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ACTorDIE!〜声優業界下層階級哀話〜  作者: 野乃々田のの
第八章 雛沢ももえの狂宴
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8-7「6分40秒」

 細いハンドマイクが阿松幸子の右目に深々と突き刺さり、制御が効かなくなった阿松の体が倒れ込むよりも先に、とし子は舞台袖へと駆け出した。視界の隅に呆然とした表情で立ちつくす浅川と赤波が映る。


 自分が今持っているのは携帯と財布だけだ。当然、事前にスタッフに預けた私物を回収している暇はない。真っ直ぐホール裏口を目指して全力疾走する。


 思考も感情も不思議と落ち着いていた。

 無論、それは一種のトランス状態の中での一時的な落ち着きでしかないのかもしれない。

 もしかしたら後日、激烈な後悔と目から血脂を吹き散らしながらゆっくり倒れる阿松のフラッシュバックに苛まれたりするかもしれない。が、今は「とにかくこの場からすぐ離れよ」というミッションに向けてのタスクを比較的冷静・確実に遂行できている。


 ロビーには2人の男が呆けヅラで立っていた。

 浅川と赤波のマネージャーだった。

 おおかた2人ともステージ上でで起きた事を目の当たりにし、慌ててサブから降りてきたのだろう。少し迂回して2人の横を躱す様に走るか、強行突破か……走りながら思案する。コンマ数秒の間に、とし子の脳を無数のパルスが駆け巡る。


 が、何故か赤波のマネージャーはとし子を無視し、すれ違う様にそのまま舞台袖へと走っていった。どうやらテメェのタレントの安全確保を優先したらしい。好都合だ。

 障壁は二体から一体へと減り、残るは浅川のマネージャーの若造のみ。若造は困惑に顔をひきつらせて立ち尽くしている。やはり赤波のマネージャーと比べて、現場経験と度胸が足りないらしい。

 とし子の直感は強行突破を是とした。


「どけゴラァァァ!」


 とし子は身を屈め、自分よりも二回りほど体の大きい若造の土手っ腹に肩口から突っ込んだ。まさか女が真っ向からぶつかって来るとは思っていなかったらしい若造はその体にはいささか不似合いな甲高い呻き声を上げて、尻餅をついて倒れ込む。

 とし子も少しよろけたが、体勢を大きく崩したり何処かを痛めたりする事もなくそのままホール裏口へと走り続ける。


 ここまで警備員やスタッフなぞに邪魔される事なく、とし子はホール裏口から外へ出た。駅まで徒歩で10分ほど。ならば、小走りで7分といったところだろう。今の所、館内から誰かが追って来る様子はない。


 再び駅に向かって走り出すも、ここでいかにも日曜日のショッピングセンターらしい人混みに行く手を阻まれた。追っ手がいたなら好都合だが、今は一刻も早くこの場を離れ、より遠くへ行かなければならない。

 状況は良いとは言えない。

 が、立ち止まっている暇はない。

 とし子は阿松の右目にハンドマイクを突き立てた時の必死の形相をその顔に貼り付けたまま、再び走り出した。


 途中、競馬新聞を眺めながら立ち尽くす恐らく財布の中に1000円程度しか入っていないであろうしよぼくれたジジイの肩口にぶつかり、母親に咎められる事なく通路の中央をもたもた歩く将来1000パーセント親に手をあげるであろう可愛くないガキの顔面を蹴り飛ばし、スマホに夢中で全然前を見ずに異様な早足で歩くこの後1000日以内に確実に売春で捕まるであろう顔面偏差値中の下の女子高生のスマホを弾き落として画面を粉々に割り、これまで1000回以上のセックスをこなして来たのであろう男女共に脂っこい顔付きの中年カップルの繋いだ手をゴールテープを切るかの様に引きちぎって女の手首を脱臼させ、一見キャリーバッグに引き摺られているかの様に見える虚弱なババアのキャリーバックからはみ出ている概ね1000円くらいで買えそうな安物の財布を抜き取り、その都度背後から聞こえる有象無象の怒号をことごとく無視し、とし子は脇目も振らず疾走した。


 全身にみなぎる邪悪なアドレナリンが、かつて「あの街」で「人並み」の生活をしていたあの時の……十代の安沢とし子の感覚の冴えを呼び戻していた。




 事前の想定より早い6分40秒後。

 とし子は最寄駅の改札機を以前のチャージの残額が残っているICカードを叩きつけながら走り抜け、丁度到着していた電車に行き先も見ずに飛び乗った。どこへ行くかなどどうでもいい。とにかく自分は一刻も早くこの場を離れねばならないのだ。

 車両は幸いにも空いていた。

 肩で息をし、ワンピースにうっすらと血痕らしき汚れをこびりつかせた中年女の突如の出現に、乗り合わせた乗客は血相を変えて隣の車両へ移動して行った。


 ようやくゆっくりと足を休められる様になった事で少しづつ思考がクリアになり、真っ先に頭に浮かんだのは………今後の逃亡プランでも、自分の未来でもなく、自分の凶行を目の当たりにして唖然と立ち尽くしていた浅川と赤波の事だった。何故だかは分からなかった。


 あいつら、どうしているだろう。二人ともマネージャーが付いて来ていたから、今頃保護されているか。

 これであの二人との奇縁も終わりだ。




 赤波はどうやら本番前に質の悪いクスリを食ったらしかった。あの情緒のアップダウンの激しさを見るに、恐らく初めてでは無かったのだろう。声優という仕事やオタクという人種に対して並々ならぬ嫌悪と憎悪を覚えて演劇の世界に拠点を移し、どうやらそこでとし子には理解できない様な大きな壁にぶつかったり、多大なストレスに晒されていたらしい。

 声優業界に背を向けて、後ろ足で砂をかけて、出て行った先で勝手に病んで。

 アイツの立ち回りは一見一本筋が通っている様に見えてその実、酷く自分勝手で独りよがりの様にも思える。どんなポリシーや志があったんだか知らないが、果たしてアイツに共鳴し、味方になってくれる人間はどれだけ居たんだろう。

 まあ、アタシが言えた義理じゃないが。


 そして、浅川だ。

 アイツは恐らく今後も声優としてソツなく仕事を続け、業界中から尊敬と信頼を集め、愛され、そのまま業界の歴史に名を残す程の傑物になり、不動の地位を築くだろう。

 そして数多(あまた)の若者が彼女の様になりたいと望み、その高い壁に挑み、やがてそれが儚い夢や過ぎた傲慢である事を思い知り、打ちひしがれるだろう。

 今後浅川が中堅からベテランに差し掛かるどこかのタイミングで、必ず業界に「浅川奈央の時代」がやってくる筈だ。

 ……そういやアイツ、結婚ってしてたっけ?

 ……そもそも今どこで、どんな暮らしをしてるんだ?


 とし子は、25年前に出会い、今日この日まで奇妙な縁で結ばれていた浅川の事を何も知らなかった。

 今のあの価値観や人間性は何処でどの様に育まれたのか、それを今の仕事にどう活かし、あのポジションにまで上り詰めたのか。

 半年前、とし子が勢い任せにキューティ☆フレイルのイベントの企画書を三時間かけて書き上げたあの夜、参考に幾つか目を通したメディアの浅川奈央インタビューにはこういった事が伺える情報が全く以てなかったのだ。いずれも作品に対する意気込みや演じているキャラクターへの思い入れ、他愛のない近況報告……そんな物ばかりで、そのプライベートの芯の芯の部分を窺い知る事は出来なかった。


 それ自体は別段、奇妙な事ではない。今時の声優の中にも本人の意向や神秘性保持という戦略上の理由から、公の場での発言を出演した作品に関しての物にのみ留める人間はいる。もし浅川もそのクチだというのなら、これは中々の徹底ぶりだとも言える。



 ふと、阿松は浅川奈央の事をもう少し知りたくなった。

 いや、そんな事よりも今乗った電車が何処まで走って行くのかを確認しなければならない。

 いやいや、それより何よりついさっき自分が引き起こした惨劇は動画配信サイトを通じて多くのオタクの目に触れたはずだ。それが如何なる反響を呼んでいるのかをまず確かめなければならないではないか。



 とし子は震える手でスマホを取り出し、側面の電源ボタンを押した。…が、画面が点灯しない。

 ボタンを長押しして再起動を試みるも、何の反応もない。昭和生まれの習性か無意識に表裏をそれぞれ数回ずつ軽く叩き、再度ボタンを押した。ディスプレイは依然、ウンともスンとも言わない。


 前々から風前の灯だったとし子のスマホの寿命は、よりにもよってこのタイミングで尽きたのであった。

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