婚約成立
「なんだ。婚約出来ないって言うからもっと面倒な事情を抱えているのかと思ったのに」
困惑するアイリスをよそにカイは嬉しさを滲ませた声を出す。貴族社会は一つの噂で家が潰れることだってある。公爵家や侯爵家のような大貴族といえど多くの貴族に睨まれたらひとたまりもないというのに。
どうしてカイが余裕でいられるのかアイリスにはさっぱり分からなかった。
「その事情は置いておくとしてアイリスは僕と婚約したくない?」
「それは…。そんなことないわよ、あなたと結婚出来たらとても幸せだと思うわ」
「うん。僕も君と結婚出来たら幸せだ」
必死になって自分の気持ちを伝えれば嬉しそうに目を細めて手を握ってくるカイにアイリスは頬が熱くなる。実際に赤くなっているかは分からないけど熱を持っているのは間違いない。
「僕と婚約しよう、アイリス」
「でも…」
「大丈夫、誰も僕達の不貞を疑ったりしないよ」
いくらなんでも誰もってことはないでしょ。
訝しげな表情を見せるアイリスの心を見透かしたようにカイはくすくす笑った。
「少なくとも表立って批判されるような事にはならないよ。君の元婚約者があまりにも馬鹿だったおかげでね」
確かにハリーはあまり頭が良くない。しかし仮にも王太子だ。次期国王相手に馬鹿と言うのはどうなのだろうか。心の中でならいくらでも罵って良いと思うけど。
カイの不敬にアイリスは彼の身が心配になった。
「ハリー殿下が平民の女生徒に惚れ込んでいる事は王城内でも噂になっているよ」
「でしょうね」
アイリス自身はあまり聞いたことがないけどそれは彼女を気遣った周りのおかげなのだろう。しかし人の口に戸は立てられないものだ。特に悪目立ちしてるハリーのことならなおのこと。
「二人の婚約解消の件については殿下が不貞を働いたせいだと言われているよ」
「それは事実ね」
アイリス自身は初恋を忘れて結婚し支え続ける覚悟を決めていたのにハリーは彼女を気遣うそぶりすら見せなかった。いつかは変わってくれるのではないかと思っていたが結局平民の女生徒に惚れ込む始末。別に恋をすることを非難するわけではないがそれなら筋は通すべきだった。そうすればアイリスがここまで苦労することもなかったのに。
「だからって私が不貞を働かなかったということにはならないと思うけど」
「そこは王妃様が協力してくれるから大丈夫だよ」
「王妃様が?」
王妃がアイリスとカイの為に一肌脱いでくれるという予想外の出来事。彼女が作ったシナリオは貴族の女性が好みそうなロマンス展開のあるものだった。
幼い頃からアイリスとカイが想い合っていたと知らずに二人を引き離してしまった王妃が恋心を捨ててまで自身の息子に尽くしてきたアイリスが裏切りに遭った為、今度は好きな人のところで幸せになれるように背中を後押しするという話。
ほとんど事実ではあるがアイリスとカイが想いを通わせたのはつい先ほどのこと。王妃の慧眼にアイリスは少し苦笑いを漏らした。
「事実であろうとなかろうと王妃様が言葉に出せば事実になるからね。誰も表立って批判なんて出来ないよ」
「そうかもしれないけど。よく王妃様を味方にしたわね」
カイの実家と王家はそこまで近い間柄というわけじゃないはずなのに。ましてや彼はまだ当主の座を引き継いでいない。どうやって王妃を味方に引き入れたのか甚だ謎である。
「アイリスの事で話したいと言ったら謁見を許してもらえたんだよ。君は王妃様に好かれているからね」
アイリス自身も王妃に好かれていたことは自覚している。が、それだけで味方になってくれるとは思えない。カイとの件に味方したのは別の理由があるのだろう。
王妃がアイリスを気に入って息子と婚約させた話は有名だった、それゆえに結果が残念なものとなり自身の名が傷つくことを恐れたのか。はたまた自身の息子の不貞を許して欲しいという意味が込められているのか。
考えてみたが真相は謎のままアイリスは心の中だけに留めておくことにした。
「殿下のアイリスに対する態度はみんなが知っている。だから今回の件で君が誰かに傷つけられる心配はないよ。同情は多そうだけどね」
同情なんて要らないけど傍から見たら婚約者に浮気された女に見えるから仕方のないことだ。
「すぐにじゃなくて良い。もう少し落ち着いたら僕と婚約してくれないか?」
好きな人と一緒になる未来を思い描いたのはいつぶりだろうか。
想像だけで胸がいっぱいになる想いのままアイリスは差し出された手にそっと自分の手を重ねた。
「私で良いのなら」
「僕は君じゃないと嫌だよ」
手の甲に落とされた口づけはアイリスの顔を赤く染めるのに十分だった。
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