第8話 総理、秘書を失う
神崎の所在は不明だが、警視庁から無事であること、刑事が身の安全に気を配っていることで官邸は落ち着いたが、いつまでも一国の総理が理由なく不在になるのは問題だった。
鈴木は党三役と協議して、神崎の不在を公式に
『総理自らワークライフバランス促進のために休暇と意識改革の実践』
と銘を打ち、総理である神崎が休暇を取ることにより、社会全体により良い労働環境への改善となるべく自らが実践しているとマスコミに発表した。
渋る幹事長と政調会長の説得には骨が折れたが、概ね国民が好意的に捉え、支持率が上がていることが後押しとなったことや、ワークライフバランスを掲げていた野党が賛同したことが背中を押した。
沈静化しつつあることに鈴木はほっと息を吐いた。
(ふうっ、漸く、今夜は帰れるな……)
「孝一、あんたのずる休みが休暇扱いになってるよ」
食卓で由香が揶揄うように新聞を見せた。
「あ、本当だ。お休みいつぶりかなぁ……」
「えっ、そんなに?」
遥が思わず声を出した。
「うん。ここ三年くらいお盆もお正月も無かったから」
「うわっ……」
政治家ってブラック企業だと遥は震えた。
「さあさあ、朝ごはんだよ。いっぱいお食べ」
智恵が海斗を従えて台所から出てくる。
手には出し巻き卵が盛られた大皿があった。
後ろの海斗は大量の里芋の煮っころがしと蕗と油揚げの煮物を持っていた。
すでにテーブルには鮭の西京焼きとかぶと人参の糠漬け、茗荷谷と茄子のお味噌汁がある。
「智恵、いつも言うけど、量を考えなよ」
「大量の方が美味しいのよ」
「智恵ちゃんの料理は美味しいから」
「そうだよね、孝ちゃん」
「はぁ、いいけどさ」
いいんだ……と遥は遠い目をして思った。
神崎がお客としてこの家にいるからと、智恵も泊まりに来ていた。
富田も警護として離れることができず、海斗はなし崩し的にいる。
いつもは由香と二人の家が、賑やかで騒がしい。
内緒だが、ちょっといいなと遥は思っていた。
箸を手に取り、炊き立てご飯を頬張る。
向かいでは神崎が相好を崩して、だし巻き卵を頬張っていた。
終電近くの電車でマンションの最寄り駅を降りた鈴木は疲れた体を引き摺るようにして改札を出た。
神崎の失踪から次々と起こる標的型攻撃に身も心もへとへとになっていたが、漸く休めると帰路を歩く。
いつも使っているコンビニが見えると、自然と足が向いた。
「いらっしゃいませ」
(早く帰って、休むつもりだったんだがな……)
鈴木は苦笑する。
夕飯を食べ損ねていたなとお弁当が並んでいる棚を物色した。
和風弁当を手に取り、近くにあった買い物籠にいれる。
ビールに目が行き、ガラスの扉を開けて一本取り出した。
”野菜も食べてくださいね”
地元に住んでいる妻の言葉が思い出されて、サラダを追加してレジに出した。
大学生くらいの店員が弁当を手にして聞いてきた。
「温めますか?」
「いや、いいよ。袋と箸だけ頼むよ」
「はい」
会計を済ませた鈴木は年期の入った鞄とコンビの袋を片手に、光の弱い街灯の下、住宅街をマンションへと歩き出した。
ブブブブ……
胸元に仕舞っていたいたスマートフォンが震えた。
何かあったかと鈴木は急いで取り出して確認をした。
『ちゃんと食べて、寝てる?身体が大事よ』
妻からだった。
口元に笑みが浮かんだ。
「はいはい。分かってますよ」
鈴木は部屋に帰ってから返信しようと、スマートフォンを胸元に戻した。
終電間近の時間帯のため人通りはなく、暗い夜道はいつも少し寂しく不気味に思えた。
木々が植えられた児童公園の横を通る。
昼間は子どもたちの声で明るい公園も、いまは真っ暗で遊具のきしむ音も子供たちの歓声もない。
カサ
その音が妙に耳についた。
(袋の音か……?)
鈴木は歩く速度を少し上げた。
嫌な気がした。
背後に人の気配がある。
住人かもしれない……いや、きっと住人だ。
鈴木はそう思おうとした。
「……」
意を決して、鈴木は振り返った。
誰もいなかった。
薄暗い道だけが駅に続いているだけだった。
「気のせいか……疲れているんだな……」
ほっとする。
足を動かした瞬間だった。
公園入口近くの木の間から黒い影が飛び出してきた。
何かが振り下ろされた。
ガッ!
「っ!」
鈴木は反射的に身を引いた。
コンビニの袋ががさりと音を立てる。
影は無言のまま、鈴木へと手を伸ばす。
その動きは迷いがなく、まるで”目的だけ”を果たそうとするようだった。
鈴木は声を上げることもできず、後ずさった。
が、足元の石にバランスを崩した。
足がもつれ、地面に手をついた。
影が近づいてくる。
街灯の弱い光に浮かび上がった影の輪郭。
身長は自分と同じくらい。
顔は見えない。
手に持っているのはバットだった。
呼吸する音。
それは自分のか、襲ってくる影のものなのか。
鈴木は渇ききった喉から声を絞り出した。
「だ、誰だ……」
影は答えることなく、鈴木に手に持ったバットを振り上げた。
鈴木の目が見開かれる。
街灯の光がバットに反射した。
ゴッ。
……
ゴッ。
鈍い音だけが夜道に響いた。
影の動きが止まる。
倒れている鈴木はぴくりとも動かなかった。
影は倒れた鈴木を確認すると、何も言わず闇へ消えた。
コンビニの袋から出た缶ビールが地面を転がっていく。
コロ…
コロコロ……
少し離れたところで缶ビールが止まった。




