9-3「30」
「何逃げられてんだよ!あんなシャベえネズミによぉぉぉ!」
赤波は先程まで膝を抱えてしゃがみ込んでブツブツと独り言を言っていたあの中年女と同一人物とは思えない程に攻撃的になっていた。
但し、その形相はこの短時間の間に急激に体力と精神力をすり減らしたからか更に一段階老け込んでおり、中年から初老へとランクアップしたかの様であった。
「ほんっとお前【使えねえ】なぁデボクズ!早くカギ取り返して来いよクソが!」
…先ほどの後頭部強打の鈍痛が残る谷地の頭に、自称大女優サマのキンキン声が耳障りに響く。仕事を遂行せねばという使命感と、楽屋ドロボーをまんまと成功させて遁走した雑用係への怒りがスーッと冷えていく。
「さっさと行けよボケ!お前、何しに来てんだよ!ロクな仕事も取ってこねぇで泥棒も捕まえられねえで!」
谷地の目から、スッと理性の光が消えた。
小さくゆっくり息を吐きながら、立ち上がる。そしてそのまま、首と背骨の痛みを鎮めるかの様に小さく深い深呼吸を繰り返す。
「お前!何ボーッと突っ立ってんだよ!」
赤波は今度は谷地の脛を蹴り付けた。が、谷地はビクともしない。
むしろ蹴った赤波の方が足を痛めたらしく、分かりやすく顔を歪めて不恰好に飛び退いた。
「は……早く行けコラボケェ!ゴミ!お前、何の為にお前ココに居んだよ!アタシの、このアタシの手足として働く為だろうが!あぁ!?」
谷地は宙を仰いだまま、動かない。
「ほんっとお前、つくづく【使えねえ】な!死ね!同じ穴蔵で暮らしてる家族共々、のたれ死ね!うすらボケ!」
すると谷地は斜にやっていた目線を江波に向け、そしてゆっくりと歩み寄った。
「………何よ。さっさと失せ……」
赤波はここでようやっと谷地の変容に気付き、一歩後ずさった。が、その顔には依然、目の前の無能マネージャーと世の全てのオタクという劣等人種と自分の情熱と悲しみを認めない世の中への憤怒が渦巻いていた。
すると、谷地は1ミリも表情を変える事なく平然と江波の頭頂部の髪を右手で鷲掴みにし、そのまま真下に振り下ろした。
「えっ!?ちょっ…」
赤波が抗議の弁を口にしようとした次の瞬間、谷地が腰を捻って振り上げた右膝が江波の顔の真ん中を直撃し、鼻骨を砕き、前歯を3本折り、脳を揺らした。
谷地は白目をむいてうつ伏せに倒れ込んだ赤波のすぐそばに立つと、傍の壁に手をかけて体勢が崩れない様に支え、右足を膝ほどの高さに上げ………全体重を乗せてその踵を赤波の首筋に振り下ろした。
安物の革靴の硬い踵は首筋の真芯を的確に捉え、「うえぼっ」という野生的な吐瀉音と共に赤波の口と両鼻から鮮血が噴き出した。そのまま、2回、3回、4回と、決してリズミカルではないがしっかりと体重が乗った鋭いストンピングを、赤波の細い首筋に叩き込む。
9、10、11……
10回を超えたあたりで真紫に内出血した首筋の内側から「ゴリッ」とくぐもった音がした。
同時に赤波の手足が激しく痙攣し始め、身体機能の維持に著しく深刻な障害が発生した事を顕した。が、谷地は顔色ひとつ変える事なく、うつ伏せに倒れた赤波の首筋の真ん中に、的確に、しっかりと体重を乗せて踵を振り下ろしていく。あくまで作業的に、あくまで機械的に。
18、19、20、21……
全身の筋肉が弛緩し、下半身から糞小便が漏れ出した。が、手足は依然赤波の深く暗い執念を体現するかの様に痙攣を続けている。
谷地の表情は人形に写真を貼り付けたかの如く微動だにしない。それでいて赤波の首筋を踏み付け続ける踵の勢いは依然衰える気配がない。
28、29、30。
「…………………………………ありゃ。」
重く、鋭いストンピングが30回に達した瞬間、谷地は憑き物が落ちたかの様に穏やかな表情になり、自分の周りを見回したのち、足元に目線を移した。
横たわる赤波の亡骸とその躯から排出されたありとあらゆる分泌物の海を見下ろしながら、谷地は小さくため息をつき頭をかいた。
「あーあ、またやっちゃったよ」
どうやら谷地は以前にもこの様な軽はずみな行動を起こしたらしかった。が、不思議とその事は表沙汰にならず、今も社会の構成員としてつつがなく暮らせている。そして今後もそう居られるという確信とその理由があるらしい。
「目が覚めたら1人で帰れよ、大女優サマ。」
谷地は今足元に横たわっている、物言わぬ肉塊を悠然と見下ろして言い放った。
◆ ◆ ◆
雛沢ももえが逃走して浅川と赤波が舞台袖に避難し、そして周りのスタッフ迄もがとし子の狂乱に驚いて呆然とする中、舞台上には右目から血を噴き出し息も絶え絶えに横たわる阿松だけが残された。
幸子の怪我は1秒でも救護が遅れれば甚大な障害が残るどころか命が危ないレベルの様に見えたが、どういう訳かスタッフの誰一人として彼女の救護に飛び込んで来る様子がない。
客席のオタク共もこの異常事態を察してはいたが、みな状況判断能力も度胸も親切心も無かったので、ただボーッと事の成り行きを見守る事しか出来なかった。
すると、ステージ上に1人のオタクが慌ただしく上がった。
年の頃は40前後の中肉中背の男だった。
もしかしたら、医療の心得がある……例えば普段医療やレスキューの仕事をしているオタクが痺れを切らし、救護に駆け付けてくれたのではないか。観客席のオタクの誰もがそう思った。
だが次の瞬間、中肉中背男は思わぬ行動に出た。
自らのズボンと下着を下ろして屹立した性器を露出させ、倒れている幸子の下半身の傍に跪き、スカートを雑然と捲り上げたのだ。
男は……中学一年生の時に不登校になって以来25年間ずっと自宅に引きこもり、エペをオカズにしてのオナニーをライフワークとし、1週間前に25年にわたる引きこもり生活を咎めた母親を刺し殺して冷蔵庫に押し込んだオタクEであった。
25年来の想い人を突如襲った惨劇を目の当たりにし、オタクEの情緒は怒りと悲しみと劣情が入り混じるしっちゃかめっちゃかな状態になった。が、ズボンの上からもはっきり分かる程オタクEのポコチンはガチガチに屹立していた。情緒が整理されまとまるよりも先に、肉体の方ははっきりしっかりと分かりやすく反応を示していた。
阿松の衣服を乱暴に剥ぎ取るオタクEを、観客のオタクもスタッフも止めに入ろうとしない。皆目の前で起きている事が現実なのかどうかはかりかねているかの様に、不気味に押し黙っている。
………が、力なく弛緩し、伸び切った両足の間から白い下着が露わになった瞬間、客席にひしめく童貞率95パーセントのオタク達の理性と良心は呆気なく吹き飛び、張り詰めた沈黙が破られた。
「うおほぉぉおぉぉぉぉ!」
「エペちゃん!エペちゃああああああん!」
「ボキのザーメンで治療してあげゆぅぅぅ!」
「バカ言うな、俺だ!俺がやる!」
「どけ、邪魔だ、臭い!」
「エペさまぁぁ!俺のチンポ舐めてくれぇぇぇぇ!」
30人の中高年オタク共が理性と知性なき肉欲の権化と化した。
最前列のオタクがズボンのファスナーに手を掛けて駆け出すも運動不足が祟って自らの足につまづき、股間に手をやっていた為受身を取る事もままならず顔面を打ち付けながら転倒した。後続二人目の108キロのオタクがそいつの両膝裏を思い切り踏みつけて膝の皿を粉々にし、三人目のオタク(デブ)が物々しいアーミーブーツで睾丸を「ぐちゅり」と踏みつけて粉砕し、四人目のオタク(デブ)が革靴のカカトで後頭部を踏み付けて後頭骨を砕き、五人目のオタク(デブ)が背骨の真ん中を踏みつけて真っ二つに叩き折り、トドメを刺した。
ステージ上に群がったオタクは総勢25名。残りの5名はコケたり蹴り倒されたりした上に他のオタクに踏みちゃちゃくられ、観客席で無惨な屍と成り果てた。
すると、オタク共の集まりにスタッフや取材に訪れていたメディアの関係者が一人、二人と駆け寄り、何か話しかけ始めた。不思議な事にどちらも阿松の容態を心配したり通報の相談をしたりする事なく、程なくお互いに顔を見合わせて汚い笑みを浮かべた。何とスタッフや記者共もオタク共と目的の一致を認めたらしく、すぐさまこのおぞましい人だかりの一片と成り果てた。
ある者は狂った様に手足を打ち鳴らし、ある者は半裸で息も絶え絶えの阿松を覗き込みながらポコチンをしごき、ある者は狂った様にスマートフォンで写真を撮り、ある者は阿松のカラダに触れようと人だかりの隙間を縫って手を伸ばして他の人間に手のひらを踏み潰された。
そして、この人だかりの片隅から伸びる「順番待ち」の列の中の一人が順番を守る事なく横たわっている阿松の股間に顔を埋めようとした。そこに別の人間がジャンプして飛びかかり、地を這うオタクの後頭部を全体重を掛けて踏み付けた。オタクの頭蓋が砕け、目と鼻と耳から同時にドロっとした血が噴き出した。
観客のオタク共とその他数人……その数延べ30人は、もはや人だかりとさえ呼べぬ、知性と理性を失って一体化したひと山の汚い肉の塊と化した。中にはスタッフやプレスの様な、本来阿松を守るべき立場の人間もいる。皆等しく強烈な瘴気にあてられたかの様な狂気と恍惚に満ちた笑顔をその顔に張り付かせていた。
肉の塊に飲み込まれ自分の約三倍近い体重のオタクにのし掛かられた阿松は、朦朧とする意識をどうにか繋ぎ止め、無事な方の左目を力を振り絞って見開き、悪態をついた。
「クソ共が……コロ……して………やるぞ……クソ……共がぁぁぁ………」
口汚い辞世の句は群がる馬鹿共の嬌声と肉がぶつかり合う粘着質な音の中に、泥屑の様に消えた。




