表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/16

第1話 総理、家出する

 数か月後の夕方近く。

 永田町の官邸は、まだ昼間の熱気を引きずっていた。

 会議室の灯りはほとんど消えているのに、廊下には疲れ切った官僚たちが資料を抱えて走り回っている。

 SPは交代の時間を過ぎても立ちっぱなし。

 父の代かの私設秘書の鈴木は、調整がつかない総理のスケジュールを見ながら頭を抱えていた。

 その中心にいるはずの男――

 神崎 孝一(かんざき こういち)総理は、静かにネクタイを緩めていた。


「……もう無理だ」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。

 選挙中も応援や選挙活動で秒単位での移動だったが、選挙後の激務は、想像以上だった。

 祝勝会、記者会見、党内調整、外交日程、緊急会議、国会答弁。

 寝たのかどうかも分からないほどの数か月。

 神崎はふらふらと立ち上がり、官邸の裏口へ向かった。

 SPが気づくより早く、神崎は静かにドアを開けた。

 茜色の空、風が頬を撫でる。


「……帰ろう」


 どこへ、とは言わない。

 ただ、帰りたい場所があった。

 神崎は、官邸を抜け出した。

 その瞬間――

 廊下の陰から、ひとりの男が目を見開いた。

 公設秘書の山中 喜一(やまなか きいち)だった。


(……総理が、官邸を……?)


 部屋に総理がいないことに気づいたSPが慌てて走り出す。

 私設秘書の鈴木が真っ青になって立ち竦んでいた。

 官邸が騒然とし始める。

 その様子を見て、山中は口元を歪めた。


(ああ……これは使える)


 胸の奥で、黒い炎が静かに灯った。




 総理大臣の神崎がタクシーで向かった先は――

 住宅街の一角にある、こじんまりしたイングリッシュガーデンのあるクラシカルな煉瓦造りの洋館だった。

 神崎は玄関の前で深呼吸をする。

 選挙のときより緊張している。

 ふと玄関先に置かれている柴犬の置物を目にする。


 (ああ、まだあったんだ……変わらないなぁ……)


 神崎の身体からすーっと力みが抜けていった。


 ピンポーン。


 チャイムが鳴ると、中から足音が近づいてきた。

西国 遥(にしくに はるか)がドアを開けた。


「はーい……って、ええっ?!神崎総理!?」


 玄関に立っていたのは、総理大臣の神崎 孝一だった。

 凛とした美しい顔立ちと、落ち着いた低音ボイスの神崎は、それまでのド田舎のおっさんくさい総理のイメージ変えた人物だった。

 背の高い神崎を小柄な遥は見上げて目を丸くした。


「こんばんは……遥ちゃん」


遥は低音ボイスが腰が砕けそうになるのをぐっと堪える。


「こんばんはって……なんで総理がうちの玄関にいるの……?いや、それより、なんで私の名前知ってるの?」


「それは勿論、遥ちゃんのことを由香さんから聞いているからだよ」


 遥は胃のあたりを押さえた。

 もう痛い。

 これは絶対におばあちゃんが絡んでいると確信した。


「疲れたから……」


「理由になってないからっ……!」


 遥は涙目になる。

 そこへ、奥から由香が顔を出した。


「何を騒いでいるんだい……孝一、あんた、何しに来たんだい?」


 由香が眉を顰めた。

 神崎は、由香を見ると一瞬で表情が緩んだ。


「……帰ってきたよ。ただいま」


「帰ってきたよじゃない!。孝一、官邸はどうしたんだい」


「抜け出してきた」


「えっ、総理大臣が抜け出してきたって……」


 遥の胃がさらに痛む。

 由香はため息をつきながら神崎を家に上げた。


「まったく……総理がこんな時間に来る家なんて、うちくらいだよ」


「そうだね……」


 ソファーに座った神崎が素直に頷く。

 そこへ、由香の親友兼幼なじみの都守 智恵(つもり ともえ)が特注の巨大な保冷バッグを抱えて現れた。


「あら、孝ちゃん、来てたの?唐揚げ食べる?」


田舎の気のいいおばあちゃん智恵が神崎に問う。


「食べる」


即答だった。


「お腹が空いて死にそうだよ、智恵ちゃん」


「総理、唐揚げ食べてる場合じゃないと思うんだけど……」


「食べないと動けないんだよ」


「官邸抜け出して唐揚げを頬張る総理……顔がいいだけに嫌だ……」


 その姿を想像した遥は頭を抱えた。

 駐車スペースに車を停めてきた柴山 海斗(しばやま かいと)が居間に入って来た途端、神崎を見て固まったが、次の瞬間、がばっと正座した。


「神崎総理!僕、荷物持ちします!」


 神崎は唐揚げを咀嚼しながら、


「君は誰だい?」


「智恵さんの家に住み込みで働いている海斗です!元誘拐犯です!」


「帰れ」


「えっ、即答って酷い」


 神崎の即答に、海斗は肩を落とした。




 その頃、官邸は地獄絵図だった。


「総理がいない!?」


「裏口から出ていった!?」


「SPは何をしていたんだ!」


「私設秘書はどうした!」


 山中はその混乱を見ながら、静かにスマートフォンを取り出した。

 用意していた捨てSIMの回線を開く。


(総理が官邸を抜け出した……これは“誘拐”に見せかけられる)


 山中は、フリーメールで文章を打ち始めた。


 《総理を誘拐した。身代金10億円を要求する》


 送信ボタンを押す。

 官邸のメール受信音が鳴り響いた。


「な、なんだこれは……!?」


「総理誘拐!?」


「身代金10億円!?」


「本物か!?」


 官邸がさらに混乱する。

 山中は、誰にも気づかれないように静かに笑った。


(これで……私設秘書は終わりだ)




 由香の家では、総理が唐揚げを食べていた。


「うまい……官邸よりうまい……」


「官邸と比べるより、私の胃のためにも早く帰ってほしい……」


 遥は痛む胃をさすりながら言った。

 智恵は嬉しそうにタッパーを差し出す。


「孝ちゃん、卵焼きもあるよ」


「食べる、智恵ちゃん」


 由香は呆れたように言った。


「孝一、あんた……今頃、官邸は大騒ぎだよ。いいのかい?」


「……うん」


「うんじゃないよ」


 神崎は、由香の前では完全に少年のようだった。

 お腹が膨れて眠くなった神崎がソファーにごろりと横になった。


「ちょっと休ませて……」


「うちは休憩所じゃないんだけどね」


 由香は呆れた声で言う。


「いや、休む場所がうちっていうのが問題だよ……」


 遥は胃を押さえたまま、横になっている総理に恐る恐る聞く。


「総理……公務ありますよね……?」


「……忘れて」


「忘れてじゃないですっ!!」


 海斗が元気よく言った。


「僕、総理のスケジュール管理します!」


「君は誰だい?」


「智恵さんの家に住み込みで働いている海斗です!元誘拐犯です!」


「いらん。帰れ!」


 二度目の即答だった。


(ああ、まだ直ってなかったんだね、人の顔を覚えない癖……)

 

 由香は残念なものを見るような目をした。


 (これで政治家なんてやっていられるんだから不思議だよ)


 本格的に寝る体制に入る神崎に孫の遥があんぐりと口を開けている。

 この様子では、当分神崎は帰らないと長年の付き合いでわかった。

 由香がリモコンでテレビをつけた。

 毎週、欠かさず観ている番組がそろそろ始まる。

 番組が始まったとたんに、速報としてテロップが流れた。


 『神崎総理、誘拐。犯人は身代金を要求』


 由香はため息をついた。


「孝一、あんた……誘拐されたことになってるよ」


 神崎が億劫そうに目を開けた。


「……なんで?」


 遥は胃を押さえたまま叫んだ。


「総理はうちで唐揚げ食べてごろ寝してるのに、官邸は誘拐騒ぎって何なの……!」


 由香は神崎を睨んだ。


「孝一、あんた……帰りな」


 総理は小さく首を振った。


「やだ」


「やだじゃないからっ!」


 遥の胃が限界を迎え、叫んだ。




 その頃、官邸では――

 犯行声明を受けて騒ぎになっていた。

 警視庁からは捜査1課と公安から捜査員が派遣され、電話は途切れることなく鳴っている。

 その中で山中が静かに笑っていた。


(これで……俺が総理の右腕になる)


 その目は、嫉妬と自己愛で濁っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ