9-1「マネージャーとしての仕事」
激烈な混乱に陥った副調整室の中でいち早く動いたのは浅川奈央・赤波真麻のマネージャー達だった。
二人とも所属タレントの安全をいち早く確保する為に、ほぼ同時に脱兎の如く副調整室を飛び出した。
副調整室に取り残されたプロデューサーの岸野、ディレクター、タイムキーパーの三人はマネージャー二人を見送ったのち、しばし顔を見合わせた。時間にしてコンマ数秒のこの時間は、三人には数時間にも感じられた。
「………バックれよう」
岸野は情緒を銀河の彼方に打ち捨てたかの様な、何の感情もこもらぬ顔で口にした。
いうが早いか、ディレクターとタイムキーパーは荷物をまとめ、バックれの準備に入った。一番偉い人が、現場責任者がそう仰るのだから従わねばならぬと2人とも嬉々として職務放棄の準備にかかる。
ちなみに岸野は予めこの様な波乱が起きる事を予見していたかの様に最初から持ってきた鞄を肩にかけていて、三人の中でいち早く副調整室を後にし階段を駆け降りてホールの裏口から外に出た。そして、滑稽に小躍りしながら横領したこのイベントの追加予算を軍資金としたキャバクラ巡りの算段を始めた。
この金と貯金でキャバクラを巡り、何処かで適当に由美の代わりを見つけよう。
仕事と由美を失いはしたが、元より成り行きで就いた仕事、成り行きで見つけた愛人だ。全く惜しくも何ともない。金が尽きたら実家に帰って「ちょっと疲れたからゆっくりしたいんだ」などといってぐうたら暮らせばよいのだ。妻?俺に妻なぞハナからいない、バカ言うな。
いつ無くなるとも分からない浮草商売を綱渡りで続ける泡沫声優共、
そいつらにはした金をヒラつかせながら熱を上げるオタク共、
超絶無能にして将来性絶無の無価値女の由美。
みんなまとめて負け犬だ。最後に勝つのは実家が金持ちの上級国民の俺様なんだよ、バーカ。
岸野はスマホを取り出し、早速今夜足を運ぶ店を物色し始めた。頭の中がキャバクラで一杯のまま赤信号の横断歩道を渡る岸野に、見るからに制限速度ぶっちぎりアウトで爆走するダンプカーが凶悪なスピードで迫った。
ドライバーは右手に持ったスマホで風俗情報を物色しながら、左手でポコチンを握っていた。ちなみにハンドルから手を離していた理由は「うっかりしていたから」で、ポコチンを握っていた理由は「こうすれば何だか新しい世界が拓けそうな気がしたから」である。
減速なしの爆速で岸野を跳ね飛ばしたダンプは岸野の首から下をキメの粗いミンチに加工し、そのまま何食わぬ様子で車体に肉片や内臓片をくっ付けたまま走り去って行った。
辛うじて原型を留めたまま吹っ飛んだ生首を、後続のゴミ収集車が潰した。
◆ ◆ ◆
サブから舞台袖までは全力疾走なら2分ももかかるまい距離であった。
年齢が若いのは浅川奈央のマネージャー・武田だったが、先行したのは赤波真麻のマネージャー・谷地の方だった。
明らかに自分よりも年嵩である筈の谷地を追い掛けながら、武田は学生の頃にちゃんと体力作りをしておかなかった事を少し後悔した。武田が大学時代に在籍していたテニスサークルはテニサーとは名ばかりの合コンサークルで、どいつもこいつもコートではなくベッド上で球遊びに興じていやがったのだ。何だかんだで大学の授業には真面目に出席していた自分はそのご相伴にあずかれず、その点だけは大学生活に於ける唯一の心残りで……
(いやいや、違う!こんな時に何ちゅう事を思い出してるんだ俺は!)
妙なタイミングで脳裏に浮かんだパッとしない思い出を武田は必死にかき消した。
何でこのタイミングでこんな事を思い出してしまったのだろう。冷静に行動しているつもりでも、何処かテンパってはいる…という事なのか。
サブの扉を出て20メートルほどの渡り廊下を走破し、スロープを駆け下りて左折後の一本道を直進すれば舞台袖のスペースだ。2人とも無言ながら、互いに目的は同じであった。
ほぼ同じタイミングで階段を駆け降り終わった2人の前方から、慌ただしくこちらへ走ってくる何者かの足音が聞こえて来た。2人とも足を止めて、感覚を研ぎ澄ませる。
……舞台袖からだ。
冷たい沈黙を、更に重たくドロッとした緊張感が侵食する。
(誰だ……………!?)
(ウチのタレントか………スタッフか…………!?)
足音はやがて気配となり、次いで荒い息遣いが2人の耳に入った。
そして『それ』はすぐさま、実体となって2人の前に現れた。
白いワンピースを阿松幸子の返り血で染めた雛沢ももえであった。
谷地は雛沢ももえを無視し、かわす様に素通りして再び駆け出した。だが一方の武田は、驚きと雛沢ももえを取り押さえるべきか否かという迷いで反応が遅れた。
「どけゴラァァ!」
雛沢は実に分かりやすいフレーズで、自分より二回り近く体が大きい武田を恫喝した。
武田はその妙な気迫に思わず身をすくませた。交通事故に遭う直前に身がすくむ時の心境というのはこういう物なのかもしれない、と武田は思った。そう……例えばスマホに夢中のドライバーが運転する前方不注意ダンプカーが減速なしで向かって来た時などは、こんな心理状態になるのだろう。
次の瞬間、前傾姿勢で獰猛に走る雛沢ももえのショルダータックルが武田の脇腹に突き刺さった。
「づっ……!」
ダンプカー並みの衝撃、には程遠かった。
しかし、二回りほどの体格差がある男が相手でも不意打ちであれば転倒させて怯ませるくらいの事はできる馬力と爆発力があった。火事場のクソ力とは全く以てよく出来た表現であった。
「くそっ……」
尻餅を着いた体勢から立ち上がろうとする武田の視界の両端に、自分を置いて舞台袖へ向かう谷地と裏口へ逃げ去る雛沢が映る。武田はどちらを追うべきかコンマ数秒逡巡した。
「……………くそっ!」
武田は体を起こし、舞台袖へと走り出した。自分が担当するタレントの安全確保を優先したのだ。
まずはマネージャーとしての仕事を全うしなければならない。




