第5話「届いた手紙」
――返事を、書くべきなのだろうか。
セシリアは机の前に座り、引き出しから取り出した便箋を見つめていた。
「話がしたい」
ギルベルトの筆跡。 ランツァー伯爵家の封蝋。 それだけの短い文面が、数日前から引き出しの中に眠っていた。
セシリアは便箋を広げたまま、指先でその縁をなぞった。
王都を発ってからずいぶん経つ。 辺境での日々は忙しく、充実していた。 燻製の手法は定着し、発酵食品の試作も進んでいる。 領民との距離も少しずつ縮まっていた。
それでも、この手紙を見ると胸の奥が軋む。
「お嬢様」
マルガレーテが部屋に入ってきた。 セシリアの手元にある便箋を見て、足を止めた。
「……また、あの手紙ですか」
セシリアは苦笑した。
「読み直していたわけではないの。ただ、返事をどうするか考えていて」
マルガレーテはセシリアの向かいに立ち、便箋に目を落とした。 その目が細くなった。
「お嬢様。失礼を承知で申し上げますが」
「何?」
「あの方は、また自分のことしか書いていません」
セシリアの手が止まった。
マルガレーテの声は丁寧だったが、その奥に抑えた怒りがあった。
「『話がしたい』。それだけです。お嬢様に対する謝罪もなく、何について話したいのかも書かれていない。あの方はいつもそうでした。ご自分の気持ちだけで動いて、お嬢様がどう感じるかは後回しです」
セシリアは黙って聞いた。
マルガレーテの言葉は正しかった。 この短い文面には、セシリアへの配慮は一文字もなかった。 「話がしたい」のはギルベルト自身であって、セシリアが話したいかどうかは問われていない。
三年間、ずっとそうだった。 ギルベルトの都合で約束が反故にされ、ギルベルトの感情で関係が動いた。 セシリアはいつも、受け入れる側だった。
――もう、その役は降りたのだ。
セシリアは便箋を折り畳んだ。 丁寧に、元通りに。 そして引き出しに戻し、静かに閉じた。
「返事は、書きません」
マルガレーテが小さく息を吐いた。 安堵の息だった。
「はい、お嬢様」
けれど、簡単ではなかった。
引き出しを閉じた後も、胸の中で何かがざわめいていた。
返事を書かないのは正しい判断だと、頭ではわかっている。 だが三年間「理解のある婚約者」を演じ続けた体は、別の反応を示す。
――冷たいのではないか。 ――相手が話したがっているのに、無視するのは。
その声が、内側から這い上がってくる。
セシリアは窓辺に立った。 辺境の空は今日も灰色だったが、雲の薄い場所から光が漏れていた。
冷たいのではない。 自分を守っているのだ。
そう言い聞かせた。 でもまだ、それを完全に信じることはできなかった。
レオンハルトには、手紙のことを自分からは言わなかった。
だが、レオンハルトは気づいていた。
手紙が届いた日、城館の使用人から手紙を受け取ったセシリアの手元を、レオンハルトは執務室の窓から見ていた。 封蝋に押された家紋は、距離があっても判別できた。 ランツァー伯爵家の紋章。
レオンハルトは何も聞かなかった。
翌日も、その翌日も、手紙について一切触れなかった。 セシリアと顔を合わせても、話題は領地の業務のことだけだった。
そのことに、セシリアは安堵した。 聞かれたくなかった。 説明したくなかった。 過去の傷を、この場所に持ち込みたくなかった。
けれど同時に、ほんの小さな寂しさもあった。 気づいてほしいのか、放っておいてほしいのか、自分でもわからなかった。
夕食の時間になった。
城館の食堂に、いつもの料理が並んだ。 セシリアが席につくと、膳の上にいつもとの違いがあった。
品数が、一つ多い。
小さな器に、温かいスープが盛られていた。 根菜と干し肉を煮込んだもので、湯気が柔らかく立ち上っている。
セシリアはスープを見つめ、それからレオンハルトの方を見た。
レオンハルトは上座で、何事もなかったように肉を切り分けていた。
「……レオンハルト様。今日は一品多いようですが」
レオンハルトの手が一瞬止まった。
「厨房が張り切っていた。俺は関係ない」
声は平坦だった。 目はスープの方を見ていなかった。
セシリアは口元に手を当てた。 笑いが漏れそうになった。
「そうですか。厨房の皆さんにお礼を申し上げなければ」
「ああ」
レオンハルトは短く答え、肉を口に運んだ。
セシリアはスープを一口含んだ。 温かかった。 根菜の甘みが、体の芯まで沁みた。
この温かさが、この人の不器用さが、今はただ嬉しかった。
食事の後、セシリアは自室に戻った。
マルガレーテが寝支度の準備をしながら、ふと口を開いた。
「お嬢様。一つ、お伝えしてよいですか」
「何かしら」
「今日、公爵様の従者の方と廊下ですれ違った際に、少しお話を伺いました」
マルガレーテの声がわずかに柔らかくなった。
「公爵様が、お手紙のことについて何もお聞きにならない理由です」
セシリアの手が止まった。
「従者の方がおっしゃるには、公爵様はこう言われたそうです。『本人が話したいなら話す。聞き出すのは信頼ではない』と」
空気が、止まった。
セシリアの胸の奥で、何かが大きく揺れた。
呼吸が浅くなった。 指先が震えた。 それが先に来た。
――聞き出すのは、信頼ではない。
その言葉が、胸の中で反響した。
三年間、セシリアは自分から痛みを語ったことはなかった。 誰も聞いてくれなかったからではない。 聞かれなかったからだ。 ギルベルトは、セシリアが何を感じているかに関心を持たなかった。 だからセシリアは語る場所を持たなかった。
レオンハルトは聞かなかった。 だがそれは、無関心ではなかった。
待っていてくれた。 セシリアが自分で話すことを選ぶまで。
便箋を握ったまま、セシリアは長い間動けなかった。 便箋ではなかった。 手に持っていたのは、寝巻きの袖だった。 無意識に握りしめていた。
沈黙が長く続いた。
マルガレーテが心配そうにセシリアの顔を覗き込んだ。
「……そうですか」
セシリアの声は小さかった。 かすかに、震えていた。
それ以上の言葉は出なかった。 出す必要もなかった。
マルガレーテは微笑んで、それ以上何も言わず、毛布を整え始めた。
セシリアは寝台に腰を下ろし、窓の外を見た。 夜空は暗かったが、雲の切れ間に月が覗いていた。
明日からも、ここでの日々は続く。 発酵食品の試作を進め、領地の暮らしを少しでも良くする。 それが今の自分の仕事だ。
過去に戻る道は、もう要らない。 引き出しの中の手紙は、そこに仕舞ったままでいい。
王都。 ある侯爵家の茶会の席だった。
淡い桃色のドレスを纏った少女が、ハンカチで目元を押さえていた。
「セシリア様が辺境に行かれたのは、きっとお辛かったから……わたしのせいかもしれない……」
リゼット・ホーエンベルクは、消え入りそうな声でそう言った。 華奢な肩が小さく震えている。
向かいの席で茶杯を持っていた中年の貴婦人が、眉を寄せた。
「あなたのせいですって? そんなことありませんよ」
「でも……わたしがいつも体を壊すから、ギルベルト様にご迷惑をかけて……セシリア様にも……」
リゼットの声は途切れ途切れだった。 涙が一粒、白い頬を伝った。
貴婦人はため息をつき、隣の令嬢と顔を見合わせた。
「健気な子ね。自分を責めることはないのよ」
リゼットは小さく首を振り、ハンカチを握りしめた。
茶会の席で、その「健気な姿」は幾人もの目に留まった。 同情の視線が、リゼットに注がれていた。




