はこちらを見た。

「ゲームの続きは?」

勇人は雄太に答えた。

「帰ってからでもできるだろ」

雄太は冊子へ視線を戻し、それからうなずいた。

「……そうだな」

祖母は二人を交互に見た。

「行くなら、私も一緒に行こう」

勇人は少し驚いて顔を上げた。

「ばあちゃんも?」

祖母は冊子へ視線を落とした。

「君たちだけで、この本を持っていかれたら心配だからね」

祖母が頁の端を押さえると、勇人は慌てて手を離した。

「破いてないって」

祖母は口元を緩めた。

「分かってるよ」

雄太も、小さく笑った。

冊子を包み直したところで、玄関の開く音がした。

「ただいま。勇人、帰ってる?」

母の声に、勇人が廊下へ顔を出した。

「帰ってる。雄太もいる」

母は買い物袋を下ろし、居間をのぞいた。

「あら、雄太君。いらっしゃい」

雄太が座ったまま頭を下げる。

「お邪魔してます」

母は雄太の顔を見て、思い出したように言った。

「ちょうどよかった。ハンカチ、洗っておいたの」

母は廊下の棚から、畳まれたハンカチを持ってきた。

勇人の前へ差し出す。

「自分で返しなさいね」

勇人は母からハンカチを受け取った。

「分かってるって」

勇人は雄太へ向き直った。

「これ、ありがと」

雄太はハンカチを広げた。

薄く残った染みへ目を留めてから、畳み直した。

「手、ちゃんと治せよ」

勇人は包帯を巻いた手を見せた。

「治してる途中だよ」

雄太は少し口元を緩めた。

母は二人の前に、小袋のせんべいを置いた。

「食べる? 夕飯前だから、少しだけね」

雄太が小袋を一つ取った。

「いただきます」

雄太は袋の封を切った。

勇人も袋をつまみ、端を引いた。

開かなかった。

もう一度力を入れようとすると、雄太が手を差し出した。

「貸せよ」

勇人は素直に袋を渡した。

雄太が封を切り、中身がこぼれないように戻してくれる。

「ほい」

勇人は開けてもらった袋を受け取った。

「ありがと」

せんべいをかじると、乾いた音がした。

母が買い物袋を片づける音。

祖母が湯を注ぐ音。

雄太はせんべいを持ったまま、しばらくそれを聞いていた。

夕方、勇人は雄太を家の前まで見送った。

門を出たところで、雄太が振り返った。

「じゃあ、土曜」

勇人は門の内側から答えた。

「時間、後で送る」

雄太はうなずいた。

けれど、そのまま立っていた。

「どうした?」

尋ねると、雄太は鞄の紐を肩にかけ直した。

「今日、来てよかった」

勇人は少し考えてから答えた。

「まだ、分かんないことばっかだけどな」

雄太は小さくうなずいた。

「うん」

雄太は足元へ目を落とした。

「でも、俺だけで考えてたら……また、変な方に考えてたと思う」

勇人は何も言えず、雄太を見た。

雄太が顔を上げる。

「ばあちゃんにも、ありがとうって言っといて」

勇人は少し首をかしげた。

「自分で言ってたじゃん」

雄太は勇人を見て言った。

「もう一回」

勇人はうなずいた。

「分かった」

雄太が手を上げた。

勇人も傷のない方の手を上げ、角を曲がるまで見送った。

家へ戻ると、祖母が玄関に立っていた。

「雄太が、もう一回ありがとうって」

祖母は玄関の外へ目を向けた。

「そうかい」

祖母は、雄太の帰っていった方をしばらく見ていた。

勇人は靴を脱ぎかけて、手を止めた。

「ばあちゃん」

祖母がこちらを見る。

「あれが、ほかの誰かに取り憑いたら……」

言いかけると、脇腹の痛みを思い出した。

昨日、目の前に振り下ろされた腕。

受け止めきれず、地面を転がったときの息苦しさ。

勇人は、襟元からお守りの紐を引き出した。

「また、俺にできるかな」

祖母は、お守りを見た。

それから勇人へ視線を戻した。

「昨日と同じようにできるかは、私にも分からないよ」

勇人はうつむいた。

祖母の手が、その肩にそっと触れた。

「だから、分かったことは話しておくれ。私も、知っていることをもう一度調べてみる」

勇人は小さくうなずいた。

祖母は手を離し、廊下の奥を指さした。

「まずは着替えておいで。傷も見ておかないと」

その頃。

商店街の裏手で、一人の青年が段ボール箱を積んでいた。

制服の胸には、店の名札が付いていた。

開け放した搬入口の向こうから、店長の声がした。

「まだ終わってないのか」

青年は手を止め、振り返った。

「返品の仕分けが残っていて。先に売り場に戻るように言われたので――」

店長が青年の説明を遮った。

「言い訳はいいから。今日中に片づけて」

店長は、返事を待たずに奥へ戻っていった。

青年は壁の時計を見た。

とっくに、上がるはずの時刻を過ぎていた。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

画面には、同じ時間に働いていた同僚からのメッセージが出ていた。

『先帰る。あとはよろしく』

青年は画面を消した。

足元の箱には、自分が担当したものではない商品まで詰め込まれていた。

昼間、誰かが間違えて貼った伝票も、そのままだった。

青年はしゃがみ込み、伝票を剥がし始めた。

紙が途中で破れた。

「……何で、俺ばっかり」

指先で残った紙をこすった。

うまく剥がれなかった。

搬入口の明かりが、背後で消えた。

「裏、閉めといて」

奥から声がした。

青年は返事をしなかった。

積まれた箱の隙間で、黒い靄が揺れた。

それは床を薄く這い、青年の靴先へ触れた。

青年の手が止まった。

冷たいものが、足首を包んでいた。

青年の手から、伝票が落ちた。

足首にまとわりついた冷たさが、膝へ上がってきた。

慌てて立とうとしたが、脚に力が入らなかった。

棚へ手をつく。

指先が滑り、積まれていた箱が一つ落ちた。

中の商品が、床へ散らばった。

「……また、俺が片づけるのかよ」

声が漏れた。

暗がりの中で、黒い靄が膨らんだ。

作業着の裾から入り込み、背中を覆ってゆく。

青年は胸元をつかんだ。

息が苦しかった。

喉の奥に、言えずにのみ込んできた言葉が詰まっていた。

奥から、店長の声がした。

「何やってるんだ。商品、傷つけるなよ」

青年は顔を上げた。

暗い搬入口からは、店長の姿は見えなかった。

明かりのついた店内だけが、遠くに見えた。

「だったら……」

棚をつかむ手に、力がこもった。

金属がきしんだ。

「一つくらい、自分でやれよ」

青年の背が大きく膨れ上がった。

商店街の時計を見て、雄太は歩く速度を上げた。

思ったより遅くなっていた。

家へ連絡を入れようと、鞄からスマートフォンを取り出す。

そのとき、脇道の奥で何かが倒れる音がした。

雄太は顔を向けた。

店の裏口から、男がよろめくように出てきた。

エプロンを着けている。

後ろを振り返りながら、何かを叫んでいた。

「よせ! 何なんだ、お前!」

暗い搬入口で、大きな影が動いた。

雄太は足を止めた。

人の形をしていた。

けれど、肩が異様に盛り上がり、腕は膝の下まで垂れていた。

幾重にも重なった灰色の板が、胴を締めつけるように覆っている。

その隙間から、黒い靄が漏れていた。

雄太の指から、スマートフォンが滑りかけた。

昨日、足元から上がってきた冷たさがよみがえった。

動けなかった。

目をそらすこともできなかった。

異形が、裏口の扉へ手をかけた。

金属が曲がる音がした。

次の瞬間、扉が枠ごと引き剥がされた。

男が頭を抱えてしゃがみ込んだ。

投げ捨てられた扉が壁にぶつかり、耳をつんざく音が狭い道に響いた。

雄太は身をすくめた。

通りの向こうで、誰かが悲鳴を上げた。

その声に、ようやく足が動いた。

雄太は脇道の入口から離れ、近くの建物の角へ身を寄せた。

震える指で画面を開く。

勇人の名前を押した。

*

制服のシャツを脱ぎかけたところで、スマートフォンが鳴った。

勇人は片袖を戻し、ベッドの上へ手を伸ばした。

画面には、雄太の名前が出ていた。

「もしもし。忘れ物?」

返事の代わりに、荒い息が聞こえた。

勇人はシャツから手を離した。

「雄太?」

電話の向こうで、雄太がようやく声を絞り出した。

『勇人……昨日の俺みたいなのがいる』

勇人は動きを止めた。

電話の向こうで、何かが割れた。

『店の裏から出てきて……人が、まだ近くにいる』

勇人はスマートフォンを耳に押し当てた。

「どこに?」

雄太が店の名前を答えた。

勇人も知っている場所だった。

『俺、今、向かいの――』

勇人は雄太の言葉を遮った。

「そこ、危なくない?」

勇人の声が強くなった。

電話の向こうで、雄太が息をのんだ。

『今は離れてる。建物の陰にいる』

勇人は電話の向こうの物音に耳を澄ませた。

「近づくなよ」

勇人は胸元のお守りを握った。

「俺、行くから」

雄太がためらうように言った。

『勇人、手……』

勇人は短く答えた。

「分かってる」

言ってから、自分の包帯が目に入った。

勇人は一度、息を吸った。

「……とにかく、雄太は離れてて。電話、またかける」

通話を切る。

胸元で、お守りが揺れていた。

勇人はシャツのボタンを留めようとした。

指がうまく動かず、一つ掛け違えた。

小さく息を吐き、やり直した。

階段を下りる足音に、祖母が廊下へ出てきた。

「勇人、何があったんだい」

勇人は玄関で振り返った。

「商店街に、昨日の雄太みたいなのがいるって」

祖母の表情が止まった。

「雄太君は?」

勇人は、電話で聞いたことを祖母へ伝えた。

「今は離れてるって。でも、近くに人がいる」

勇人は靴に足を入れた。

かかとを踏みかけ、慌てて履き直す。

祖母が玄関へ降りてきた。

「私も行くよ」

勇人は顔を上げた。

「ばあちゃん、危ないよ」

祖母は靴を履く手を止め、勇人を見た。

「あんたもだろう」

勇人は言い返せなかった。

祖母は立ち上がった。

「雄太君のいる場所まで、一緒に行こう」

台所から、母が顔を出した。

「どうしたの?」

祖母が振り返る。

「商店街で何かあったみたいなんだ。雄太君が近くにいるから、迎えに行ってくる」

母は二人の顔を見比べた。

「危ないところには近づかないでよ」

その声に、勇人は小さくうなずいた。

祖母が玄関の戸を開けた。

夕方の風が、廊下まで入ってきた。

勇人はお守りを服の中へ収め、その後に続いた。

商店街へ近づくにつれ、こちらへ歩いてくる人が増えた。

買い物袋を抱えた女性が、何度も後ろを振り返っていた。

自転車を押した男が、通りの先を指さしながら電話をしている。

「ばあちゃん、こっち」

勇人は細い道へ入りかけた。

けれど、曲がり角の向こうから大きな音がして、足が止まった。

昨日、殴られる直前にも聞いたような音だった。

肩がこわばった。

息が浅くなった。

祖母が隣に追いついた。

何も尋ねず、勇人が見ている道の先へ目を向けた。

「勇人!」

反対側から、雄太が駆け寄ってきた。

勇人は顔を上げた。

「無事?」

雄太がうなずき、隣の祖母を見た。

「おばあちゃんも……」

祖母は雄太の顔を確かめるように見た。

「けがはないかい」

祖母の問いに、雄太はもう一度うなずいた。

「俺は、大丈夫です。警察にも電話しました」

そのとき、店の角から男が転がるように出てきた。

先ほどの店長だった。

片足を引きずり、道路へ手をついている。

雄太がそちらを向いた。

「あの人……!」

店長の背後で、影が伸びた。

異形が、ゆっくりと角を曲がってきた。

勇人は息をのんだ。

雄太を変えたものとは、姿が違った。

それでも、人の体に無理やり何かが重なったような、不自然さは同じだった。

祖母が、勇人の隣で立ち尽くしていた。

冊子の頁をめくっていた手が、今は胸元で固く握られていた。

異形の喉が鳴った。

「俺に……押しつけるな……」

店長が後ずさった。

立ち上がろうとして、また膝をついた。

異形が腕を持ち上げる。

勇人の掌に、昨日の痛みがよみがえった。

逃げたいと思った。

けれど、目の前の男は立てなかった。

勇人は、お守りを握った。

「雄太。ばあちゃんと、下がってて」

雄太がこちらを向いた。

勇人はもう、その顔を見ていなかった。

足を一歩、前へ出す。

脇腹が痛んだ。

それでも、もう一歩踏み出した。

「待て!」

異形の腕が止まった。

その顔が、勇人へ向いた。

勇人はお守りを胸の前へ掲げた。

握る指は、震えていた。

「――天装!」

青緑の光が、夕暮れの通りを照らした。

祖母の目の前で、光の帯が勇人を包んだ。

白銀の鎧が重なり、兜がその顔を覆ってゆく。

腰から流れた羽衣が、風をはらんだ。

光が収まったとき、そこには一人の武者が立っていた。

祖母は唇を動かした。

「……クサナギ」

勇人は剣を握り、異形と倒れた男の間へ進み出た。

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