第1話「友達を返してくれ!」
朝の教室で、三羽勇人は鞄の中を探っていた。
教科書を出し、筆箱を出し、もう一度、底をのぞく。
「……ない」
隣から一枚のプリントが差し出された。
「昨日、図書室に置いてった」
顔を上げると、塚口雄太が立っていた。
「雄太! 助かった!」
勇人は、雄太が差し出したプリントを両手で受け取った。
「机の上に名前まで書いてあったからな」
雄太は笑いながら、自分の席に鞄を下ろした。
「持って帰ったつもりだったんだけど」
勇人が受け取ったプリントに目を落とすと、隣からすかさず声が飛んだ。
「その台詞、昨日も聞いた」
雄太は自分の席へ鞄を置くと、小さな包みを勇人の机に載せた。
チョコレートの袋に、少し曲がったリボンが貼ってある。
「あと、誕生日おめでとう」
雄太が付け加えると、勇人は顔を上げた。
「覚えてたんだ」
「昨日、自分で三回言ってた」
雄太は指を三本立ててみせた。
「そんなに言ってないだろ」
勇人が眉を寄せると、雄太は立てた指を一本、途中まで曲げた。
「二回半」
「半って何だよ」
勇人は、その指を見て吹き出した。
雄太が笑った。
勇人は包みを手に取り、リボンを眺めた。
「これ、お前が付けたの?」
勇人が袋の飾りを指さすと、雄太は少し照れくさそうに口をとがらせた。
「悪いか」
「いや。ありがとう」
勇人は笑って袋を開け、チョコを一つ、雄太に差し出した。
「食べる?」
雄太は差し出されたチョコと、勇人の顔を見比べた。
「お前にあげたんだけど」
「いいじゃん。一緒に」
雄太が受け取ろうとしたところへ、後ろの席から声が飛んだ。
「何、勇人誕生日? じゃあ雄太、いつものやつやってよ」
雄太の手が止まった。
「いつものって?」
振り返った雄太に、後ろの席の男子が笑いながら答えた。
「先生のまね。昨日の説教のやつ」
何人かが振り返った。
雄太はチョコレートを受け取り、少し肩をすくめた。
それから周囲へ向き直り、わざとらしく咳払いをした。
「えー、三羽君。十六歳になったからには、提出期限という言葉をですね――」
勇人が吹き出した。
「それ、俺にだけ言われたやつ!」
笑い声が広がった。
雄太も笑っていた。
始業のチャイムが鳴ると、みんな前を向いた。
雄太は椅子に座り、手の中のチョコレートを机の端へ置いた。
包み紙は、まだ開いていなかった。
放課後、二人は駅へ向かう道を歩いていた。
雄太が途中の店で足を止めた。
店先には、新作のゲームを知らせるポスターが貼られている。
「これ、来月だって」
雄太が見せたゲームの発売情報に、勇人は顔を寄せた。
「あ、もう出るんだ」
「今度こそ、お前に勝つ」
雄太が勇人を指さすと、勇人はにやりと笑った。
「前もそう言ってなかった?」
「あれはコントローラーが悪かった」
すぐに言い返した雄太へ、勇人は笑いながら肩をぶつけた。
「俺のと交換しても負けたじゃん」
雄太が勇人の肩を軽く小突いた。
二人で笑いながら、また歩き出す。
「土曜、来る?」
勇人が尋ねると、雄太は顔を向けた。
「勇人んち?」
「うん。前のやつ、続きやろうぜ」
雄太はうなずき、口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、練習しとく」
雄太は言い終えてから、少し黙った。
「なあ、俺ってさ」
「うん?」
顔を向けると、雄太は足元の小石を靴先で転がした。
「……いや。何でもない」
雄太が目をそらすと、勇人はその顔をのぞき込んだ。
「何だよ、気になるだろ」
雄太は一瞬口を開きかけたが、笑って問い返した。
「今日、ケーキあるの?」
「話変えたな」
勇人が顔をしかめると、雄太は肩をすくめた。
「誕生日なんだから、重要だろ」
勇人は雄太を見た。
雄太はもう、こちらを向いて笑っていた。
分かれ道で手を振る。
「また明日」
「おう。チョコ、ありがとな」
雄太の背中が角の向こうへ消えた。
勇人はしばらくその方を見てから、自宅へ向かった。
玄関を開けると、台所から声がした。
「おかえり。もうすぐご飯だから、着替えてきて」
母が皿を並べながら、玄関の勇人に声をかけた。
父は食卓に人数分のコップを置き、祖母は大皿に煮物を盛りつけていた。
「ただいま。……今日、豪華じゃん」
食卓をのぞき込んだ勇人に、母が笑いかけた。
「十六歳のお祝いだからね」
勇人は少し照れたように笑い、着替えに向かった。
食卓には、勇人の好きな唐揚げが山になっていた。
全員が席につき、父が乾杯の音頭を取ろうとすると、勇人のお腹が鳴った。
「挨拶は短めにしないとな」
父が笑うと、勇人はすました顔で言った。
「今の俺じゃない」
「じゃあ誰だよ」
父が食卓を見回すので、祖母まで笑った。
食事をしながら、学校の話になった。
「誰かにお祝いしてもらった?」
母に聞かれ、勇人はうなずいた。
「雄太がチョコくれた。リボンまで付けて」
「あら、うれしいね」
母が顔をほころばせると、勇人も笑った。
「うん。あと、忘れてたプリントも拾ってくれてた」
「そっちは、まず忘れないようにしなさい」
母に言われ、勇人は箸を止めた。
向かいの父が、笑いながら口を挟んだ。
「雄太君に助けられてばかりだな」
「俺だって、ちゃんと……」
言いかけて、勇人は考え込んだ。
「……ゲームでは助けてる」
祖母が箸を置き、勇人の顔を見た。
「それは、雄太君にも聞いてみたいね」
また笑いが起きた。勇人も笑いながら、唐揚げに箸を伸ばした。
食後には、小さなケーキが出てきた。
勇人がろうそくを吹き消すところを、母が写真に撮った。
「ちょっと、変な顔してなかった?」
勇人が身を乗り出すと、母はスマートフォンの画面を確かめた。
「大丈夫。いつもの顔」
「それが一番心配なんだけど」
勇人は立ち上がり、母の横から写真をのぞき込んだ。
切り分けたケーキを食べ、父が明日の天気を確認し、母が食器を流しへ運ぶ。
いつもの夜へ戻っていく食卓で、勇人は最後の一口を食べた。
「ごちそうさま。ありがとう」
皿を運び、部屋へ戻ろうとしたところで、祖母が声をかけた。
「勇人。少し、いいかい」
振り返ると、祖母は穏やかに笑っていた。
「私からは、もう一つあるんだよ」
祖母の部屋は、食卓より少し静かだった。
座布団に腰を下ろした勇人の前で、祖母が箪笥から小さな桐の箱を取り出した。
蓋を開けると、白い布のお守りが入っていた。
細かな刺繍が施され、口は朱色の紐で結ばれている。
「十六になったあんたに、渡しておこうと思ってね」
勇人は両手で受け取った。
古いもののはずなのに、布にほつれはなかった。
勇人が指でそっと触れると、中には小さな石のような硬いものが入っていた。
「これ、うちの?」
顔を上げた勇人に、祖母はうなずいた。
「ええ。ずっと大切に受け継いできたもの」
勇人は手の中のお守りを見つめた。
「俺が持ってていいの?」
「あんたに持っていてほしいんだよ」
祖母はお守りを受け取ると、長い紐を伸ばし、勇人の首へかけた。
胸元に収まったお守りを、そっと整える。
「今度は、あんたを守ってくれるようにね」
勇人は胸元のお守りに触れた。
「……ありがとう。なくさないようにする」
祖母はうなずき、その手をそっと包んだ。
廊下から、母の声がした。
「勇人、お風呂空いたよ」
「はーい」
勇人は廊下へ返事をして、立ち上がった。
胸元のお守りを服の中へ入れると、祖母がいつもの調子で声をかけた。
「お風呂のときは外すんだよ」
勇人は戸口で振り返り、笑った。
「分かってるって」
部屋を出る勇人の足音を聞きながら、祖母は空になった桐の箱へ目を落とした。
翌朝、登校した勇人は、自分の席で鞄を下ろした。
制服の襟元からのぞいていたお守りを服の中へしまっていると、雄太が教室へ入ってきた。
「何、それ」
雄太の視線に気づき、勇人は胸元からお守りを引き出した。
「ばあちゃんにもらった。誕生日」
「お守り?」
雄太が顔を寄せると、勇人は見えやすいように持ち上げた。
「うちに昔からあるんだって」
雄太はお守りを眺めてから、勇人を見た。
「じゃあ、ご利益ありそうだな。忘れ物とか」
「そこ専門じゃないと思う」
勇人が笑うと、雄太も笑った。
鞄を下ろす雄太の横顔を見ながら、勇人はお守りを服の中へ戻した。
昨日の帰り道で言いかけていたことを、聞いてみようかと思った。
けれど、その前に先生が入ってきた。
「席に着けー」
先生の声に、雄太は椅子を引いて座り、前を向いた。
勇人は、お守りを制服の下へしまった。
昼休み。
廊下から戻った勇人は、雄太の席の周りに人が集まっているのを見た。
スマートフォンから、聞き覚えのある声が流れていた。
『提出期限という言葉をですね――』
昨日の雄太だった。
「これ、何回見ても笑える」
スマートフォンを持った生徒が、隣の生徒にも画面を見せた。
その隣から、別の生徒が雄太に声をかけた。
「ほかの先生もやってよ」
雄太は画面を見ていた。
「それ、いつ撮ったの?」
スマートフォンを持った生徒は、画面に目を向けたまま答えた。
「昨日。送っといた」
雄太は少し黙ってから、口を開いた。
「……消してほしい」
声は小さかったが、近づいていた勇人にも聞こえた。
「え?」
顔を上げた生徒に、雄太はもう一度言った。
「その動画。消して」
スマートフォンを持っていた生徒は、笑みを引っ込めた。
「そんな嫌だった?」
雄太はうなずいた。
「うん」
「分かった。消す。ごめん」
生徒が画面を操作し始め、雄太が息を吐いた、そのときだった。
別の生徒が口を挟んだ。
「でも、今まで普通にやってたじゃん。急に言われても分かんないって」
雄太はそちらへ顔を向けた。
「それは……」
言葉を探している間に、その生徒が続けた。
「楽しんでると思ってたし」
雄太の口元が動いた。
何か言おうとして、また閉じた。
勇人がそばへ来た。
「今、嫌だって言ってるだろ」
一瞬、教室が静かになった。
「……分かったよ」
誰かがそう答えた。
集まっていた生徒たちが離れていく。
雄太は椅子に座り、そばに立っていた勇人を見上げた。
「ありがとう」
勇人はうなずいた。
「ほかに送られてないか、確認してもらおう」
「うん」
雄太は机の上のパンを手に取った。
けれど、袋を開けようとはしなかった。
勇人は自分の椅子を引き、腰を下ろした。
弁当を机に置いて、隣の雄太に顔を向けた。
「ここで食べていい?」
雄太は勇人の顔を見て、少し間を置いた。
「……自分の席だろ」
その口元に、小さな笑みが浮かんだ。
勇人も笑って、弁当の包みをほどいた。
それ以上、話を急がなかった。
その日の放課後、勇人と雄太は並んで校門を出た。
昨日と同じ帰り道を、二人は歩いていた。
「昨日、帰りに言いかけたのって……あのこと?」
勇人が尋ねると、雄太はしばらく黙っていた。
足元に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「俺が悪いのかな」
勇人は雄太へ顔を向けた。
「何で」
「今まで笑ってたから。嫌だって、ちゃんと言わなかったから」
勇人は返す言葉を探した。
その間に、雄太のスマートフォンが震えた。
雄太が取り出した画面に、あの動画が届いていた。
別の相手から転送されたものだった。
添えられた短い言葉。
笑う顔の絵。
雄太の足が止まった。
「……消えてないじゃん」
勇人ものぞき込んだ。
「まだ持ってる人がいるんだな。明日、先生にも――」
「明日になっても同じだよ」
雄太の強い声に、勇人は言葉を切った。
雄太は画面を見つめたまま、続けた。
「また笑われて、嫌だって言ったら、今まで笑ってただろって」
側溝の暗がりで、黒い靄が動いた。
「俺が何を言っても、冗談にされるんだ」
靄は道路を這い、雄太の足元へ近づいていた。
勇人は画面から雄太へ目を移した。
「昨日、俺も笑った。ごめん」
雄太がゆっくりと顔を上げた。
「勇人も、面白かったんだろ」
「嫌だって、気づかなかった」
答えた勇人を、雄太は見つめた。
「笑ってたから?」
勇人は口を閉じた。
雄太の目が赤くなっていた。
「笑ってたんじゃない……」
靴に、黒いものが絡みついた。
「笑うしか、なかったんだよ」
雄太が胸を押さえた。
スマートフォンが手から落ちる。
「雄太?」
首筋に黒い筋が走った。
勇人が伸ばした手を、強い力が弾いた。
雄太の喉から、笑い声が漏れた。
本人が口を押さえても、止まらなかった。
その顔を、白い仮面が覆っていく。
不自然につり上がった口元。
目の下には、涙のような亀裂。
黒い靄が制服を包み、左右の形が違う道化の衣へ変えた。
肩の鈴が鳴った。
勇人は後ずさった。
「雄太……だよな?」
笑顔の仮面が、ゆっくりとこちらを向いた。
笑い声が膨れ上がった。
何人もの声が、道いっぱいに響いていた。
道化の異形が、その声を振り払うように腕を振る。
衝撃が走った。
路肩の自転車が倒れ、勇人も地面へ投げ出された。
通りかかった人が悲鳴を上げて逃げていく。
勇人は顔を上げた。
「雄太! やめろ!」
仮面の奥から、声がした。
「……笑うな」
雄太の声だった。
「もう、笑うなよ……!」
再び腕が振り下ろされる。
勇人は身を伏せた。
脇の塀が砕け、破片が肩を打った。
息が詰まった。
逃げなければ。
次は、当たる。
立とうとしても膝に力が入らなかった。
異形は両手で自分の顔を押さえていた。
笑い声が響くたびに、苦しむように体を折っている。
勇人は、その手を見た。
昨日、リボンの付いたチョコレートを差し出した手。
『土曜、来る?』
また一緒に遊ぶ。
昨日は、それが当たり前だった。
勇人は地面に手をついた。
震える足に力を込め、立ち上がった。
「……返せよ」
その声に、異形が顔を上げた。
勇人は目の前の姿を見据え、叫んだ。
「雄太を返してくれ!」
胸元で光が弾けた。
勇人が目を落とすと、祖母から託されたお守りが、制服の下で輝いていた。
紐をたぐって取り出すと、布の刺繍に青緑の光が走った。
――その者を、救いたいのですね。
勇人は顔を上げた。
女の人の、静かな声だった。
辺りを見回しても、それらしい姿はなかった。
「誰……?」
――その願いを、声に。『天装』と。
地面を踏む音に、勇人は振り向いた。
異形が、すぐそこまで迫っていた。
勇人は、お守りを握りしめた。
「……天装!」
朱色の結び紐がほどけた。
白い布が羽衣となって広がり、勇人を包む。
光は胸を巡り、肩へ、腕へ、脚へ走った。
襟を合わせるように重なる白銀の装甲。
深い青緑の胸甲。
額に伸びる金の前立て。
兜の奥に、光が灯った。
白銀の籠手が、振り下ろされた腕を受け止めた。
鈍い衝撃が肘まで走る。
勇人は歯を食いしばった。
目の前に、笑顔の仮面があった。
「雄太――」
横から拳が飛んできた。
顔をそらすのが、間に合わなかった。
兜を殴られ、視界が跳ねる。
続けて腹を蹴られた。
勇人は数歩よろめき、背中から駐車場のフェンスへぶつかった。
「いっ……!」
痛かった。
鎧をまとっても、痛みも恐怖も消えてはいなかった。
異形が駆けてくる。
勇人は慌てて身をかがめた。
頭上で金網がひしゃげる。
すぐ目の前に、相手の胴があった。
「来るなっ!」
両手で押した。
異形の体が宙へ飛び、数メートル先へ転がった。
勇人は自分の掌を見た。
「え……」
倒れた相手が、身を起こす。
勇人は反射的に手を伸ばしかけた。
「雄太、大丈――」
異形が跳ねた。
両足をそろえた蹴りが、胸へ突き刺さる。
勇人は駐車場の中へ吹き飛ばされ、アスファルトを転がった。
止まったときには、もう相手が迫っていた。
振り下ろされた足を、転がってかわす。
続けて落ちてくる拳を両腕で受ける。
重い。
腕を下ろしたら、顔に当たる。
勇人は地面を蹴り、異形の腹へ足を突き出した。
押し戻された隙に、どうにか立ち上がる。
息が荒かった。
何が起きたのか、考える暇もなかった。
右から爪が来る。
左腕で受けた。
反対の拳が腹へ入った。
勇人は体を折りながらも、相手の肩をつかんだ。
これ以上殴られないよう、必死に押さえ込む。
「雄太! 聞こえないのか!」
仮面が、すぐ前で傾いた。
「……ワラエ」
肩の鈴が鳴った。
笑い声が、二人の間で破裂した。
勇人の足が浮いた。
背中を地面へ打ちつけ、息が止まる。
起き上がろうとしても、空気が肺へ入らない。
その向こうで、異形が道路へ顔を向けた。
倒れた自転車のそばに、人がいた。
車輪に鞄の紐が絡み、動けずにいる。
鈴が揺れた。
勇人は咳き込みながら立ち上がった。
「そっちに行くな!」
走った。
思ったより速く、距離が縮まる。
止まりきれないまま、異形の横腹へ肩からぶつかった。
二人で駐車場の奥へ転がる。
「鞄、置いて! 逃げて!」
勇人が叫ぶと、その人は紐を放し、走り去った。
直後、腹へ膝が入った。
勇人の体が浮く。
異形が下から抜け出し、腕を振り上げる。
勇人はとっさに手を前へ出した。
掌で、青緑の光が伸びた。
硬い音が響く。
現れた剣が、異形の爪を受け止めていた。
「……剣?」
爪が刃の上を滑り、火花が散った。
勇人は慌てて、もう一方の手も柄に添えた。
押し返すと、相手の腕が外へ開いた。
がら空きの胸が、目の前にあった。
剣を持つ腕が動きかけた。
その先に、雄太がいる。
勇人は刃を止めた。
異形の拳が、兜を打った。
よろめいたところへ、もう一撃。
勇人は剣を抱えるようにして身を縮め、肩で受けた。
「くっ……!」
後ろへ下がる。
異形は離れない。
振り回される腕を、剣で受ける。
弾かれた切っ先を戻す前に、脇腹を殴られた。
一撃ごとに、足がもつれた。
「雄太……やめろって!」
肩の鈴が震えた。
『それ、俺にだけ言われたやつ!』
昨日の、自分の声。
教室の笑い声が続いた。
勇人の動きが止まった。
その腹へ、異形の拳が突き刺さった。
体が折れる。
襟元をつかまれ、引き起こされた。
「オマエモ、ワラッタ」
勇人は相手の腕をつかんだ。
「……笑ったよ」
息が苦しかった。
「ごめん。俺……気づかなくて……!」
異形が勇人を突き飛ばした。
謝っても、攻撃は止まらなかった。
鈴が鳴る。
笑い声の波が来る。
勇人は剣を斜めに構えた。
衝撃に押され、靴底が地面を滑っていく。
腕がしびれた。
柄が指から抜けそうだった。
「やめてくれ……!」
声が漏れた。
異形が、その波の向こうから迫った。
勇人は剣を振り上げた。
だが、やはり刃を向けられなかった。
剣を横へ倒し、腕を受け止める。
そのまま押し込まれた。
背中がフェンスへ当たった。
もう、下がれない。
仮面が近づく。
大きく開いた笑顔の奥から、かすれた声がした。
「……逃げろ」
勇人が目を見開いた。
「雄太?」
異形の片手が、自分の首元をつかんでいた。
何かを引き剥がそうと、指を立てている。
「俺……止められない……!」
黒い筋が腕を走った。
その手が首から離れ、勇人の顔へ振り下ろされる。
勇人は身をひねった。
爪が兜の脇をかすめ、フェンスへ突き刺さった。
勇人は相手の肩を押し、横へ抜けた。
距離を取ろうとして足を滑らせ、片膝をつく。
――その剣は、悪しきものを断つ剣。
声が響いた。
勇人が顔を上げた瞬間、異形の蹴りが来た。
剣の腹で受ける。
衝撃で柄が胸へ押しつけられた。
――人を縛るものを、斬り離すことができます。
「こいつを……助けられるのか!」
返事を待つ間もなく、爪が迫った。
勇人は立ち上がりながら受け流そうとした。
うまくいかず、刃が跳ね、肩を裂くような衝撃が走った。
痛みに顔をしかめる。
その至近距離で、見えた。
仮面の亀裂。
その奥を這う、黒い靄。
靄が雄太の体へ食い込み、腕を引き、首を締めていた。
「それか……!」
異形の腕を押し返す。
剣を持ち直した。
雄太を縛るものへ。
勇人は横から剣を振った。
異形が身をひねり、刃は肩をかすめた。
鈴が一つ砕け、耳障りな音を立てて転がった。
振り抜いた腕が、外へ流れた。
戻せない。
そこへ体当たりを受けた。
勇人は地面へ倒れ、剣を取り落とした。
異形が覆いかぶさってくる。
勇人は両手でその腕を押さえた。
顔のすぐ上で、爪が震えていた。
足を踏ん張る。
押し返そうとしても、背中が地面を擦るだけだった。
仮面の向こうから、雄太の声が漏れた。
「勇人……もう……」
勇人は首を振った。
「嫌だ」
指に力を込める。
「お前を置いて、行けない……!」
異形の腕が、一瞬緩んだ。
勇人は膝を間に入れ、体ごと蹴り離した。
横へ転がり、落ちた剣へ手を伸ばす。
指が柄に届く。
つかんだ瞬間、足首を引かれた。
勇人は振り返りざま、剣の鍔で相手の手を打った。
拘束が解ける。
立ち上がる。
異形も立つ。
互いの距離は、数歩しかなかった。
勇人は息を吸った。
怖い。
また殴られる。
今度は、立てないかもしれない。
剣を握る両手が震えた。
それでも、その向こうにいる友達を見た。
「雄太」
鈴が鳴り始めた。
「お前に取り憑いてるものを、斬る」
異形の首が、わずかに動いた。
「だから……お前の声、聞かせてくれ」
笑い声が膨れ上がる。
その奥から、声がした。
「……助けて」
勇人は踏み出した。
笑い声の衝撃が胸を打つ。
前へ出した足が押し戻される。
倒れそうになり、膝を曲げて耐えた。
もう一歩。
異形が腕を振り上げた。
勇人は剣で受けた。
激しい音とともに、刃が外へ弾かれる。
異形のもう一方の手が伸び、勇人の肩をつかんだ。
逃げられない。
勇人も、その腕を左手でつかんだ。
離れたら、また届かなくなる。
爪が肩の装甲へ食い込む。
「う、ああっ……!」
痛みに声が漏れた。
勇人は相手の腕を抱え込み、踏み込んだ足を動かさなかった。
外へ弾かれた剣を引き戻す。
目の前に、仮面の亀裂があった。
その奥で、黒い靄が脈打っている。
「雄太を――」
勇人は剣を斜めに振り抜いた。
「返せえっ!」
青緑の光が走った。
肩を締めつけていた手が、開いた。
笑い声が止まる。
白い仮面が割れた。
道化の衣がほどけ、その中から雄太が崩れ落ちる。
勇人は剣を手放し、両腕で抱き止めた。
その瞬間、雄太の背中から黒いものが引き剥がされた。
拳ほどの塊だった。
煙のように形を変えながら、宙で激しく脈打っている。
「……何だ、あれ」
勇人が見上げる。
黒い塊は一度膨らむと、何かに引かれるように勢いよく飛び出した。
細い尾を引き、フェンスを越え、家々の屋根の向こうへ遠ざかっていく。
消えたのではない。
どこかへ、飛んでいった。
「……勇人」
腕の中から声がした。
勇人は、すぐに雄太へ顔を戻した。
「雄太!」
雄太が薄く目を開き、勇人を見上げていた。
頬には、もう仮面はなかった。
勇人はうなずいた。
声を出そうとしたが、うまく出なかった。
地面に落ちていた剣が青緑の光となり、勇人の胸元へ戻った。
白銀の鎧も光となり、ほどけていく。
胸元へ戻ったお守りが、小さく揺れた。
雄太が勇人の制服をつかんだ。
勇人も、その手を握った。
ようやく、息を吐いた。
「……戻ってきた」
その声は、まだ震えていた。
道の端に腰を下ろし、二人は並んでいた。
雄太は自分の両手を見ていた。
「俺……何した?」
勇人は、ゆっくりと答えた。
「黒いものが、お前から出ていった。今はもう、いないと思う」
雄太が顔を伏せた。
「声、聞こえてた。ずっと笑われてて……俺も、止められなくて」
勇人は黙って聞いていた。
「俺さ。嫌だって言ったら、誰も話しかけてくれなくなる気がしたんだ」
雄太の指が、制服の膝をつかんだ。
「つまんないやつだって、思われたくなくて」
勇人は少し考えた。
「昨日のチョコ、うれしかった」
雄太が顔を上げる。
「プリント拾ってくれたのも。俺が困ってると、雄太って結構気づいてくれるじゃん」
雄太は何も言わなかった。
「俺が一緒に遊びたいの、お前が物まねするからじゃないよ」
雄太は唇を結んだ。
目元を、袖で拭った。
「……土曜」
小さな声に、勇人は雄太へ顔を向けた。
「うん?」
雄太はためらいがちに勇人を見た。
「行っていい?」
「来るって言ったじゃん」
勇人がいつもの調子で答えると、雄太の顔が、少しだけ緩んだ。
笑おうとしたのではない。
息をついたら、そういう顔になったようだった。
やがて、雄太は勇人の手を見た。
「お前、血、出てる」
擦りむいた勇人の掌に、砂が付いていた。
雄太はその傷に気づくと、鞄からハンカチを取り出し、差し出した。
「これ、当てとけ」
勇人はハンカチへ伸ばしかけた手を止めた。
「汚れるよ」
「洗えばいいだろ」
雄太が差し出したままでいると、勇人は小さくうなずいて受け取った。
雄太はためらいながら尋ねた。
「さっきの、お前……何だったの?」
勇人は胸元のお守りを見た。
「俺にも分かんない。昨日、ばあちゃんにもらったやつが光って……」
「怖くなかった?」
勇人は、すぐには答えられなかった。
目の前で塀が砕けた瞬間を思い出す。
体が小さく震えた。
「……怖かった」
雄太が勇人を見た。
「今も、まだちょっと」
しばらくして、雄太が言った。
「じゃあ、もう少し座ってようぜ」
勇人はうなずいた。
踏切の音が、遠くで鳴り始めた。
宇津ノ谷。
地蔵尊のもとへ、一筋の黒い煙が流れ着いた。
煙は石の表面を這い、胸元へ吸い込まれていく。
やがて、何も見えなくなった。
静寂の中。
石の内側で、何かが一度だけ脈打った。
「ただいま」
勇人が玄関に入ると、母が台所から顔を出した。
「おかえり――どうしたの、その格好!」
汚れた制服と、手に巻いたハンカチを見て、母が駆け寄った。
勇人は思わず、傷ついた手を引いた。
「転んだ……ちょっと」
「ちょっとじゃないでしょう。ほかは? 頭は打ってない?」
母に顔をのぞき込まれ、勇人は首を振った。
母は勇人を洗面所へ連れていき、ハンカチをそっと外した。
流水で掌の傷についた砂を洗い落とす。
勇人が顔をしかめると、母は水の勢いを弱めた。
「痛い?」
勇人は傷を見ながら、うなずいた。
「うん」
「もう少しだからね」
傷を洗って食卓の椅子へ座ると、祖母が救急箱を持ってきた。
母が手当てをする傍らで、祖母は制服の襟元からのぞくお守りに目を留めた。
勇人はそれに気づき、祖母を見返した。
言いたいことは、いくつもあった。
けれど、何から話せばいいのか分からなかった。
手当てを終えた母が、汚れたハンカチを手に取った。
「これ、雄太君の?」
「うん」
勇人の返事を聞いて、母はハンカチを畳んだ。
「洗って返さないとね」
勇人はうなずいた。
母が着替えを取りに部屋を出ると、勇人は胸元からお守りを取り出し、掌へ載せた。
「ばあちゃん」
救急箱を片づけていた祖母が、顔を上げた。
「声がしたんだ」
祖母の手が止まった。
勇人は掌のお守りに目を落とし、続けた。
「これが光って……女の人の声がして」
お守りを握り、祖母を見た。
「俺、何になったの?」
祖母はしばらく黙っていた。
そして、救急箱の蓋を閉じ、勇人の向かいへ腰を下ろした。
「その声は、何と言ったんだい」
勇人は、あの声を思い返した。
「……天装って」
祖母は静かに息をついた。
何かを言いかけて、勇人の手元に目を落とした。
「……怖かったね」
その言葉に、勇人は自分の手を見た。
お守りを握る指が、まだ小さく震えていた。
力を入れても、止まらなかった。
「……うん」
それまで話せていたのに、急に言葉が出なくなった。
祖母は何も言わず、待っていた。
「怖かった。すげえ痛かったし……何が起きてるのか、全然分かんなくて」
勇人はうつむいた。
「でも、雄太がいたから。あいつを置いて、逃げられなかった」
祖母は手を伸ばし、傷に触れないよう、お守りを握るその手をそっと包んだ。
「よく、帰ってきたね」
勇人は唇を結んだ。
うなずくと、こらえていた涙が膝に落ちた。
廊下から、母の足音が聞こえた。
勇人の部屋で、引き出しを開ける音がした。
祖母は、勇人の手を握ったままでいた。




