受付嬢、リリアベル
冒険者ギルド地方支部記録
『リリアベル・アーシェント勤務録ならびにセレナーデ支部概覧』
公開閲覧写本
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■ リリアベル・アーシェントという人物
リリアベル・アーシェントは、エルニド西央部に位置する湖畔都市セレナーデに勤務する冒険者ギルドの受付嬢である。
長耳族、すなわちエルフの女性であり、外見年齢は人間族で言えば二十代半ばほどに見える。淡い銀金の髪、翠玉色の瞳、細く長い耳、白磁のような肌を持ち、来訪者からはしばしば貴族令嬢、神殿巫女、学院魔術師などに間違えられる。
しかし本人はそのたびに、穏やかに笑ってこう訂正する。
「受付のリリアベルです。依頼票をお持ちでしたら、こちらへどうぞ」
彼女の正式名は、リリアベル・アーシェント。
アーシェント家は、中央大陸アステリア西部の古代樹海エルムヴァルトに起源を持つエルフの旧家である。森の記憶を管理し、精霊契約と古代魔術の保存を担ってきた家系であり、古くは森都の議会にも席を持っていた。
リリアベルはその中でも特に優れた魔導適性を持って生まれた。幼少期から精霊語を理解し、十歳に満たぬ頃には泉の精霊と対話したと伝えられる。百歳になる前に七属性魔術の基礎を修め、二百歳を迎える頃には、すでに森都の魔導院において講師を務めていた。
人間族の尺度では信じがたいことだが、彼女は千年以上を生きている。
そして、千年前の戦乱期においては、王国連合側に名を連ねた最高位魔導士の一人だった。
当時の記録には、彼女の名がいくつかの異称と共に残っている。
「銀樹の魔女」
「七環杖のリリアベル」
「白雨を呼ぶ者」
「千里結界の構築者」
「西央戦線の沈黙」
ただし、現在の彼女はそれらの呼び名を好まない。
理由を問われると、彼女は茶葉を量りながら答える。
「昔の肩書きは、埃をかぶった戸棚みたいなものです。開けるとくしゃみが出ますから」
■ 元S級魔導士としての過去
冒険者ギルドにおいて、S級とは単なる強者の称号ではない。
都市ひとつの防衛、国家間の危機、大規模災害、古代竜級の魔物、禁呪暴走、戦争級任務に対応可能と判断された者にのみ与えられる階位である。S級冒険者は王国軍一個大隊に匹敵する戦力とされ、任務記録の多くは非公開扱いとなる。
リリアベル・アーシェントは、かつて正式にS級魔導士として登録されていた。
彼女の得意領域は、攻撃魔術ではなく、結界術、広域防御、魔力制御、精霊協調、戦場補助、異常魔力の沈静化であった。もちろん攻撃魔術も扱えたが、本人は「壊す魔術は後片づけが面倒です」と述べ、極力避けていたとされる。
千年前の戦乱において、彼女が最も高く評価されたのは、三日三晩にわたり都市全域を守った大結界である。西央国境の要塞都市ルベルクが魔物の大群に包囲された際、彼女は単独で七層結界を展開し、市民二十万人の避難が完了するまで外壁の崩壊を防いだ。
また、黒嵐平原の戦いでは、暴走した古代魔導炉の魔力を森の精霊たちへ分散させ、大陸規模の魔力汚染を未然に防いだと記録される。
だが、英雄譚にありがちな華やかさとは裏腹に、彼女自身はその時代をほとんど語らない。
「若い頃は、だいたい皆さん無茶をします。私も例外ではありませんでした」
それが彼女の常套句である。
S級登録は、約七百年前に本人の申請により凍結された。理由欄には、本人直筆でこう記されている。
「長く働きましたので、しばらく普通の仕事を探します」
ギルド本部は当初、これを冗談と受け取った。しかしリリアベル本人は極めて真面目であり、その後しばらく各地を旅した後、湖畔都市セレナーデの冒険者ギルド支部に受付職員として採用された。
採用時の履歴書には、特技欄に次のように書かれていた。
「読み書き、計算、来客対応、薬草分類、古代語少々、お茶淹れ」
面接官は後にこう語っている。
「あれほど“古代語少々”を信用してはいけない人はいなかった」
■ 現在のリリアベル
現在のリリアベルは、セレナーデ支部の受付三番窓口を担当している。
勤務日は週五日。朝鐘二つ目から夕鐘一つ目までが基本勤務時間であり、昼休憩には自作の茶葉を使った薄い花茶を飲む。残業は極力しない主義だが、新人冒険者が泣きそうな顔で相談に来た場合や、討伐帰りのパーティが血まみれで担ぎ込まれた場合には、何も言わずに窓口へ戻る。
服装はギルド支給の濃紺の制服である。白いブラウス、深緑のリボン、濃紺のベスト、膝下丈のスカート、低い踵の靴。胸元にはセレナーデ支部職員章が留められている。
本人は目立つ装飾を嫌い、耳飾りも小さな銀の葉飾りのみである。この葉飾りは古い精霊銀で作られており、森都時代から身につけているものとされる。
性格は穏やかで、物腰は柔らかい。声を荒らげることはほとんどない。だが、決して弱々しいわけではない。無謀な依頼を受けようとする新人、報告書を偽ろうとする冒険者、受付嬢を軽んじる傭兵崩れには、静かな笑顔のまま非常に的確な注意を与える。
その注意は不思議と逆らいにくい。
若手冒険者の間では、「リリアベルさんに怒られると母親と校長と女神を同時に失望させた気分になる」と言われている。
一方で、彼女は面倒見がよい。新人には街道地図の読み方、薬草依頼の注意点、安宿の選び方、報告書の書き方、雨の日の革靴の乾かし方まで教える。ベテランには余計な口を出さないが、疲労や怪我を見抜くと、何気なく治療院の割引券を渡す。
本人いわく、
「受付の仕事は、剣を振ることではありません。剣を振る人が、帰ってこられるようにする仕事です」
■ 湖畔都市セレナーデ
セレナーデは、中央大陸アステリア西央部、ミラ湖群の南端に位置する湖畔都市である。
王都グラン・エルニスほど大きくはないが、湖上交易、薬草栽培、淡水魚漁、精霊祭、古い遺跡群によって栄える美しい街である。人口はおよそ八万人。市壁に囲まれた旧市街、湖沿いの港区、丘陵に広がる葡萄畑、東の職人街、西の森門地区から成る。
街の中心には、白い時計塔と噴水広場がある。朝にはパン屋の香りが広がり、昼には魚市場が賑わい、夕方には湖面が茜色に染まる。夜には湖上灯が水面に揺れ、吟遊詩人たちが酒場の軒先で古い恋歌を奏でる。
セレナーデは「半分が街、半分が水」と言われる。大小の水路が街中を走り、小舟で移動する住民も多い。家々の窓辺には花鉢が置かれ、橋には季節ごとの飾り布が結ばれる。
都市の北側にはミラ湖が広がる。湖水は澄み、晴れた日には水底の白石まで見える。湖には水精霊が多く、漁師たちは初漁の日に小さなパンと花を湖へ捧げる。
南側には穏やかな丘陵地帯があり、葡萄畑、薬草園、羊牧場が点在する。西には古代樹海エルムヴァルトの外縁が近く、森の奥には長耳族の古い道が残る。東には街道が伸び、王都方面へ馬車で十日ほどで到着する。
セレナーデは王都から離れているため、政治の中心ではない。しかしその分、空気は穏やかで、古い習慣と新しい商業がほどよく混じり合っている。貴族より商人が強く、兵士より職人が尊敬され、冒険者は少々騒がしい隣人として受け入れられている。
■ セレナーデ冒険者ギルド支部
セレナーデ冒険者ギルド支部は、噴水広場から南へ二本目の通りにある三階建ての石造建築である。
一階には受付窓口、依頼掲示板、待合卓、買取カウンター、酒場兼食堂、簡易治療室がある。二階には事務室、会議室、資料室、職員休憩室、支部長室がある。三階には仮眠室、訓練用小講堂、緊急時の避難部屋が設けられている。
建物の裏手には解体場と倉庫があり、討伐された魔物の素材や薬草依頼の納品物が検査される。早朝には獣の皮、薬草、鉱石、角、牙、魚籠、木箱などが次々に持ち込まれ、職員と鑑定士が忙しく動き回る。
セレナーデ支部は大規模支部ではないが、扱う依頼の種類は多い。
湖の魔物退治。
薬草採取。
隊商護衛。
森の迷子捜索。
水路の清掃中に出たスライム駆除。
葡萄畑を荒らす角兎の捕獲。
遺跡外縁部の調査。
精霊祭の警備。
行方不明の飼い猫探し。
貴族令嬢の護衛。
酒場の地下に出た大鼠退治。
古い橋の安全確認。
新米冒険者の実地講習。
支部長は人間族の男性、ガルド・レインズ。元金章冒険者で、片足に古傷がある。現役時代は大剣使いだったが、現在は書類と会議に追われている。口は悪いが面倒見はよく、職員からの信頼は厚い。
副支部長はドワーフ女性のミラ・ボルガン。会計、倉庫、素材査定、職員給与、酒場の仕入れまで管理する実務の鬼である。支部内で最も恐れられているのは支部長ではなく、帳簿が合わない日のミラ副支部長である。
受付窓口は四つある。
一番窓口は新規登録と一般案内。
二番窓口は依頼受注と達成報告。
三番窓口は相談、危険度判定、特殊依頼。
四番窓口は買取、素材確認、報酬支払い。
リリアベルが担当する三番窓口は、もっとも面倒な相談が集まる場所である。
■ 受付嬢の業務
冒険者ギルドの受付嬢は、単に依頼票を渡すだけの仕事ではない。
受付業務は、冒険者の生死に直結する。
まず朝、受付職員は掲示依頼を確認する。依頼主、報酬額、期限、危険度、場所、必要人数、推奨等級、過去の類似案件を照合し、不備があれば依頼主へ確認を取る。
次に、依頼掲示板へ貼る順番を決める。新人向け依頼を下段に、常連向けを中段に、危険依頼を上段に配置する。危険度が高い依頼には赤紐、緊急依頼には黒紐、採取依頼には緑紐が結ばれる。
冒険者が依頼を選ぶと、受付は登録証を確認する。等級が足りているか、前回任務から十分な休養を取っているか、罰則中ではないか、借金や未提出報告書がないかを見る。
その後、依頼内容を口頭で説明する。紙に書かれていない情報も重要である。現地の天候、近隣村の評判、最近の魔物出現傾向、依頼主の性格、過去に失敗した冒険者の報告などである。
リリアベルはこの説明が非常に丁寧である。
例えば、薬草採取依頼であっても、彼女は必ずこう確認する。
「似た毒草があります。葉脈が三本ではなく五本のものは摘まないでください。あと、森の北側には入らないこと。地図では近道に見えますが、湿地です。靴が片方なくなります」
若い冒険者が笑うと、彼女は静かに付け加える。
「去年、三人なくしました。靴を」
この一言で、大抵の新人は真面目に聞く。
依頼完了後には報告書の確認がある。討伐数、採取数、遭遇した魔物、負傷者、地形変化、地元住民の証言、異常の有無を記録する。報告が曖昧な場合、受付は質問を重ねる。
冒険者はしばしば面倒がるが、この報告が次の命を救う。
リリアベルは嘘を見抜くのがうまい。千年の経験による観察眼なのか、エルフ特有の感覚なのか、単に書類仕事に慣れすぎているのかは不明である。
■ リリアベルの一日
リリアベルの朝は早い。
夜明け前、彼女はセレナーデ西区の小さな家で目を覚ます。家は白壁と緑屋根の二階建てで、裏庭には薬草と香草、小さな銀葉樹が植えられている。
朝食は軽い。黒パン、山羊乳のチーズ、蜂蜜、季節の果物、薄い花茶。食後には庭の精霊石に水をかけ、窓辺の鉢植えに話しかける。近所の子どもたちは、リリアベルの家の花は返事をしていると信じている。
出勤時、彼女は湖沿いの道を歩く。途中でパン屋の老婆に挨拶し、橋の上で釣りをしている老人に昨日の釣果を聞き、迷子になった猫を抱えて八百屋の娘へ届けることもある。
ギルドに着くと、まず職員用の湯を沸かす。彼女は自分の茶だけでなく、支部長には濃い黒茶、副支部長には苦い根茶、新人職員には眠気覚ましの薄荷茶を淹れる。
午前は依頼受付で忙しい。採取依頼へ向かう若者、護衛依頼の隊商、魔物討伐を受ける中堅パーティ、猫探しを頼みに来た老婦人が列を作る。
昼には職員休憩室で弁当を食べる。リリアベルの弁当はいつも小さく、彩りがよい。たまに新人受付嬢のサンドイッチと交換される。
午後は報告処理と相談が増える。失敗して落ち込む冒険者、報酬に不満を言う依頼主、喧嘩したパーティ、借金返済計画を相談する若者、引退を考える老冒険者。
リリアベルは、すべてを解決するわけではない。
彼女は必要なことを聞き、書類を整え、選択肢を示す。時には厳しく止める。時には黙って温かい茶を出す。
夕方、窓口を閉める前に、未帰還者の確認を行う。予定時刻を過ぎても戻らないパーティがあれば、支部長へ報告する。天候、任務内容、過去の実績を見て、捜索隊を出すか判断される。
この時だけ、リリアベルの表情はわずかに硬くなる。
千年前から、彼女は帰ってこない者を数えすぎている。
■ 住まいと私生活
リリアベルの家は、セレナーデ西区、湖へ続く小道の途中にある。
大きな屋敷ではない。むしろ質素である。白い壁、緑の屋根、木枠の窓、小さな庭、薬草棚、書斎、台所、寝室、客間が一つ。庭の奥には雨水を溜める石鉢があり、夜になると小さな光虫が集まる。
家の中には古い本が多い。魔導書、料理本、植物図鑑、地図、手紙、子ども向けの童話、ギルドの規定集まで並んでいる。千年前の貴重な書もあるが、本人はそれらを特別扱いせず、鍋敷き代わりにしかけて訪問者を慌てさせることがある。
彼女は家事を好む。洗濯、掃除、庭仕事、保存食作り、茶葉の調合、ジャム作り。大魔導士らしさはないが、本人はこれを非常に楽しんでいる。
「世界を救うより、焦げついた鍋をきれいにする方が達成感があります」
と語ったことがある。
近所付き合いも良い。パン屋の老婆、靴職人の夫婦、薬草屋の少年、魚市場の女将、教会の孤児たちがよく彼女の家を訪れる。彼女が千年以上生きていることを知る者は少ない。多くの住民は、少し不思議で、少し上品で、妙に物知りなエルフのお姉さんだと思っている。
リリアベルはその距離感を気に入っている。
■ セレナーデ支部の人々
セレナーデ支部には、個性的な職員と冒険者が多い。
支部長ガルド・レインズは、リリアベルの正体をある程度知っている数少ない人物である。彼は彼女を「先生」と呼びそうになるたび、咳払いして「リリアベル君」と言い直す。
副支部長ミラ・ボルガンは、彼女の過去にあまり関心がない。帳簿が合い、職員が働き、冒険者が生きて帰ればそれでよいという人物である。ただし、リリアベルがたまに古代金貨を小銭感覚で使おうとすると、本気で怒る。
新人受付嬢のニナ・フローレスは、人間族の十八歳。明るく努力家だが、書類整理が苦手で、よくリリアベルに助けられている。リリアベルを理想の先輩として尊敬しているが、彼女が千年前の大魔導士だとは知らない。
買取担当のロッソは、獣人族の大男である。素材査定の目は確かだが、字が壊滅的に汚い。リリアベルは彼の報告書を読むためだけに、専用の解読表を作った。
常連冒険者には、若手パーティ「青い靴紐」、中堅パーティ「湖風の槍」、老狩人バルト、双子の魔術師リオとリタなどがいる。
彼らはそれぞれ問題を抱えている。無鉄砲、金欠、恋愛沙汰、武器の修理代、故郷への仕送り、パーティ内の温度差、引退後の不安。
リリアベルは、それらを受付窓口の向こうから見守っている。
時には余計な助言をしない。
時には一言だけ背中を押す。
時には依頼票をそっと差し替える。
ただし、本人はそれを「職務範囲内です」と言い張る。
■ 元S級であることの扱い
リリアベルは、自分が元S級魔導士であることを隠しているわけではない。
ただし、積極的に話さない。
理由は単純である。面倒だからである。
知られると、貴族から護衛依頼が来る。学院から講義依頼が来る。王都から復帰要請が来る。若い冒険者が弟子入りを求める。酒場で武勇伝をせがまれる。昔の知人が「久しぶり」と言って訪ねてくる。
そして何より、受付の仕事がしにくくなる。
リリアベルにとって、現在の楽しみは、朝に出勤し、依頼票を整え、新人に注意し、昼にお弁当を食べ、午後に報告書を確認し、夕方に無事帰還した冒険者へ「お帰りなさい」と言うことである。
英雄として崇められるより、受付嬢として頼られる方が、今の彼女には心地よい。
もちろん、完全に正体を隠し通せるわけではない。
古い魔術師は彼女を見て顔色を変える。
森の精霊は彼女に敬意を払う。
遺跡の封印は、彼女が近づくと勝手に静まる。
高位魔物は、彼女の笑顔を見ただけで逃げることがある。
だがセレナーデの日常はおおらかである。
「リリアベルさんだから」で、たいてい済まされる。
■ 受付嬢としての信条
リリアベルには、受付嬢としての信条がある。
一つ。依頼票は読みやすく。
一つ。新人には地図を二枚渡す。
一つ。無理な依頼は受けさせない。
一つ。帰還報告は最後まで聞く。
一つ。死者の名を雑に扱わない。
一つ。お茶は熱すぎないように。
一つ。冒険者を子ども扱いしすぎない。
一つ。でも本当に危ない時は止める。
彼女は、冒険者を英雄としてではなく、生活者として見ている。
冒険者にも家賃がある。食費がある。靴底が減る。恋人と喧嘩する。親に手紙を書く。怖い夢を見る。年を取る。怪我をする。引退後の暮らしを考える。
だから彼女は、依頼の成功だけでなく、その後の生活まで気にする。
討伐報酬を一晩で酒に使い切りそうな若者には、貯金箱を勧める。
毎回防具の修理を後回しにする剣士には、鍛冶屋の予約を入れる。
無茶をする魔術師には、休養日を勝手に予定表へ書き込む。
恋人へ手紙を書くのが苦手な冒険者には、文面を添削する。
それは過保護にも見える。
しかし、長く生きた彼女は知っている。
人は大きな戦いだけで死ぬのではない。
小さな無理を重ねて、ある日帰ってこなくなる。
■ リリアベルの魔術
現在のリリアベルは、日常で大魔術をほとんど使わない。
使うのは、湯を適温に保つ術、書類のインクを早く乾かす術、破れた依頼票を補修する術、雨の日に床を滑りにくくする術、花を少し長持ちさせる術、迷子の子どもの靴紐を結び直す術程度である。
しかし、その小さな魔術は異様に精密である。
彼女が淹れる茶は、必ず飲み手にとってちょうどよい温度になる。
彼女が補修した紙は、破れる前より丈夫になる。
彼女が掃いた床には、なぜか埃が戻りにくい。
彼女が干した洗濯物は、雨雲が避ける。
新人魔術師がその術式を真似しようとすると、たいてい失敗する。単純に見えて、魔力制御が細かすぎるからである。
支部長は一度、彼女に言った。
「君、その技術を戦場で使えば城壁くらい直せるだろう」
リリアベルは真顔で答えた。
「城壁より、書類棚の方が毎日壊れます」
■ 長寿ゆえの人生観
千年生きた者の時間感覚は、人間とは異なる。
リリアベルにとって、十年は少し長い季節であり、百年はひとつの時代である。彼女は王国の興亡、都市の再建、森の成長、友人の老い、弟子の死、子どもの孫の成人を見てきた。
それでも彼女は、現在を軽んじない。
むしろ、短く生きる者たちの一日を大切にする。
彼女は若者の焦りを笑わない。人間族が二十年で将来を決めようとすることも、三十年で人生を嘆くことも、五十年で過去を懐かしむことも、彼女には愛おしく見える。
「短いから、雑でいいわけではありません。短いから、よく光るんです」
これは、彼女が新人職員ニナに語った言葉である。
長く生きることは、何もかもを達観することではない。
忘れたくないものが増えることでもある。
リリアベルは多くを失った。
多くを見送った。
多くを救えなかった。
だからこそ、今は受付窓口に座り、今日帰ってくる誰かを待つ。
■ 物語の始まりとなる日常
セレナーデ支部の朝は、いつも少し騒がしい。
扉が開き、冷たい湖風が入り、冒険者たちが依頼掲示板へ群がる。酒場の主人が鍋をかき混ぜ、買取担当が素材箱を運び、新人受付嬢がインク壺を倒し、支部長が二階から怒鳴る。
リリアベルは三番窓口に座り、眼鏡をかけ、依頼票を整える。
その日の最初の相談は、角兎退治を受けたい銅章冒険者だった。
二番目は、湖畔の薬草園に出たスライム駆除。
三番目は、恋文を魔物討伐依頼の封筒に入れてしまった若者の泣きつき。
四番目は、森の古い祠から聞こえる歌声についての相談。
彼女はひとつひとつ対応する。
笑って、止めて、諭して、記録して、必要ならお茶を出す。
彼女は元S級魔導士である。
千年前、戦場を覆う結界を張った。
古代魔導炉を沈めた。
竜の咆哮を防いだ。
王侯貴族から名を呼ばれ、歴史書に異称を残した。
けれど今の彼女にとって大切なのは、目の前の依頼票の誤字を直すこと。
新人冒険者が生きて帰れる依頼を選ぶこと。
昼休みに温かい茶を飲むこと。
夕方、扉を開けて戻ってきた誰かに、穏やかに言うこと。
「お帰りなさい。報告を伺いますね」
これが、リリアベル・アーシェントの現在である。
かつてのS級魔導士。
千年を生きたエルフ。
湖畔都市セレナーデ冒険者ギルド三番窓口担当。
そして本人いわく、今の肩書きこそが一番気に入っている。
受付嬢、リリアベル。




