第8話「嘘の終わり」
ギルベルトは、ランツァー伯爵邸の書斎で父と向かい合っていた。
父の手には一通の書簡があった。 宮内省の封蝋が押されている。
「読め」
父の声は低かった。
ギルベルトは書簡を受け取り、目を走らせた。
宮内省査察官による通達だった。 王都で医業を営むある医師に対し、常習的な文書偽造の嫌疑で査察が行われた旨が記されていた。
この医師は複数の貴族家に対し、虚偽の診断書を作成・発行していた。 ある子爵家の当主が、家族の病状について不審を抱き、別の医師に診察を依頼したところ、診断書の内容と実際の症状に重大な乖離があることが判明した。 子爵家が宮内省に訴え出たことで、査察が発動した。
査察の過程で押収された医師の帳簿と書類の中から、複数の貴族家に宛てた偽の診断書が発見された。
その中に、ホーエンベルク男爵家の名があった。
ギルベルトの指先が、冷えた。
書簡の文字がぼやけた。 もう一度読み直した。 同じ文字が、同じ場所に並んでいた。
ホーエンベルク男爵家。 リゼットのかかりつけ医。
「……まさか」
声が掠れた。
父が腕を組み、重い息を吐いた。
「宮内省からの通達だ。ランツァー伯爵家としても無関係ではいられん。お前はあの男爵令嬢の見舞いに何度も足を運んでいた。世間はそれを知っている」
ギルベルトは書簡を握ったまま、動けなかった。
あの日のことが蘇った。 ホーエンベルク男爵邸の廊下で見た、リゼットの姿。 普通に歩き、普通に笑っていた姿。 そして次の瞬間に見せた、弱々しい表情。
あれは。
あれは、全部。
椅子から立ち上がった。 膝が震えていた。
「ギルベルト」
父の声が追いかけてきたが、ギルベルトは書斎を出た。
ホーエンベルク男爵邸に着いた時、門前に見慣れない馬車が停まっていた。
宮内省の紋章が入った馬車だった。 査察官が、すでに来ている。
従者に取り次ぎを頼むと、しばらくして屋敷の奥に通された。
リゼットは自室にいた。
寝台の上ではなかった。 椅子に座り、顔を伏せていた。
部屋の隅に侍女が一人、青い顔で立っている。
「リゼット」
ギルベルトの声に、リゼットが顔を上げた。
目が赤かった。 だが、いつもの涙とは違う色をしていた。
「ギルベルト様……」
「聞きたいことがある」
ギルベルトは部屋の入口に立ったまま、一歩も近づかなかった。
「君のかかりつけ医が、宮内省の査察を受けた。偽の診断書を常習的に作成していた疑いだ。君の診断書も、その中にあった」
リゼットの唇が震えた。
「それは……何かの間違いで……」
「間違いか」
ギルベルトの声は静かだった。 だが、いつもの柔らかさはなかった。
「先日、僕が見舞いに来た時、君は廊下を普通に歩いていた。笑っていた。熱があるはずの人間の姿ではなかった」
リゼットの目が見開かれた。
「あれは、調子がいい日で……」
「三年間、ずっと調子が悪かった。僕が見舞いに行くたびに、君は寝台にいた。でもあの日だけ、僕が来ると知らない時間に、君は元気だった」
沈黙が落ちた。
リゼットの指がスカートの布を掴んでいた。 白い指先に、力がこもっていた。
「宮内省の査察官が持っていた帳簿には、君の名前があった。君が医師に金銭を渡していた記録も」
リゼットの肩が、大きく震えた。
否定の言葉は、もう出なかった。
長い沈黙の後、リゼットの口から、掠れた声が漏れた。
「……全部、あなたのためだった」
ギルベルトの息が止まった。
「あなたの傍にいたかっただけ。あの人がいたから……セシリア様がいたから、わたしはあなたに忘れられると思って……」
涙が溢れた。 リゼットは椅子から崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。
「わたしが弱くなければ、あなたは来てくれないから……だから……」
嗚咽が部屋に響いた。
ギルベルトは動かなかった。
目の前で泣き崩れるリゼットを見ていた。
同情が、胸の底から湧き上がろうとした。 いつもの癖だった。 目の前で弱っている人間を放っておけない。 その衝動が、体の奥から這い上がってきた。
だが、同時に別のものが浮かんだ。
セシリアの顔だった。
一人きりの誕生日の食卓。 卒業の舞踏会で壁際に立ち尽くす姿。 何度も何度も「お気になさらず」と微笑んだ顔。
あの三年間、セシリアが耐え続けた時間の全てが、この嘘の上に成り立っていた。
ギルベルトの拳が、強く握りしめられた。
「僕は……三年間、何を信じていたんだ」
声が震えた。 怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。
リゼットが顔を上げた。 涙に濡れた目が、ギルベルトを見上げていた。
手を伸ばそうとしていた。 いつものように、すがろうとしていた。
ギルベルトは一歩、後ろに退いた。
「三年間、セシリアを一人にした。全部、嘘のためだった」
リゼットの手が空を掴んだ。
「ギルベルト様……」
「もう、信じられない」
ギルベルトは踵を返し、部屋を出た。
廊下で、宮内省の査察官とすれ違った。 査察官はギルベルトに一礼し、リゼットの部屋に向かった。
その夜、王都の夜会で噂が広がった。
「ホーエンベルク男爵家の令嬢、ご存知?」
扇の陰で、貴婦人たちが囁き合っていた。
「あの病弱な子でしょう。どうしたの」
「病弱ではなかったのよ。全部、嘘だったらしいの」
息を呑む音がした。
「かかりつけの医師が宮内省に捕まって、偽の診断書がいくつも出てきたって。あの子の分も」
「まあ……」
「それだけじゃないわ。あの医師、他にも何人もの貴族に嘘の診断書を書いていたんですって。もう医師の資格を剥奪されたと聞いたわ」
扇が震えた。
「じゃあ、あの子がいつも倒れていたのも」
「全部、仮病ですって。ランツァー伯爵家の嫡男を引き留めるための」
沈黙が落ち、すぐに破れた。
「あら。じゃあヴァイスフェルト侯爵家のセシリア嬢は」
「ええ。三年間、嘘のせいで婚約者を奪われていたことになるわね」
貴婦人たちの表情が変わった。
つい先日まで、「健気な子ね」と同情を注いでいた顔が、冷たく引き締まっていた。
「ひどい話」
「侯爵家の令嬢に対して、男爵家の娘が。身の程知らずにも程があるわ」
噂は、夜会の端から端まで駆け抜けた。
翌朝、ギルベルトはヴァイスフェルト侯爵家の王都別邸を訪ねた。
セシリアに会いたかった。 何を言うべきかはわからなかった。 だが、会わなければならないと思った。
別邸の門で、レオンハルトの従者に出迎えられた。
辺境公爵家の紋章が入った外套を纏った従者は、丁寧に一礼した。
「ランツァー伯爵家のギルベルト様でいらっしゃいますか」
「はい。セシリア嬢に面会を……」
「申し訳ございません。公爵様とヴァイスフェルト嬢は、本日の面会の予定がございません」
声は穏やかだった。 だが、一点の曖昧さもなかった。
ギルベルトは口を開きかけた。
従者は微動だにしなかった。 門の前に立つその姿は、壁のように動かなかった。
辺境公爵の従者に、伯爵家の嫡男が押し通ることはできなかった。
ギルベルトは唇を噛み、一礼して踵を返した。
門が静かに閉じる音が、背中に響いた。




