7-8「誰の為の物でもなくなった」
「どうでした?畑中。」
「無理だねえ、ありゃ。絶対なんかやらかすよ。」
岸野はディレクターの問いに力なく応えた。
イベントの進行を管理する副調整室にはディレクター、タイムキーパー、そしてタイタニアレコーズアニメレーベルのプロデューサー・岸野が気だるげに待機していた。ディレクターは副業の転売業の不振、タイムキーパーは二日酔い、そして岸野は愛人の由美の件……と、それぞれ理由はバラバラながらみな一様に不機嫌でモチベーションが低い。
由美はあの「達成感がない」という迷言を残したのち岸野の連絡に一切返事をする事なく、勤めていた制作会社に「心身の不調」を理由に休職を申し出るも「休職も何もお前元々仕事らしい仕事なんぞ何もしてねぇじゃねえか」と突っぱねられ、半ばクビ同然に退職して消息を絶った。
結果、由美を引き留める為にでっち上げた、最早何の価値も意味もなくただ面倒なだけのこのイベントが忘れ形見の様に残った。
いや、こんなもんは忘れ形見でも何でもない。只の敗残処理だ。
「やんなっちゃったなあ、もう。」
「何がです?」
岸野の出し抜けな投げやり発言にディレクターが反応した。
「今日のオッサン向けイベントだよ」
「ああ…客層がね。いつものオタク向けイベント以上に会場が臭くなりそうですねえ。」
「いや、そういう事じゃなくってさあ…このイベント自体がもうさあ…」
「ああ、なるほど。」
ディレクターは苦笑いして岸野の心中を察した。このイベントの立ち上げの経緯を知っているのは、岸野とこのディレクターだけなのだ。
「ただ…何つうか、今日のイベントっていつも以上に妙な雰囲気になっちゃいましたね」
「…まあな。」
このイベントは紆余曲折を経てどうにか開催にまでこぎつけられはしたたものの、この期に及んで未だ数あまたの懸念が未解消のままである。勿論それは客がスエた臭いを漂わせたオッサンオタクばかりである事などではない。
まず、やはり演者どもはどいつもこいつも難物であった。
別に私情による好き嫌いだの痴情のもつれだので不仲になった声優同士がイベントで鉢合わせしてしまう事態は珍しい物ではない。岸野もディレクターもバカな声優共がプロ意識の欠片もなく醸し出すギスギスした空気の中で憂鬱な仕事を強いられた経験が幾度となくある。
が、今日のイベントの声優4人の間に漂う空気は業界歴がそれなりに長い岸野さえ経験した事のない、言語化困難な不穏さに満ち満ちていた。
売れ損ないのババアに、薄幸顔の引退ババアに、声優仕事を毛嫌いする女優気取りのババア。実際に先ほど売れ損ないババアが土壇場で訳の分からない事を言い出したとかで進行台本に大きく直しが入った。浅川奈央以外、誰にも全幅の信頼を置けない。
そして、見るからに素行と連携力にに問題を抱えている配信チームの連中と、そのチーフの畑中だ。
本番前にミーティングで畑中と顔を合わせた岸野は、その目つきと異常な発汗と会話の噛み合わなさからある事を確信した。
(………やっぱコイツ、クスリ辞めてねえ!)
想像通りといえば想像通りだったが、その荒み具合は加齢による衰えと長年にわたりドラッグを喰い続けた事による心身のダメージの蓄積により、むしろ若い頃よりも加速しているし、何より本人がそのヤバさを隠そうとしていない。
恐らくこの様子では近々の内にパクられるだろう。ならばせめて今日一日だけでも保って欲しい。で、今日の撤収後の帰り際の検問でそのままパクられてくれればいい。いやもうこの際パクられて欲しい。警察にはちゃんと仕事をして欲しい。
コイツらに背負わされてるリスクは最早自分の様なフツーのリーマンの手に負えるレベルの物では無くなってきているし、どうにかこうにかこのイベントを終わらせたとて、こんなちっぽけなイベントの成功如きで社内での地位が上がる訳でもなければ由美が戻って来る訳でもない。
………ん?俺はこんな色々と犠牲を払ってリターンも無い物を、なに必死こいてやってんだ?
岸野の脳内で、何かがパーンと弾けた。
「ほとほとダッセぇイベントっすよね。取り返しのつかない事件でも起きて中止になってくれた方がまだ面倒がなくてよかったっすよ。こんな事言い出したの、何処ぞの制作の下っ端の女なんでしたっけ。」
「あ、ああ。そうだな。」
「本当にセンスがないっすね、ソイツ。何でこんなモンのイベントなんかやろうとしたんスかね。」
「お、おお……。」
タイムキーパーは本当の立案者が今同じ空間に居る岸野である事も知らずに、このイベントの開催を最初に提案した人間を容赦なくクサし、ディレクターを閉口させた。だが、当の岸野自身もこのイベントのしょうもなさと不毛さを一番痛感しているからか、タイムキーパーの放言にも口を挟みはしなかった。
「もし何かあったら、どうします?」
「え?」
「おかしな事が起きたらですよ」
タイムキーパーはヘラヘラと妙な事を口走った。まるで、そんな事を望んでいるかの様に。
「おかしな……って、例えば?」
「トチ狂ったオタクの誰かがステージに物を投げ込んだりとか、ステージに上がっちゃったりとか…って事スよ」
「まぁ一応、舞台袖の若い奴らには緊急時の対応マニュアルとかは読ませてあるんだけど。」
「伝えたところでアイツら、給料以上の仕事なんかしないでしょ?」
それは誤りだ。ヤツらは給料以下の仕事しかしない。
「今回、何でか分かんないですけど警備員も居ないじゃないですか。」
それは会議の席上で警備をどうするかという議題が上がった際、岸野が携帯でエロサイトを眺めながら「それはいいや」と投げやりに言った事がそのまま決定に至ったのが理由であった。追加予算が下りた時に再度この問題が取り沙汰されたが、岸野はやはり「年食って精力の衰えたジジイのオタクにそんな大それた事なんぞ出来ねえよ、ほっとけ。」と一蹴した。
「取り敢えずマニュアルだとまずこのセンターの警備センターと警察に通報して……」
「そんなんじゃ間に合いませんよ!暴漢が凶器なんか持ってたらどうするんスか?」
「えええ、どうしようかなあ」
タイムキーパーの物言いは些か飛躍が過ぎるきらいはあるものの、決して荒唐無稽な極論・暴論とばかりも言えない。実際に起きうる事態である。対するディレクターの反応はフニャフニャしていて何処までも緊張感がなかった。全く根拠はないがそんな事は起きまい、オタク共などにはそんな度胸も甲斐性も活力もあるまいという蔑意がその態度からありありと顕れていた。
「バックれよう」
突如口を開いた岸野に2人は肩をビク付かせて驚いた。
「バックれですかぁ?いや、それは流石に勘弁……」
タイムキーパーは薄笑いを浮かべながら岸野に向き直り、そこで黄色く濁り光を失った目の岸野と視線がぶつかり、息を呑んでそのままフリーズした。この人、今朝からこんな人相だったっけ……?いや、元々さほど健康なイメージの人間ではなかったけど。
「傷害沙汰や刃傷沙汰なんぞ迄面倒見てられっか」
「いや、そうなっちゃった時の対応はむしろ岸野さんの仕事じゃないスかー!総責任者ってそういう…」
「知るか」
「ちょっと岸野さん、『知るか』がボケのトーンじゃない……」
そこでタイムキーパーは、岸野が微塵も笑っていない事に気が付いた。顔の筋肉の動きは最低限に淡々と、しかしながら毅然と自らの主張をしっかり通そうとする岸野の面構えは、どだい冗談を言っている人間の顔つきではなかった。
(えっ、ちょっとコレマジのやつじゃん)
タイムキーパーは改めて自分をも含めたこの現場の人間、ひいてはプロジェクトチーム全体の問題解決能力の低さを痛感し、同時に戦慄した。これだけ問題の火種が多く転がっているのにトップがこの調子で、何が起きたとて責任は取らない(しかも極々私的な理由で)と明言している。「どうするんですか」と指示を仰いだら「どうも出来ない」「どうしようもない」ではなく「何もしねえよバカ!」と罵倒される有様では、恐らく緊急時用のマニュアルを読まされた連中なんぞも役には立つまい。
そんな現場で不測の事態が起きたらどうするか。
越権行為を承知の上で自ら問題解決にかかるのか。
今からでも岸野のケツを叩いて、問題が起きた際の対応方針を大まかにでもまとめさせ、スタッフに周知すべきだろうか………。
(……………バックれだよな。めんどいし。)
タイムキーパーはいたくシンプルで合理的な結論を導き出した。
◆ ◆ ◆
本番前最後のミーティングを終え、プロデューサー・岸野はサブでイベントの開幕を待っていた。
ミーティングは事前の決まり事と変更事項(主にMCの交代によるもの)の確認をアッサリと済ませたのみで、誰かから「頑張りましょう」や「宜しくお願いします」といった声が上がる事もなく淡々と終わった。
元々由美の為にでっち上げられたこのイベントは、その由美がいなくなった事で誰の為の物でもなくなった。ファンの為……なんぞという寒気のする様なしょうもない建前を口にする者もいない。
終わった後に何も得られず、何も残らず、何も生まれない……そんなイベント仕事などこれまで幾らでもあった。しかし、ここまで得体の知れない濃厚な混沌と波乱の空気が充満する中での開演は初めての経験だ。スタッフや観客の中に、今日のこの得体の知れない空気を気取れている人間がどれ程いるだろうか。
まるで誰ぞがそんな人間や運気ばかりを吸い寄せているかの様である。
ん?そういうヤツやモノの事を何というのだったか…?確か…………
「ハイ本番10分前でーーーーす!皆さん一旦持ち場に着座願いまーす!」
「……もうそんな時間かよ。」
構成作家のやる気と才能のなさが伝わって来る進行台本を手に、岸野は至極不機嫌に返事をした。




