第9話「もう遅い」
――許すべきなのだろうか。
その問いが、朝の光の中で浮かんだ。
ヴァイスフェルト侯爵家の王都別邸。 セシリアは客間の窓辺に立ち、中庭を見下ろしていた。
昨日、レオンハルトの従者がギルベルトの面会を断ったことは聞いていた。 そして今朝、ギルベルトが再び別邸を訪れたことも。
階下から、父フリッツの声が微かに聞こえた。
「娘に会わせる理由がない」
低く、静かで、揺るがない声だった。
「フリッツ様、お願いです。セシリア嬢に謝りたい。僕は間違っていた。やり直してくれと――」
ギルベルトの声は切迫していた。 かつての柔らかさは失われ、震えを帯びていた。
「やり直す」
フリッツの声が、冷えた。
「三年間、娘を一人にしておいて、今さら何をやり直すと」
ギルベルトの返事はなかった。
セシリアは窓枠に指を置いたまま、動かなかった。
胸の奥で、古い癖が頭をもたげた。
――会うべきではないか。 ――相手が謝りたいと言っているのに、会わないのは冷たいのではないか。
三年間、「理解のある婚約者」を演じ続けた体は、まだその役を覚えていた。 相手の望みを受け入れ、自分の痛みを後回しにする。 その動きが、無意識に体の中を走った。
だが、次の瞬間、別のものが浮かんだ。
約束した。当然だ。
低い声。簡潔な言葉。 約束の時刻に一分の狂いもなく現れた人。 手紙のことを聞かず、ただ待っていてくれた人。 無理をするなと、真剣な目で言った人。
辺境での日々が、胸の中に温かく広がった。
大切にされるとは、こういうことだった。
あの日々を知った今、もう戻れない。 戻る必要もない。
セシリアは窓から離れた。
部屋の扉を開けると、廊下にマルガレーテが立っていた。
「お嬢様、下にはいらっしゃらない方が」
「いいえ。お会いします」
マルガレーテの目が見開かれた。
「お嬢様」
「自分の口で終わらせたいの」
セシリアの声は静かだった。 震えはなかった。
マルガレーテは唇を引き結び、一瞬の後、深く頭を下げた。
「……お供いたします」
階段を降りた。
一段ごとに、靴音が石の壁に反響した。
今朝、レオンハルトは商談の後始末のため、別の場所に出向いていた。 出発前、セシリアの顔を見て一言だけ言った。
「何があっても、夕方に迎えに来る」
それだけだった。 それだけで、足は前に出た。
応接間の扉を開けた。
フリッツが入口の手前に立っていた。 セシリアの姿を見て、眉がわずかに動いた。
「セシリア。会う必要はない」
「父上。お気持ちは承知しております。ですが、私自身の口で終わらせたいのです」
フリッツは娘の目を見た。
数秒の沈黙の後、一歩横に退いた。
応接間の奥に、ギルベルトがいた。
椅子には座っていなかった。 立ったまま、窓を背にしていた。 顔色が悪かった。 目の下に隈があり、頬が削げていた。
セシリアが入室すると、ギルベルトの体が揺れた。
「セシリア……」
声が掠れていた。
セシリアは応接間の中央で足を止めた。 マルガレーテが後方に控え、フリッツが扉の傍に立った。
「お話があると伺いました」
セシリアの声は穏やかだった。 丁寧で、平坦だった。
ギルベルトが一歩前に出た。
「僕は……間違っていた」
声が震えた。
「リゼットのことが全部嘘だったと知って、初めてわかった。僕は三年間、君を傷つけ続けていた」
セシリアは黙って聞いた。
「謝りたい。やり直したい。僕は、君に――」
「ギルベルト」
セシリアが、静かに遮った。
敬称はつけなかった。 婚約破棄後、身分上は上位者として敬語を使わせる立場にある。 だがセシリアは、最後にこの人と対等に話すことを選んだ。
「あなたは優しかった」
ギルベルトの目が揺れた。
「いつも誰にでも優しくて、困っている人を放っておけなくて。それはあなたの良いところだった」
セシリアは一度、言葉を切った。
呼吸を整えた。
「でも、その優しさは、私には一度も向けられなかった」
ギルベルトの顔が歪んだ。
「私の誕生日に、あなたは来なかった。卒業の舞踏会で、私は一人でした。三年間、私はずっと待っていた。あなたが振り向いてくれることを」
声は静かだった。 怒りではなかった。 責めてもいなかった。 ただ、事実を並べていた。
「強い君ならわかるだろう、とあなたは言った」
ギルベルトの体が、びくりと震えた。
その言葉を、自分が言ったことを覚えていた。 あの秋の舞踏会の夜、馬車に足をかけながら、振り返りもせずに言い放った言葉を。
今、その言葉がどれほど残酷だったか、ギルベルトの顔に刻まれていた。 眉が歪み、唇が引き攣り、目が揺れた。
「セシリア、僕は……」
「もう遅いです」
セシリアは微笑んだ。
穏やかな笑みだった。 かつて社交の場で浮かべていた、何も壊さない笑顔とは違った。 痛みも、怒りも、全てを通り過ぎた後の、静かな笑みだった。
「私は今、最高に幸せですので」
ギルベルトの口が開き、閉じた。
言葉は出なかった。
セシリアは一礼した。 深く、丁寧に。 それが、この人に向ける最後の礼だった。
「お元気で」
セシリアは踵を返した。
背後で、ギルベルトが崩れるように椅子の背に手をついた音が聞こえた。
振り返らなかった。
応接間を出ると、フリッツがギルベルトに向き直った。
「二度と娘に近づくな」
静かな声だった。 怒鳴りはしなかった。 だがその一言には、侯爵としての重みと、父親としての怒りの全てが込められていた。
ギルベルトは何も答えられなかった。
セシリアは別邸の二階に戻り、窓辺に立った。
頬が濡れていた。
いつ涙が出たのか、わからなかった。 応接間では泣かなかった。 廊下でも、階段でも泣かなかった。
部屋に入り、一人になった瞬間に、止めていたものが溢れた。
悲しいのではなかった。 少なくとも、ギルベルトを失ったことへの悲しみではなかった。
三年間の痛みが、体の外に流れ出ていく感覚だった。 長い間閉じ込めていたものが、ようやく出口を見つけた。
マルガレーテが背後に立ち、何も言わず、ハンカチを差し出した。
セシリアはそれを受け取り、目元を押さえた。
しばらくして、涙は止まった。
窓の外を見た。 午後の陽が傾き始めていた。
夕方になった。
別邸の玄関に出ると、通りの向こうから馬車の音が聞こえた。
辺境公爵家の紋章が入った馬車が、約束の時刻丁度に到着した。
馬車の扉が開き、レオンハルトが降りた。
長い外套の裾が風に揺れた。 こちらに歩いてきて、セシリアの前で足を止めた。
レオンハルトの目が、セシリアの顔を見た。
一瞬、その足が止まった。
泣いた跡に気づいたのだろう。 目元がわずかに赤く、睫毛がまだ湿っていた。
レオンハルトは何も聞かなかった。
無言のまま、自分の肩にかけていた外套を外した。 そして、セシリアの肩にかけた。
外套は大きかった。 セシリアの体をすっぽりと覆うほどに。 温かかった。 レオンハルトの体温が、まだ布地に残っていた。
セシリアは目を伏せた。
外套の温もりが、肩から胸に沁みていった。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
小さく、かすかに。
レオンハルトは何も言わなかった。 ただ馬車の扉を開け、セシリアが乗り込むのを待った。
セシリアは外套の襟を両手で合わせ、馬車に乗り込んだ。
レオンハルトが後に続き、扉が閉まった。
馬車が動き出した。
窓の外を、夕暮れの王都の街並みが流れていく。
セシリアは外套に包まれたまま、窓の光を見つめていた。
過去は終わった。
あの応接間に、三年分の全てを置いてきた。
外套の温もりが、今の自分の全てだった。




