8-2 藍華絢爛/サーブル
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのはアタシじゃない。
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』だ。
ここにいるのは………
「キューティ☆フレイル名場面集」というVTR集を他の演者と会場中のオタク共が固唾を飲んで見守る中、赤波真麻はひたすら自分に暗示をかけていた。
赤波はイベント前にも同様の暗示をかけ、友人の医師から貰った謎の錠剤を飲みほしてから壇上に立ったのだが、オタク共の放つ瘴気が濃すぎて気を抜くと暗示が切れて素の赤波真麻がオタク共に聞くに堪えない罵声を浴びせそうになってしまう。だからこそ「暗示の重ね掛け」が必要になるのだ。
自己暗示は普段役にどうしても入り込めなかったり台本を読んでも理解出来ない部分が出て来た時に、最後の手段として使う奥の手だ。
本当は芝居をしている間は演じる役をしっかり理解・咀嚼して取り込みその人格に成り切っている自分と、それを俯瞰・客観の視点からしっかりと観察しコントロールする自分という2つの人格を己のマインドの中で共存させられるのがベストなのだが、台本の内容や与えられた役柄によってはなかなかそれがままならない事もある。そういった時には、無理矢理自分に暗示をかけて役の人格を「下ろす」のだ。
だが、赤波の哲学の中でそれは「与えられた役とその人格をしっかり演じこなせなかった時にやむを得ず選ぶ『負け』の選択肢」であり、仮にこれで公演を乗り切ったとて、そこには自分の才能の乏しさへの不安と屈辱、そして敗北感しか残らない。
自らを「憑依型」「イタコ型」などと嘯いて、台本もロクに読み込まずただ書いてある事を字面通りに且つ場当たり的に演じるだけの「熱演」を実に気持ちよさげに遂行するバカ役者もいるが、大抵この手の輩の芝居と人間性はろくな物ではない。
謎の錠剤は以前、ある公演の稽古期間中に年下で芸歴も下の小器用な売れっ子女優に何故か目の敵にされ事あるごとにいびられて追い込まれていた時、友人の医師に相談したら渡された物だ。
医師は「相当切羽詰まってるみたいだから特別に渡してあげる。飲むと一時的にスッと気分が落ち着くから。ただ、強い薬だから絶対軽はずみに服用しちゃダメだよ。どうしても死にたくなった時とか、何もかもがどうでも良くなって誰かを殺してしまいそうになった時に、この薬の事を覚えられていたら飲んでいい。」と言い、「海外製の……今の日本の法律じゃ処方しちゃいけないヤツだから、絶対何処にも言わないでね。あと、服用のタイミングには気をつけて。その後に人と会う予定がない時にして。人間の精神や情緒への干渉力が強くて、絶対揺り戻しが来るからね。」と強く釘を刺してきた。
自殺や無差別殺人を思い立つ程に追い込まれている人間がそんな事まで気を回せるのだろうか、揺り戻しとはどんな事が起きるのか、そもそもアンタは何故こんな物を持っているのか……色んな疑問が沸きはしたがこのあと程なくこの医師とは連絡が取れなくなってしまったのでこの辺りの事は分からずじまいだ。
無論医師の行方が気にならないではなかったが「パクられたか、違法薬物の胴元と揉めて消された」という破滅的な末路の二択しか思い付かず、想像するだに嫌な気分になるので忘れる事にした。
医師が残していった言葉からわかるのは「揺り戻し(が来るから)飲んだ後に人と会うな」というという事くらいだ。恐らくは効果が切れた後の一定時間、より情緒が不安定になるのだろう。
そんな物を本番前に飲んでしまう辺り赤波もすっかり正常な判断力を失っているが、このイベントをやりすごすにはそれだけ思い切る必要があった。
副作用の出る時間など、せいぜい今日の日付中の数時間だろう。どうせ、どうでもいい仕事だ。イベントが終わってしまいさえすれば、その後ちょっとやそっとここの連中とモメたとてどうという事はない。どうせ今後二度と関わる事のない奴等だ。
「では、赤波さん!」
赤波の脳内で流れていた「医師がコワモテのヤクザから凄惨な拷問と陵辱を受けたのち惨殺され、東京湾の底で魚の餌になるVTR」が浅川奈央の呼びかけで急停止した。『声優・赤波真麻を演じている、女優の赤波真麻』のスイッチがONになる。
「はい。」
実にマイク乗りのいい、よそ行きの声で返事をした。
本番前に大声でさんざっぱらスタッフに悪態をついたり谷地をいびったりしたおかげで喉は十分に開いていた。
「改めて、サーブルというキャラクターを演じて感じた事、学んだ事……何かありますか?」
素の赤波真麻が心の中で「ねぇよ!」と吠えた。が、今ここにいるのは『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』である。
「気になるぅ」
阿松幸子の鬱陶しいガヤが何とも気持ちの悪いタイミングで入った。素の赤波真麻が心の中で「うっせぇ!黙ってろ!殺すぞ!大体なんでお前そんなベタベタした気持ちわりい喋り方してんだよ!」と怒り狂った。
が、今ここにいるのは『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』である。
「そうですねえ……」
『声優・赤波真麻を演じている女優・赤波真麻』はしばし悠然と一考したのち、たおやかに答えた。
「苦難に立ち向かう為に必要な強さと、そこで払われる犠牲の残酷さですかね。新たな挑戦や成長の為には、強固な意志と柔軟な思考も必要ですが、それ以上にそれまでの自分を縛っていたしがらみや駄縁や古い価値観と決別しなければなりません。それは大きな痛みを伴う、勇気のいる決断でした。」
赤波の言葉に観客のオタク共は一瞬沈黙したのち、静かなざわめきで応えた。数人のオタクが眉間に皺をよせ、露骨に困惑を露わにしている。
何故なら「魔法少女キューティ☆フレイル」全13話のサーブルの出て来るエピソードの中に、そんなシーンなど何処にも無かったからである。
というのもサーブルはワガママで協調性がなくてトラブルが起きると「私は悪くない!周りが悪い!」とがなり立てるタチの悪いキャラクターで、毎回敵を退けては「終わり良ければすべて良し」とばかりに空気を読まず他の2人とのキメポーズにズケズケ入ってくる太々しさは度々オタク共の不興を買っていた。
「戦闘力は三人の中で最強」という設定はそんな彼女を魔法少女サイドに居座らせる理由付けの為に強引に付けられた設定で、当然仲間と苦難に立ち向かったりそこで払われた犠牲に涙したりといったシーンなど皆無である。赤波が本作の出来上がりを見ていないのはおろか、物語の概要さえ把握していない事は明らかだった。
(これ、サーブルじゃなくて自分自身の境遇の事を言ってねえか?)
30人中2人のオタクが、赤波の発言の真意に気づいた。
そう。使えないスタッフ、キモいオタク、理不尽に襲い来る逆風といった苦難に立ち向かう為の強さの重要性と、そこで払われる精神的・肉体的犠牲の残酷さ……それが、赤波が声優という仕事と決別してのちの20年余の中で色んな物を得て、失い、その果てで学んだ教訓だったのである。
最も、赤波が口にする苦難や犠牲とやらの多くが自身の自業自得によって発生している事はこの場の誰も……そう、赤波自身さえ知り得ぬ事であった。
「…….なるほど、分かりました。続いては……」
浅川は赤波のピントのズレた返事を受け流しつつこれ以上長話をさせるとまた情緒がおかしくなると踏んだか、迅速に次の段取りに進んだ。オタク共も赤波の発言で出来た妙な空気を察し、浅川の進行を阻まぬ様沈黙した。
「そっかあ。どのシーンだろう………」
阿松の蛇足にも程があるガヤが静寂の中でポツンと響いた。ホールの片隅にいた悪口不潔ADの全身から強烈な殺気が放出された。




