表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/16

プロローグ 選挙翌日の議員会館

 濃厚な胡蝶蘭の甘い香りと、シュレッダーが吐き出す熱を帯びた紙の匂いが、狭い廊下でぶつかり合って奇妙な悪臭を放っている。 

 山中はその様子を横目に悠々と歩いていた。

 衆議院第一議員会館の廊下は、まさに生と死の境界線だった。 

 数軒先の一室では、落選した前職の秘書たちが、段ボールを閉じるガムテープをピーツッと悲痛な音で鳴らし、強制立ち退きの作業に追われている。

 ネームプレートが剥がされたドアの跡は、まるで剥ぎ取られた皮膚のようだった。 

 一方で、山中が仕える『総理大臣・神崎 孝一のオフィス』の前に並ぶ胡蝶蘭の列は、もはや廊下を半分塞ぐほどの狂い咲きを見せている。

 当選、それも最高権力の継続。勝てば官軍、負ければただの無職。この冷酷なシステムが、山中の皮膚を心地よく刺激した。

 山中は四十代前半で神経質そうな切れ長の目をしており、細身の体に紺色のスーツを纏っていた。


 「――ええ、先生も大変喜んでおられます。今後とも、地元共々よろしくお願いいたします」 


 自室の入り口で、あえて声を張り上げるようにして陳情の客を捌いている男がいる。

 私設秘書の鈴木だ。 

 山中は、手元のお礼状リストに目を落としたまま、眼鏡の奥の目を険しく細めた。 

 鈴木の周りには、選挙直後特有のギラギラとした欲望を隠そうともしない官僚や、巨額の利権を狙う建設業者の幹部が群がっている。

 彼らが差し出す名刺を、鈴木はさも当然のように受け取り、人好きするような笑みを浮かべていた。


 (調子に乗りやがって……ただの私設のくせに……)


 激しい嫉妬が、山中の胃の底からせり上がってくる。 

 山中は国家公務員特別職としての身分を持つ『公設秘書』だ。私設秘書よりも給与も立場も上のはずだった。

 しかし、総理の地元を長年統括し、集票マシーンの鍵を握っているのは私設秘書の鈴木なのだ。

 東京でどれだけスマートに国会実務をこなそうが、地元の支持者や有力企業は、金を配り、頭を下げて回る鈴木を『次期後継者の筆頭』と見なしている。

 山中の目的は、秘書という椅子のコレクションではない。

 その先にある『バッジ』だ。

 いつか、この総理が引退するとき、その強固な地盤と莫大な政治資金をそっくりそのまま引き継ぎ、自分がこの会館の『主』として君臨する。

 そのためには、まず地元のボスである鈴木をこの部屋から、いや、政治の世界から完全に排除しなければならない。


 (成り替わってやる。鈴木、お前の場所は俺のものだ) 


 山中は胸ポケットのペンを強く握りしめた。 

 赤坂や新橋の路地裏。一見さんお断りの高級料亭に横付けされる黒塗りの車から降り、若女将に慇懃に迎えられる。

 上座の座布団に深く腰掛け、最高級の日本酒を喉に流し込む。

 自分の耳元で、日本を動かす大企業のトップや大物官僚が、


 「山中先生、次の法案の件ですが……」


 と額を畳に擦り付けんばかりに密談を求めてくる――。 

 あの座敷に流れる、金と権力が融解した濃密な空気。

 酒を飲み、相槌を打ち、たまにテレビに出て作成されたメモを読めばいい楽な仕事。

 そのポジションに座る。

 それだけが、山中という人間を突き動かす唯一の燃料だった。


 「山中さん、ちょっとこれ、確認してもらえますか?」 


 鈴木が、さも面倒な雑務を押し付けるような軽い口調で、書類の束を山中のデスクに放り投げた。 

 山中は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに完璧な有能な公設秘書の微笑を張り付かせて顔を上げた。


 「ああ、鈴木さん。お疲れ様です。すぐに見ますよ」 


 頭の中で、鈴木を奈落の底へ突き落とすための、冷徹なシナリオの最初の1行を書き込みながら。



 西国家の食卓は今日も賑やかだった。

  鰈の唐揚げ甘酢あん仕立て、青菜のお浸し、玉子の油揚げ包み, 人参のしりしり、茄子の浅漬けがテーブルに我が物顔で並んでいる。

西国 由香(にしくに ゆか)は、男役のような凛々しく涼やかな一重の目で料理を一瞥し、


 「智恵、また作りすぎだよ」


とはきはき言いながら箸を整えた。

年齢を感じさせない端正な横顔は、この家の“柱”らしい凛とした気配を纏っている。

その隣で、由香の孫の(はるか)が小柄な体を縮めるように座り、


 「また、落ちた……面接までいったのに……」

 

 と胃を押さえた。

 可愛らしい童顔が曇り、気弱な声が食卓の賑やかさに埋もれる。

 就職に失敗して落ち込んでいるのに、由香に振り回されてばかりだ。

 柴山 海斗(しばやま かいと)はひょろりとした体を折りたたむように座り、元気よく言うが、眉と目はへにょりと垂れていた。


 「僕も、落ちました!七連敗中です!」


 気弱で押しに弱く、要領も悪い。人懐っこいその性格は、由香に怒られ、智恵に可愛がられ、遥に心配される毎日だ。

 都守 智恵(つもり ともえ)は目尻の皺を深くして笑いながら、巨大なタッパーをテーブルに追加で置いた。

 「食べれば元気出るよ」と、田舎のおばちゃんらしい調子で言う。

 料理は“大量に作るもの”と信じて疑わない。


 「海斗、もう就職諦めて、智恵の調理補助の方がいいんじゃないかい?」


 由香が言うと、海斗はしょんぼりと背筋を伸ばした。


 「……スーツ着て丸の内歩きたい」


 その言い方が拗ねた柴犬のようだ。


 「だよね!私もきれいなビルで、颯爽と歩きたい!!」


 遥は目をきらきらさせて、海斗に賛同した。

 智恵は「かわいいねえ」と笑い、由香は「……お前たち、現実を見な」とため息交じりに呟いた。


 賑やかで、少し騒がしくて、でもどこか温かい――

 西国家の食卓は、今日もそんな風に始まった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ