白薔薇の送る元気な神ちゃんと復活する世界
魚の泳ぐ水槽を上から眺めていたら不意に音が二つ響いた。
一つは服の裾がはためく小さな音で、もう一つは金属の跳ねる響く音。
首を反射につられてシュッと捻ると、眼下には床に垂直に引っ張られていく神ちゃんの姿と作業台の縁へと力なく垂らされた神ちゃんの右腕の振りにちょうど良く引っ掛かり、梃子で力を蓄え跳ねた包丁が舞い上がる光景があった。
私は咄嗟に包丁に干渉する。
干渉というのは私の場合、両手の上に乗るくらいの石の重さなら手を使わずに持ち上げて動かすことができるというもの。
けれど、あの包丁ほどの重さだと静止していてギリギリなので、あれだけの運動量だと私の力ではあまり影響を及ぼせない 。思わず力が入るが、体を幾ら強張らせても意味が生まれる事はない。
ところが包丁はいつもと違い空中にピタリと止まった。
普段なら「なんでかな?」くらいの疑問は湧いただろうが、そんな些事は意識からすぐに外れる。
包丁を空中に放置して、床に頽れる体が地に着く前に抱き留めることができた。その時、意識していないのにいつからか声が形にならず悲鳴の形でずっと出ていたことに気づいて口を閉じた。
腕の中の顔を見てみると、血色は悪くないが目の焦点は掠れて身体に力も張られていない。
体の表面、皮の下、毛穴からゾワゾワと細かい震えが走り、思わず世界に割り込みをかけていた。
静かに深く、深く深く深海のように広くて暗くて時の流れすら遅らせるような圧力と怖気と温かさを奪う冷たさが私を包み込む。
空気に、星に、いきものに。ミチミチと見えない速度で不可視の神経が、違和感だけを持って万物に入り込んでいく。
蜘蛛の巣のように広がり、木の根のように伸びては私と一つになっていく。
そして一つだけ、世界は私として拍動する。
私の思う形に、余波を大いに携えて世界は変化した。
「...おはようございます」
倒れた子が何事もなかったかのようにむくりと起き上がり、目を閉じたまま目覚めの挨拶をするいつもの姿に安堵した白薔薇は深くため息をついて手を取った。
「うん、おはよ」
世界を自己で一纏めにしたのはほんの瞬き程の間だったけれど、恐らくはめんどくさいことが少なからず待っていることを白薔薇は、さっき捌いたはずの魚たちがまな板の上とお客さんの持つ包み紙の中でバズバスと暴れる様子を見つつ思い出していた。
その昔に同じように世界と一つになったときには、知らない禿げた偉そうなおじさんとの楽しくないじゃれつきを次々と制したこと。知らない沢山の年寄りに言葉を放つ事すらする前に土下座するほど怖がられたりと色々な面倒ごとが重なって起こったこと。あの後全部面倒になって眠りに就いたんだけれど、それでもなんだかんだと起こされる事態になったこと。嫌になって人の少ない方へと逃げていき、もじゃ爺と出会ったこと。その流れで洞穴にはいったこと。最後に自分で蓋を閉じたことが脳裏に蘇って来る。
「外に出られない様にしたのは自分でやったんだったっけ」
「なにが〜?」
寝起きの肌寂しさから私を抱き寄せ、返答の有無を気にしないただの繋ぎの言葉を口にした神ちゃん。
その様子にいつものような笑顔を浮かべる白薔薇の表情には本人も気づいていないが朱みがさしていた。
その後は王様が珍しく大泣きしてしまい、片時も神ちゃんから離れることをしなくなった。そしてつい最近、あだ名をつけてもらったお返しにと、どこからか引っ張り出してきた本を見ながら神ちゃんがあだ名をつけた水色、紺碧、オレンジ、月白、漆黒、白群、真紅、宵闇がわらわらと駆けつけて来た。それぞれ見た感じで付けたそうなんだけど意味もあるらしい。
そしてその手には小さな蜂蜜の瓶を漆黒が握っているくらいでほぼみんな手ぶら。買い物しなかったのかと聞けば、どこにやったっけ?と首を傾げてはどうでも良いとばかしに神ちゃんを撫でては大丈夫かと心配そうに声をかけていた。
結局、荷物は後を追いかけて来てくれた人達が持って来てくれた。
人心地ついた頃に周りを見れば、店の前には人集りが出来てきてしまっていて、迷惑が掛かっていたので集まった人達にお暇する事を告げて、みんなで森まで帰ってきた。
尚、神ちゃんが倒れた時に捌いていた魚は私達の帰り際に店に帰ってきた魚屋の真の店長であるおばさんの旦那さんに「この魚は食べないほうが良い」と言ったら「猛毒のこんなのを混ぜやがって」と暴れる魚片手に仕入先に怒鳴り込みに走って行った。おばさんには神ちゃんが捌いて倒れた事は黙っておいてある。
なので王様が泣いた事には少し狼狽えていたけど喋ると気にするだろうからやっぱり黙っておいて良かったと思う。魚のことは店長さんがちゃんと話すだろう。
「ただいま〜!」
元気の良い神ちゃんの声が森の中に高らかに通る。さっき倒れ伏したとは思えない元気さなのは良い事だ。いくら身体が回復したからと言って、心が痛めつけられている時に元気さは大抵出ないのでとても安心した。
神ちゃんの右腕には今も王様がぴったりとくっついて離れず今日はもう離す事はなさそう。
「王様も白薔薇ももう平気だから離していいよ?」
「やだ」
「うん、嫌」
王様はぎゅっと腕を掴む力を増して離れない意思を表明している。
私は余裕のある顔でいますよ。顔はブンブン振りたくったけれど顔は王様と違って余裕がありますよ、ふふん。
「ん、いいけど。ただいま、ラリー!」
出掛けてからそこまでの時間が経ってはいないので焚き火はまだ燻らずに火が残る。そこへ歩みを続ける。
「あれ?ラリー寝ちゃった?おーい」
神ちゃんがキノコをツンツンと突いているが、私はあれ怖いから少し苦手。
「ラリー?...ちょっと、嘘でしょ。返事してよ、ラリー!」
神ちゃんは香ばしい焼けた匂いのキノコを掴んで泣いているが、もともと喋らないしとか突っ込んだら可哀想かな。
後日、キノコの生えていた場所からまた同じようなキノコが生えているのを見つけた神ちゃんが大喜びしていたのがとても可愛かったので、今後もこういう機会を得るには何か言うのは止めておいた方が良いかもしれない。




