9ー2「聞くに堪えない呪詛」
舞台袖にいち早く到着した赤波真麻のマネージャー・谷地は、舞台上から一目散に逃げ出して来た赤波を呼び止めた。
赤波は谷地の姿を見付けるなり駆け寄って来て、ここ数分の間に激烈なストレスに晒された為か赤く蕁麻疹が出ている右手で、強烈な平手打ちを食らわせた。
「いでっっ!」
「何やってんだよ!来い!オラ!」
「ちょっ……いだだだ!」
赤波は谷地の耳を手のひらで包む様に掴むと、そのままバックヤードののホールまで引っ張りながら連行した。何故そんな周りくどくて珍妙な暴行を加えなければならなかったのかはよく分からない。
頬と耳を抑えて痛みを堪えていると、舞台袖の方から浅川奈央とそのマネージャーが戻ってきて2人のそばを通り抜け、2階の副調整室への階段を駆け上がっていった。すれ違いざま、マネージャーがこちらを心配そうに一瞥した。
「僕だって副調整室から全速力で走って来たんですよお!」
谷地は最大限の努力をした事を訴えた。
「違えよ!何でこんな仕事受けたんだっつってんだよボケェェ!」
「今更そんな事言われても!」
「何でこんなとこ連れて来たんだよボケェェ!」
「いやそりゃ仕事だからでしょ!」
「仕事って何だよ!」
「イベントでしょ!?」
「あんな汚物共、客でも何でもねえよおおお!」
「そこは我慢して、今日一日乗り切るって言ったでしょ!」
「言ってない!」
「いいや、言った!」
「言ったとしてもそんなの無効だよ、あんなキモい連中やっぱ無理だよ!」
赤波は錯乱しながら正々堂々とプロとしての務めを放棄した。
「仕事だろう!やれよ!ちゃんt…………」
もう一発平手打ちが飛んできた。掌底がしっかりと頬骨を捉えて、衝撃が脳まで貫通する様に伝わった。
怒気と恐怖に顔を歪める赤波の顔の向こう側に、2階から階段を駆け下りて来た浅川奈央とマネージャーがそのままホール裏口へと走っで行くのが見えた。去り際、もう一度マネージャーがこちらを心配そうに一瞥した。
「何なんだよあの人だかり!何であそこにあんなに人がいるの!」
赤波は尚もよく分からない理由で怒り散らかしている。
「イベントホールって、元々そういうモンでしょう!」
「ああ、オタクが来る!オタクがぁぁぁぁ………!」
赤波は谷地の指摘に耳を貸す事なく、足を震わせながら顔を覆って何かをブツブツ呟き始めた。
「やっぱりオタクって、クズだ。ゴミだ。出来損ないだ。落伍者だ。ケダモノだ。ノータリンだ。人非人だ。オツムの何処かに、私達とは決して相容れられない欠陥があるんだ……」
赤波は聞くに堪えない呪詛を早口で詠唱しながら、その激情を反映するかの様に恐ろしいスピードで広がる蕁麻疹を掻きむしる。あっという間に両腕を覆い尽くした蕁麻疹は、胸元から首筋にかけてもぐんぐん広がりつつあった。
「しかし……何で舞台袖に誰も居ないんだ!?他のスタッフは!?」
「ダメだ痒いオタク菌が感染るオタク病になるオタク病になったら人生が終わる死ぬよりも辛くて無価値で軽薄な人生を送らされる朝からアニメショップやコンビニやオモチャ屋や電気屋に並んで二束三文のグッズだのくじで景品を当てる奴隷の遊びだの幼稚なオモチャだの何だのに少ない稼ぎを突っ込むしょうもなくて臭くて暑苦しくて不健康でデブでそのくせ性欲だけは旺盛でブサイクな連中の風土病を感染されるうう……」
「………取り敢えず移動しよう。ここに居ても仕方ない。」
赤波は谷地の呼び掛けに全く応じない。
「赤波さん!」
大声で呼び掛けてみたが、やはり赤波は応じない。これではもはや谷地の声が聞こえているのやらさえ怪しい。
これ迄も仕事が上手くいかないだの共演者やスタッフの誰々が気に食わないだのとヒステリーを起こして暴れたり塞ぎ込んだりする事はままあったが、ここまでしっかりとぶっ壊れた例は近年ちょっと記憶にない。
まるで粗悪なドラッグを食わされて売り飛ばされた年端も行かないガキの様に情緒が滅茶苦茶だ。確かクスリはやめたと言っていたはずだが。
「死ぬうううう…………」
オタクと同じラインにまで堕する事は、彼女の感性の中では死も同じ。そこは一貫している。少なくとも、赤波真麻としての自我が崩壊している訳ではない事は分かった。
「おーい!誰かー!誰か居ないかーーー!」
返事も返って来なければ、誰かが駆け付けてくる気配もない。客が騒いでいるのか舞台の方は異様に騒がしいが、スタッフが一人も裏手に戻ってこないのはやはり妙だ。
一体何が起きているんだ。
「………はぁ。」
谷地は短く強い溜息をつくと、どうにも話が通じる状態ではない赤波の腕を掴んで強引に立たせ、テメェのわがままで主催者に無理矢理用意させた楽屋まで引きずる様に歩かせた。もう今日はこのまま撤収して、後日主催側にクレームを入れよう。だが、その前に楽屋に置いて来た私物を回収しなければならない。
数秒後、2人は自分達の為に用意された楽屋という名の倉庫の扉の前で立ち尽くしていた。
「鍵は!?」
谷地は赤波が本番に向けてスタンバイする際、バックヤード担当のひょろっこい雑用係がこの部屋に鍵をかけていたのを思い出した。
貴重品だけは谷地が赤波の物まで持っているが、何故かやたら量が多い赤波の私物は全て楽屋の中だ。このままでは帰れない。
「鍵を持ってる奴を探してくるから。ここを動かないでね。分かったね?」
谷地はうずくまってまだ何かをブツブツと呟き続けている赤波に声をかけ、雑用係を探しに駆け出した。
雑用係はすぐに見つかった。
スタッフのロッカーと思しき個室で、両腕に大小様々色とりどりの10個ほどの財布を抱え、手慣れた様子で中から札を抜き取りポケットに詰め込んでいた。
ここのチンケなスタッフが楽屋泥棒の被害に遭ったとて知った事ではないが、楽屋の鍵は開けて貰わなければ困る。谷地は小さく舌打ちをし、下っ腹に力を込めて少々威圧的に声をかけた。
「おい!お前!」
「!」
「カギを………!」
雑用係は谷地の姿を見るや否や、小柄で痩せ型の典型的な虚弱オタクの見てくれからは想像出来ないスピードとパワーで谷地の懐に飛び込み、その右足を両腕で抱え込みながら肩口を腰にぶつけ、押し倒した。反応が遅れた谷地は受け身が取れず壁に後頭部を強打し、目の前に星が散った。
(……何だコイツ、素人じゃねえじゃねぇか!)
レスリングか、総合格闘技か、或いは警察や軍隊で習う様な制圧術の類のいずれかを齧っている人間の動きだった。
谷地が目をしばたたかせているスキに雑用係は取り落とした金を素早く拾い上げ、谷地と江波を嘲笑う様に走り去った。
「ちょ………待て………カギ………」
虚をつかれた谷地は霞む視界を頭を振ってどうにかクリアにし、後頭部と背骨の痛みに堪えながらゆっくりと立ち上がろうとしたところで突如後ろから腰を蹴飛ばされ、再度無様に転倒した。
倒れ込みつつ振り返ると、そこには鬼の形相の赤波が立っていた。




