プロローグ『出会い』
昔々、駿河の国。
今の草薙神社のほど近くに、三羽断之信という若者がおりました。
剣の腕は、まだまだ未熟。
けれど、困っている人を見かけると、素通りのできない若者でした。
ある夕暮れのこと。
山道を歩いていた断之信は、大きな木の根元に、一人の娘がうずくまっているのを見つけました。
「どうなされた」
娘は顔を上げ、立ち上がろうとしました。
しかし、すぐに足を押さえて座り込んでしまいました。
その肩にかかった薄衣の端が、風もないのに宙へ浮いておりました。
断之信が目を留めると、娘は慌てて衣を手繰り寄せました。
断之信は娘の前に膝をつき、背を向けました。
「乗りなされ。ここにいては、日が暮れてしまう」
「……私が、恐ろしくはないのですか」
断之信は、不思議そうに振り返りました。
「足を痛めたお人の、何が恐ろしい」
娘はしばらく黙っておりましたが、やがて、おずおずとその背に手を添えました。
「紗夜と申します」
「私は断之信。揺れるが、少し辛抱してくだされ」
それが、若者と天女の、初めての出会いでした。
断之信は、小さな家で一人暮らしをしておりました。
紗夜を連れ帰ると、足を冷やす水をくみ、寝床を整え、自分は土間の近くで眠りました。
翌朝には粥を炊きましたが、少しばかり焦がしてしまいました。
「面目ない。いつもは、もう少しましなのだが」
紗夜は椀を両手で受け取り、一口食べました。
「温かいです」
そう言って笑うので、断之信はそれ以上、言い訳ができなくなりました。
傷が癒えるまでのつもりだった暮らしは、いつしか二人にとって、かけがえのない日々になってゆきました。
断之信が畑から帰れば、家には明かりが灯っておりました。
紗夜が水を運ぼうとすれば、断之信が片方の桶を持ちました。
「もう、足は痛みませんよ」
「承知している。私も使う水だからな」
二人は桶を一つずつ持ち、並んで帰りました。
ある日、畑仕事から戻った断之信が、椀を取り落としかけました。
紗夜が見ると、その掌には、つぶれたまめがありました。
「手を、見せてください」
「このくらい、洗っておけばよい」
それでも紗夜が手を差し出したままでいるので、断之信はおとなしく掌を預けました。
紗夜は傷を洗い、清潔な布を巻きました。
握ったときに痛まぬよう、結び目の位置を何度か直しました。
「きつくありませんか」
「……ああ。ありがとう」
翌朝、断之信は紗夜が起きてくるまで、重い水桶を持ち上げずに待っておりました。
断之信は、紗夜がどこから来たのか、無理に尋ねませんでした。
紗夜もまた、帰る日のことを口にしなくなりました。
里の外れには、小さな祠がありました。
中に納められているのは、刀でも鏡でもなく、一つの石でした。
青みを帯びたその石には、刃で引いたような筋が一本、走っておりました。
断之信は時折、祠の落ち葉を払い、水を供えておりました。
「大切な石なのですね」
ある日、共に訪れた紗夜が尋ねました。
「昔、日本武尊がこの地で火に囲まれたとき、草薙の剣を振るわれたそうだ。その力が、この石に残ったと伝えられている」
断之信は、祠の傾いた戸を直しながら続けました。
「祖父は、悪しきものを断つ力だと言っていた。もっとも、私は光るところさえ見たことがない」
紗夜は石を見つめました。
その指先が、触れる寸前で止まりました。
「……長く、ここで待っていたのですね」
「何を?」
紗夜は少し考えてから、断之信を見ました。
「それは、まだ分かりません」
日照りが続いた年でした。
畑の土は乾き、沢の水も細くなっておりました。
わずかな水を巡って、里人たちが言い争うことも増えてゆきました。
断之信が仲裁に入った日もありました。
その背後で、立ち去る男が吐き捨てました。
「こんな里、何もかも燃えてしまえばよい」
乾いた風が、土埃を巻き上げました。
その夜。
山に、赤い火が灯りました。
半鐘の音に、断之信は飛び起きました。
外へ出ると、山の端が赤く染まっておりました。
火の粉が風に逆らって流れ、家々の屋根へ降り注いでいました。
「水を! 井戸から水を運べ!」
断之信も桶を取り、燃え始めた垣根に水を浴びせました。
けれど、炎は消えませんでした。
濡れた木の上をなめるように走り、かえって高く燃え上がったのです。
紗夜が、その隣に立ちました。
「この火は……」
炎の奥から、声のようなものが聞こえました。
泣いているようでも、怒鳴っているようでもありました。
次の瞬間、燃える林の中で、大きな目が開きました。
四つ足の獣に似た影でした。
煤を固めたような体の裂け目から赤い光が漏れ、口から吐く息が火の粉となって降り注いでおりました。
「あれは、何だ……」
答える者はおりませんでした。
紗夜は断之信の袖を握りました。
「皆を逃がしましょう」
断之信はうなずき、火の迫っていない道へ里人たちを導きました。
老人に肩を貸し、泣く子を抱き上げ、何度も引き返しました。
そのとき、逃げてきた女が叫びました。
「うちの子がいない! 祠の方へ、祖父を迎えに行ったまま……!」
断之信は山道を振り返りました。
木々の間で、あの獣の影が動いておりました。
「断之信様!」
「二人を連れて戻る。紗夜は、皆と先へ」
返事を待たず、断之信は駆け出しました。
祠のそばで、老人が子どもをかばって倒れておりました。
断之信は二人を抱き起こし、道の下へ促しました。
しかし、その行く手へ炎の獣が躍り出ました。
抜いた刀を、断之信は両手で構えました。
獣が前脚を振るいました。
受け止めた刀が折れ、断之信は地面に投げ出されました。
熱い息が頬を焼きました。
それでも彼は立ち上がり、老人と子どもの前へ戻りました。
折れた刀を握る手は、震えておりました。
「……こちらだ」
獣の目が、断之信を捉えました。
「その二人には、手を出すな」
そのときでした。
背後の祠から、青白い光が漏れました。
戸の隙間を抜けた光が、断之信の足元へ伸びてきました。
祠の中で、あの石が輝いておりました。
断之信が手を伸ばすと、石は吸い寄せられるように、その掌へ収まりました。
焼けつくほどの熱さはありませんでした。
ただ、握る手に、確かな力が満ちてゆきました。
獣が身を低くしました。
その喉の奥で、炎が膨れ上がりました。
「断之信様!」
白い衣が、目の前を横切りました。
紗夜でした。
広げた薄衣が炎を受け止め、二人の左右へ押し流しました。
その肩から背へ、淡い光がこぼれておりました。
断之信は息をのみました。
「そなたは……」
「私は、天より参りました」
紗夜は彼を振り返りました。
「人の姿を借り、この地を訪れたのです。けれど、あなたと過ごすうちに……ここで生きたいと、願うようになりました」
炎が押し寄せ、薄衣の向こうで渦を巻きました。
断之信は、紗夜の隣へ立ちました。
「ならば、共に帰ろう」
紗夜の目が揺れました。
「皆を助けて、あの家へ」
紗夜はうなずきました。
二人のすぐ後ろ、祠の石段では、老人が子どもを胸に抱いて身を伏せておりました。
断之信はその姿を確かめると、獣と二人の間へ、もう一歩進みました。
紗夜は肩にかけていた羽衣を解き、石を握る断之信の手へ重ねました。
「あなたが私を助けてくださったように、今度は、私があなたを守ります」
羽衣が石の光を受け、風もないのに浮かび上がりました。
「その剣は、悪しきものを断つために。この衣は、あなたが生きて帰るために」
断之信は、紗夜を見つめました。
重なった手を、一度だけ強く握りました。
紗夜がそっと手を離すと、羽衣は彼の周りへ広がりました。
「この衣をまとうために――『天装』と、唱えてください」
断之信は石を胸の前へ掲げました。
背後には、守るべき人々。
隣には、共に生きたいと願う人。
彼は迫る炎を見据え、声を放ちました。
「天装!」
羽衣が、光の帯となって駆け巡りました。
折り重なる白銀が胸を覆い、肩を包み、腕と脚を守る鎧となりました。
額には金の前立てが伸び、兜の奥に青緑の光が灯りました。
掌の石から光が走り、一振りの剣が姿を現しました。
炎が割れました。
その前に、一人の武者が立っておりました。
腰に流れる羽衣をなびかせ、断之信は剣を構えました。
これが、後にクサナギと呼ばれる武者の、始まりでございました。




