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第三話「心」

背後で、倒れた男が身じろぎした。

勇人は男をかばうように足を開き、異形へ剣を構えた。

柄を握り直した途端、右の掌に痛みが走った。

「……っ」

指を緩めかけ、慌てて左手を添える。

鎧に包まれても、傷はそこにあった。息を吸うと脇腹が痛み、構えた剣の先がわずかに揺れた。

異形の肩が持ち上がった。

灰色の板が幾重にも重なった腕。その隙間から、黒い靄が漏れている。

勇人は剣を立てた。

振り下ろされた腕が、刀身を打った。

重い音とともに膝が折れた。

掌を押し裂くような痛みに、声が漏れる。剣を押し込まれ、肩の装甲がきしんだ。

このままでは、潰される。

指を緩めかけ、慌てて握り直す。

鎧に包まれても、傷はそこにあった。息を吸うと脇腹が痛み、構えた剣の先がわずかに揺れた。

異形の肩が持ち上がった。

灰色の板が幾重にも重なった腕。その隙間から、黒い靄が漏れている。

勇人は剣を立てた。

振り下ろされた腕が、刀身を打った。

重い音とともに膝が折れた。

掌を押し裂くような痛みに、声が漏れる。剣を押し込まれ、肩の装甲がきしんだ。

このままでは、潰される。

勇人は体をひねり、腕を横へ受け流した。

異形の拳が舗装を砕く。その脇を抜けようとしたところへ、もう片方の腕が飛んできた。

胸を打たれ、足が浮いた。

店先の立て看板を巻き込み、地面へ倒れる。

息ができなかった。口を開いても、喉から細い音しか出てこない。

「勇人!」

駆け寄ろうとする雄太へ、勇人は左手を上げた。

「来るな……!」

異形が、足を引きずっている店長へ顔を向けた。

勇人は剣を支えに立ち上がり、その前へ戻った。

「こっちだ!」

異形の腕が横に払われる。

勇人は身を低くしてかわし、その腕へ剣を振った。

刃が灰色の板を削った。

けれど、深く入る前に掌が痛み、手首が逃げた。剣は表面を滑り、火花だけを散らした。

異形が振り向く。

勇人は後ろへ跳ぼうとした。

脇腹に痛みが刺さり、足が遅れた。

肩へ拳を受け、膝をつく。

剣の柄が、指の中でずれた。

「……まだ」

左手を添え、握り直す。

背後で、祖母の声がした。

「雄太君、そちらを持っておくれ」

二人が店長へ肩を貸していた。

勇人は異形の前へ踏み込み、剣を横に構えた。

「早く……離れて!」

店長の靴が地面を擦った。

雄太はその腕を肩に回し、向かいの店の軒先まで運んだ。

背後で金属音が響く。

振り返ると、勇人が後ずさりながら異形の腕を受けていた。

店長もその姿を見ていた。

唇が震えている。

「青木……何なんだよ、お前……」

雄太は顔を向けた。

「青木?」

店長は異形から目を離さず、うなずいた。

「うちのバイトだよ。青木透……さっきまで、普通に……」

雄太の脳裏に、学校の廊下が浮かんだ。

二年の教室へ入っていく、背の高い生徒。友達に名前を呼ばれ、振り返った横顔。

その顔が、異形になる前の青年と重なった。

「青木先輩……?」

勇人が、剣で拳を受け止めた。

衝撃で足が滑る。

雄太は身を乗り出した。

「勇人! 青木透だ! うちの学校の、二年の!」

勇人が顔を上げた。

灰色の板に覆われた顔。

けれど、輪郭の奥に、見覚えのある面影があった。

「……青木先輩?」

異形の腕が迫った。

勇人は剣を斜めに立てて受けた。刃に沿って拳が滑り、すぐ横のシャッターをへこませる。

「先輩、聞こえますか!」

返事はなかった。

肩の板が擦れ合い、次の拳が持ち上がる。

勇人は一歩退いた。

「俺、同じ学校の……三羽です!」

拳が落ちた。

横へ転がり、どうにかかわす。起き上がるとき、右手を地面につきかけて引っ込めた。

痛い。

立つだけでも、時間がかかる。

異形の口元が動いた。

「……まだ、あるだろ」

勇人の動きが止まった。

「それが終わったら、次……」

くぐもった声だった。

誰かに言われた言葉を、そのまま繰り返しているようだった。

「片づけろ。代われ。残れ……」

異形が踏み込んだ。

勇人は両手で剣を構え直し、振り下ろされる腕を受けた。

火花が目の前を散った。

「先輩!」

押し返そうとしても、右手に力が入らない。

肩を押し込まれ、片膝が地面に触れた。

異形の顔が近づく。

「俺の分は……終わったのに……」

勇人は歯を食いしばった。

「……帰りたかったんですか」

腕の重さが、一瞬だけ緩んだ。

勇人は顔を上げた。

「先輩。話、聞きますから……!」

次の瞬間、異形が吠えた。

剣ごと押し飛ばされ、勇人は背中から地面へ落ちた。

「いつから、働いていたんですか」

祖母は店長の前にしゃがんでいた。

店長は痛む足を押さえながら、落ち着かない目で通りを見た。

「いつからって……放課後ですよ」

「今日、帰る時間は?」

店長はすぐには答えなかった。

代わりに、雄太を見上げた。

「君たち、知り合いなんだろ。何とか止めてくれよ」

雄太は唇を結んだ。

祖母がもう一度、静かに尋ねた。

「帰る時間を過ぎても、仕事をさせていたんですか」

「人が足りなかったんです。急に休まれたり、先に帰られたりしたら、誰かがやらなきゃ回らないでしょう」

通りの向こうで、勇人が立ち上がった。

剣を持つ右腕が下がっていた。左手で手首を支え、また異形の前へ出る。

祖母は店長へ視線を戻した。

「その『誰か』を、あの子に任せ続けたんですか」

店長が眉を寄せた。

「でも、本人ができるって言ったんですよ」

雄太の指が、膝の上で握られた。

「嫌なら断ればいいんです。こっちだって、言ってもらわなきゃ分からないし」

スマートフォンの画面が、頭に浮かんだ。

自分の声。

何度も繰り返される笑い声。

楽しんでると思ってたし。

雄太は息を吸った。

胸の奥が詰まり、うまく吸えなかった。

「……言ったら」

店長が顔を向ける。

雄太はその目を見た。

「できるって言ったら、何でもやらせていいんですか」

「そういう話じゃなくて——」

「嫌だって言ったら、帰してたんですか!」

思ったより大きな声が出た。

店長が口を閉じる。

雄太の肩が上下した。

言ってしまってから、足が震え始めた。

祖母の手が、そっと背に触れた。

そのとき、通りの向こうで音が止まった。

異形が、こちらを見ていた。

「……言った」

低い声が、通りに響いた。

勇人は剣を構えたまま、異形を見た。

「今日、無理だって……」

灰色の板の隙間で、黒い靄が膨らんだ。

「帰りたいって……言っただろ……!」

異形が勇人の横を抜けた。

「待って!」

手を伸ばしたが、届かなかった。

異形は店長へ向かって走り出した。

店長が悲鳴を上げた。

祖母が雄太の腕を引き、店の入口へ下がる。

勇人は追った。

踏み込むたびに、脇腹が痛んだ。

間に合わない。

異形の右腕が持ち上がった。

店長は座り込んだまま、両腕で顔を覆った。

勇人は最後の一歩で、体を投げ出した。

剣を立て、二人の間へ割って入る。

拳が刀身へ落ちた。

右の掌に、熱い痛みが走った。

指が開いた。

剣が弾かれ、地面を滑った。

続く拳を左腕で受けた。

装甲が鳴り、肩までしびれた。そのまま背後の店長をかばい、体を丸める。

「何で……」

頭の上から、声がした。

「何で、そいつを……!」

勇人は顔を上げた。

異形の腕を両手で押さえる。右手は、触れるだけで痛かった。

「先輩……!」

押し込まれる。

足元が滑り、背中が店先の柱に当たった。

「もう……誰も、殴らないで……!」

異形が腕を引いた。

勇人は身構えたが、避けられなかった。

脇腹を打たれ、横へ崩れた。

喉から声にならない息が漏れた。

左手で地面を押す。腕が震え、体が持ち上がらない。

異形が、店長へ向き直った。

勇人はその足首をつかんだ。

「……待って」

引きずられ、掌が路面を擦った。

それでも、離せなかった。

「先輩……聞いて……」

異形が足元を見た。

勇人は膝を立てた。

息を整えようとしても、痛みで途中で止まってしまう。

「帰りたいって……聞こえました」

異形の肩が揺れた。

「もう、働けないんですよね……」

勇人は顔を上げた。

「分かったから……帰りましょう、先輩……」

異形の腕が持ち上がった。

勇人は目を閉じかけた。

怖かった。

また殴られる。

今度こそ、立てないかもしれない。

けれど、拳は落ちてこなかった。

異形の左手が、右の手首をつかんでいた。

灰色の板が、激しく震えていた。

「……お前」

かすれた声だった。

さっきまでの、重く響く声とは違っていた。

勇人は立ち上がろうとして、右手を地面についた。

途端に鋭い痛みが走り、腕を引いた。

「……っ!」

左手で右の手首を支え、胸元へ寄せる。

立ち上がりかけた体が、また膝から崩れた。

異形の目が、その動きを追っていた。

「その手……痛いのか……」

勇人は顔を上げた。

「……昨日、ちょっと」

言い終わる前に、息が詰まった。

脇腹を押さえ、うつむく。

異形が一歩下がった。

「なのに……俺……」

その肩から、黒い靄が噴き出した。

右腕が、押さえる左手を振りほどこうとする。

勇人が顔を上げた。

「先輩?」

「来るな!」

透の声だった。

異形はよろめきながら通りを横切り、向かいの店の外壁へ肩をぶつけた。

右腕を体と壁の間へ押し込み、左手で押さえつける。

板が軋んだ。

壁の塗装が削れ、白い粉が落ちた。

「勝手に……動く……!」

祖母が店長へ肩を貸した。

「立てますね。中へ」

開いていた店の奥から、人が駆け寄ってきた。

祖母は店長を託し、入口から人を下がらせた。

雄太は地面に落ちた剣を見た。

駆け寄り、両手で拾い上げる。

勇人が、壁に手をついて立とうとしていた。

「勇人」

差し出された剣へ、勇人は右手を伸ばした。

柄を握った途端、短く息をのむ。

指が緩み、剣先が地面へ落ちた。

雄太が慌てて柄を支えた。

「……昨日の傷か?」

勇人は右手を見た。

鎧に覆われた掌を、ゆっくり握り直そうとする。

「うん……力を入れると、痛くて」

雄太の目が、その手で止まった。

「ずっと、そのまま戦ってたのかよ」

勇人は答えず、左手を柄へ添えた。

通りの向こうで、壁が鳴った。

「早く……離れろ……!」

透の右腕が、壁から浮きかけていた。

左手で押し戻すたび、足元が少しずつずれる。

雄太は鞄へ手を入れた。

取り出したのは、畳まれたハンカチだった。

今朝、勇人から返してもらったもの。

きれいに洗われ、折り目がついていた。

雄太はそれを細く折り、勇人の手元へ当てた。

「これで、留めよう」

勇人が雄太を見た。

「……また、汚れる」

「洗えばいいだろ」

雄太は柄を握る勇人の指を確かめた。

掌へ力がかかった瞬間、勇人の肩が跳ねる。

雄太の手が止まった。

「ごめん」

勇人は首を振った。

「……やって」

雄太はうなずいた。

手の甲と柄をまとめて布で巻き、ほどけないよう結んだ。

指の代わりに布が剣を支えた。

けれど、少し持ち上げるだけで、傷へ力がかかった。

勇人は息を吐き、左手を柄に添えた。

「……持てる」

雄太は結び目から手を離した。

その指も震えていた。

勇人はそれに気づいた。

「雄太」

顔を上げた友達へ、うなずく。

「ありがとう」

大きな音がした。

透の右腕が、壁を砕きながら持ち上がった。

「雄太君、下がって!」

祖母の声に、雄太が後ろへ退いた。

勇人は剣を構えた。

右手は柄から離れない。

けれど、痛みも逃げてはいかなかった。

何度も振ることはできない。

透がこちらを見た。

「……何とか、なるのか」

勇人は剣先を上げた。

「先輩と……それを、切り離します」

透の肩が大きく揺れた。

左手が、右腕を押さえ直す。

「俺……戻れる……?」

勇人はうなずいた。

「戻れます」

雄太が戻ってきた。

あのとき、自分の名前を呼んでくれた。

だから、今度も。

透が歯を食いしばった。

灰色の板が、その顔の端でひび割れた。

「……早く」

右腕が持ち上がる。

左手が、それを引き戻す。

黒い靄が首元へ集まった。

板の隙間に、一瞬だけ、人の肌が見えた。

勇人は踏み込んだ。

脇腹が痛んだ。

右手が焼けるようだった。

それでも、剣先から目をそらさなかった。

目の前にいるのは、青木透だった。

帰りたいと訴えながら、誰にも聞いてもらえなかった人だった。

「先輩を……離せ!」

左手で柄を引き、全身で剣を振り抜いた。

青緑の光が、灰色の胸を走った。

音が消えた。

幾重にも重なっていた板が、光に沿って浮かび上がった。

その隙間から黒い靄が引きずり出され、透の体から離れていく。

勇人の膝が折れた。

剣先が地面へ触れ、短い音を立てた。

灰色の板が砕けた。

中から現れた透が、その場に崩れ落ちた。

「雄太……!」

勇人が手を伸ばす。

雄太が駆け寄り、二人で透の体を受け止めた。

その頭上で、黒い靄がひとつに縮まった。

小さな、歪んだ塊だった。

激しく震えたかと思うと、通りの奥へ飛び去った。

勇人は顔を上げた。

「また……!」

追おうとした足が、動かなかった。

立ち上がりかけ、そのまま膝をつく。

残滓は屋根の向こうへ消えた。

祖母がその方角を見ていた。

けれど、すぐに勇人たちのそばへ膝をついた。

「今は、この子を」

透は、ゆっくり目を開けた。

最初に見たのは、雄太の顔だった。

その隣に、白銀の武者が膝をついている。

透の視線が、剣を握る手で止まった。

柄と手が、ハンカチで結ばれていた。

「……俺が」

勇人は首を振った。

「この手は、昨日からです」

透は周囲を見回した。

へこんだシャッター。

砕けた壁。

倒れた看板。

唇が震えた。

「でも……これ……」

何を言えばいいのか分からないまま、透は顔を伏せた。

祖母が声をかけた。

「痛むところはあるかい」

透はすぐには答えなかった。

しばらくして、小さく首を振る。

「分かんないです……」

「そう。無理に立たなくていいよ」

雄太は自分の鞄を引き寄せ、透が壁にもたれられるよう背中へ添えた。

勇人もその隣へ座り込んだ。

店の入口から、店長が顔を出した。

透の肩が、びくりと動いた。

「青木……お前……」

店長は壊れた通りへ目を向けた。

言葉を探すように、口を開いたり閉じたりしている。

透は膝の上で両手を握った。

「……今日は」

声がかすれた。

店長の顔を見ると、続きが出なくなった。

雄太は何も言わず、そばにいた。

透は一度息を吸った。

「今日は、もう働けません」

店長が眉を動かした。

透の指が、さらに強く握られる。

それでも、今度はうつむかなかった。

「帰ります」

祖母が立ち上がった。

「この子のご家族に連絡をしましょう。お店の話は、その後にしてください」

店長は何か言いかけたが、祖母と目が合うと、口を閉じた。

人目を避けて店の裏手へ回ると、勇人の鎧が光へほどけた。

制服姿へ戻った途端、体の重さが増した。

壁に背を預け、そのまま座り込む。

雄太が隣へしゃがんだ。

剣が光の粒になって消えた手には、ハンカチだけが残っていた。

「ほどくぞ」

勇人はうなずいた。

結び目が緩む。

ハンカチの下から、血のにじんだ包帯が現れた。

雄太は手を止め、傷を圧迫しないよう、ゆっくり布を外した。

右の掌が、また震えていた。

勇人はそれを見つめた。

「……今日、駄目かと思った」

雄太は畳みかけたハンカチを、そのまま握った。

「俺も」

勇人が顔を向ける。

雄太は視線を落とした。

「あの人に怒鳴ったとき……自分でも、止まんなくなりそうで」

言葉が途切れた。

鞄を握る指に、力が入る。

「また、ああなるんじゃないかって……怖かった」

勇人はすぐには答えなかった。

通りの方で、祖母が透へ話しかけている。

遠くから、サイレンの音が近づいてきた。

「……でも、来てくれた」

勇人は、ほどかれたハンカチを見た。

「これ、巻いてくれたじゃん」

雄太も手元へ目を落とした。

勇人は壁にもたれ、ゆっくり息を吐いた。

「一人だったら、握れなかった」

雄太はしばらく黙っていた。

それから、勇人の隣へ腰を下ろした。

肩が触れたが、どちらも離れなかった。

祖母が裏手をのぞいた。

「勇人。立てそうかい」

勇人は足へ力を入れかけた。

脇腹が痛み、顔がゆがむ。

いつもなら、平気だと言ったかもしれなかった。

けれど、今日は首を振った。

「……肩、貸して」

雄太が先に立ち上がった。

鞄を背負い直し、勇人の左側へ回る。

「つかまれよ」

差し出された肩へ、勇人は腕を回した。

祖母が反対側から支える。

二人に体を預けて、ようやく立てた。

お守りが、制服の胸元で小さく揺れた。


店の脇を抜けて通りへ戻ると、商店街の入口に救急車が止まっていた。

赤い光が、閉じたシャッターを繰り返し照らしている。

駆け寄ってきた救急隊員に、祖母が手を上げた。

「こちらです。あの子と、この子も」

勇人は顔を上げた。

「俺も?」

祖母は、勇人の体を支え直した。

「あんた、今、一人で歩けないだろう」

言い返そうとして、脇腹が痛んだ。

雄太が横から勇人を見た。

「診てもらえよ」

勇人は小さくうなずいた。

救急隊員に促され、店先へ出された椅子に腰を下ろす。雄太の肩から腕を離すと、それだけで体が傾きそうになった。

「どこが痛みますか」

勇人は、右手と脇腹へ順に目を落とした。

「ここ、と……こっちです」

答える間も、雄太はそばに立っていた。


少し離れたところで、透も手当てを受けていた。

制服の袖から伸びた腕は、もう細い人間の腕だった。

透は自分の手を開き、閉じた。

それから、壁の傷へ目を向ける。

救急隊員に何か聞かれるまで、その視線は動かなかった。


勇人の手当てが始まると、祖母は携帯電話を取り出した。

少し離れて電話をかけ、相手が出ると、まず言った。

「勇人は一緒にいるよ。意識もしっかりしてる」

勇人は顔を伏せた。

電話の向こうから、母の声が漏れた。

何を言っているのかまでは聞き取れない。

けれど、その声の高さに、胸が詰まった。

「……また、心配かける」

雄太が勇人を見た。

勇人は膝に置いた左手を握った。

「昨日も、あんなだったのに」

雄太は返事をせず、少し考えていた。

やがて、隣の椅子を引いた。

「俺も、一緒に話す」

勇人が顔を向けると、雄太は腰を下ろした。

「全部は、うまく言えないかもしんないけど」

その手には、まだハンカチがあった。

端についた赤い染みを見て、勇人は目を伏せた。

「……うん」

「三羽」

呼ばれて顔を上げると、透がこちらを見ていた。

肩には、救急隊員から渡された毛布がかかっている。

勇人は椅子に座ったまま、体を向けた。

「はい」

透は一度、勇人の右手を見た。

それから、隣に座る雄太へ目を移した。

「そっちは……名前」

雄太が姿勢を正した。

「塚口です。雄太」

「塚口」

確かめるように繰り返して、透は毛布の端を握った。

「あのさ」

続く言葉を、二人は待った。

透の目が、店の入口へ動いた。

店長は警察官と話をしていた。こちらへ背を向け、通りの壊れた箇所を指さしている。

透は声を落とした。

「俺、明日も……ここ、入ってて」

勇人は黙っていた。

透の指が、毛布をねじった。

「さっき、帰るって言ったけど。明日になったら、また……何て言えばいいのか」

語尾が小さくなった。

雄太は、自分の手元を見た。

嫌だと言っても、明日にはまた同じことになる。

あの動画を見たときの息苦しさが、少しだけ戻ってきた。

「……一人で言いに行くんですか」

雄太が尋ねると、透は顔を上げた。

「え?」

「明日。また、一人で」

透は答えかけて、口を閉じた。

電話を終えた祖母が、三人のそばへ戻ってきた。

「おうちの方は、もうすぐ着くそうだよ」

透は毛布を握ったまま、祖母を見上げた。

「……バイトのこと、何も言ってなくて」

「そうかい」

祖母は透の前にしゃがんだ。

「今の話、一緒に伝えようか」

透の目が、店の方へ動いた。

しばらくして、祖母へ戻ってきた。

「いて、くれますか」

祖母はうなずいた。

「いるよ」

透は息を吐いた。

握りしめていた毛布を、少しだけ緩めた。

勇人は、その手を見ていた。

剣で切り離した後にも、残っているものがある。

明日のこと。

店へ戻ること。

言えなかったことを、誰かに話すこと。

今の自分には、どうしたらいいのか分からなかった。

けれど、透が話している間、ここに座っていることはできた。


通りの向こうから、走ってくる足音がした。

「勇人!」

母だった。

その後ろから、父も早足で近づいてきた。

母は勇人の前に膝をつき、顔をのぞき込んだ。頬についた汚れを確かめるように、そっと手を伸ばす。

「何があったの。おばあちゃんから、怪我したって……」

勇人は口を開いた。

けれど、どこから話せばいいのか分からなかった。

「……人が、襲われてて」

母の目が、包帯を巻かれた右手へ下がった。

勇人はその手を膝の上へ引き寄せた。

「放っておけなくて」

母は唇を結んだ。

何か言いかけたところへ、祖母が声をかけた。

「詳しい話は、診てもらってからにしよう。脇腹も痛めているんだよ」

母は勇人の脇腹へ目を向け、それから救急隊員の説明に耳を傾けた。

父が、椅子の脇に置かれた勇人の鞄を持ち上げた。

「雄太君も、怪我はないか」

声をかけられ、雄太は立ち上がった。

「俺は、大丈夫です」

「そうか。そばにいてくれて、ありがとう」

雄太は勇人を見た。

勇人も顔を上げたが、うまく笑えなかった。

救急隊員に呼ばれ、勇人は椅子の縁へ左手をついた。

立ち上がろうとすると、脇腹に痛みが走る。

息を詰めた勇人の背へ、母の手が添えられた。

「ゆっくりでいいから」

勇人はうなずき、母に支えられながら腰を上げた。

父が鞄を肩にかけ、反対側へ回った。

少し先で、透がこちらを見ていた。

勇人が目を合わせると、透は毛布の端を握ったまま、小さく頭を下げた。

勇人も、そっと頭を下げた。

「勇人」

雄太が呼び止めた。

振り返ると、畳まれたハンカチを持ち上げてみせた。

「これ、俺が持って帰るから」

勇人は、その端の赤い染みを見た。

「……うん」

「また学校でな」

いつもと同じ言い方だった。

勇人の口元が、少しだけ緩んだ。

「またな」

歩き出した勇人の隣で、母は歩幅を合わせていた。

背に添えられた手は、離れなかった。

勇人は何も言わず、その手に体を預けた。

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